残り ■-3 日「…あぁ?」

ネカフェの安っぽい合皮のフラットシートの上で、ブブブ、とスマホのアラームが朝を告げた。

寝ぼけているらしき修吾の指がシートを探り、やっとスマホにたどり着くとアラームを解除する。

大きなあくびを一つついて仰向けになった修吾がアプリを閉じると、意識が無くなる直前まで見ていたメモ帳の画面が表示される。

修吾はそれに一瞬目をやると大きく嘆息した。


メモ帳には昨日洗いだした奏多に関するリストが並び、そのうち、喧嘩とバイト先でトラブル、いじめの右側にはバツ印がつけられていた。


昨日の会話で、リストの中でも比較的平穏な選択肢がすべて潰れてしまった。

修吾はリストに残る『ウリ、通り魔、ストーカー、返り討ち』という言葉たちから漂う嫌な生臭さが、修吾の平穏を今にも奪っていきそうで両手で顔を覆う。

「ああもう研修も、あいつも、めんどくせえ…」呟いたのち、修吾はのろのろと出勤の準備を始める。


・・・


二時間目の講義が終わったタイミングで、修吾は榊に「よかったら一緒に行きませんか」とタバコを咥える動作で喫煙所に誘われた。修吾は顔にまたしても笑顔を貼り付けて榊についていく。

「いやあ、参りましたよ。昨日、うちの学校の生徒が補導されたらしくて。夜から緊急職員会議でした」

「ええ?!…深夜徘徊ですか?」

「それで済めばよかったんですけどね。持ち物から酒が見つかったってことで…」

「うわあ…それは…」


大変ですね、という言葉も軽々しく使えないくらいの大ごとだ。

臨時の全校集会での注意喚起だけでなく、生徒へのアンケート調査を元にした個別指導や、飲酒防止プログラムの内容見直しも行うことになるはずだ。

ちょうどこれからお盆休みという時期だが、きっと榊の勤める学校の教師は休み返上になるだろう。

榊を少しだけ気の毒に思う。


「明日全校集会です。頭が痛いですよ。…木村先生が羨ましくなります」

「いえ、その分、親への対応が難しいですよこっちは。僕らの世代って、生徒の親世代からは舐められがちじゃないですか」

「そうそう、何なんですかねえ、期待してくれるのは嬉しいですが、僕らも人だってことをわかってるんですかねあの人たちは」

榊はだいぶストレスと疲れがたまっているようで、口調こそ丁寧なものの、初日に話した時よりもだいぶ砕けたことを話してくれた。


「まあ、それでも飲酒未遂で済めば可愛い方ですけどね。…隣の班の教員、今日一人少なかったの気づきました?」

「え、いや…そうでした?」

きょとんとした修吾に榊は苦笑する。

「ええ、そうでした。さっきの休憩時間に聞いた噂ですけど、生徒が闇バイトで逮捕されて、その対応に追われてるんじゃないかって話です」

「…?!」

修吾は驚きに声を上げることもできない。


「ニュース見てないですか?これ」

榊がスマホを向けてくれる。修吾が中を覗き込むと

『闇バイトで出し子の疑い 港区の高校生、三十万円窃盗容疑で逮捕 高輪警察署』

という新着のニュース記事だった。

「…お休みの先生、港南地区の高校にお勤めだそうで。まあ、ただの憶測ですけどね」

ホント、怖い時代ですよ。と榊は小さく漏らすと、「ああ、また呼び出しが…すいません、ここで」と言ってスマホを耳にあてながら建物の中に引っ込んでいく。


一人残された修吾は、深刻な顔になるとニュースアプリを立ち上げてヘッドラインを追った。

今朝感じたばかりの嫌な生臭さがまた匂い立とうとしている。


…N大薬物問題部員の関与調査、SNSトラブルで同級生ら脅迫高校生ら五人逮捕、ショッピングモール駐車場で車内に男女三遺体、長野の十六歳女子高校生が行方不明、

技能実習生 昨年九千人超が失踪…


流れてくる見出しの物々しさが、隆宏と拓海と面白おかしく過ごしていた賑やかな時間を黒く塗りつぶしていくようだった。

『ウリ、通り魔、ストーカー、返り討ち』

リストに残った生臭い選択肢たちが現実味を帯び始めてきている。

「いや…流石に無いだろ…」修吾は初日の会話を思い出して呟く。

危ないことには巻き込まれていないと奏多は言っていた。

ただ、本当にそれを信じていいのか?あのときの奏多の顔を思い返すが、それが真実を示す顔なのか、こんなに真剣な話をこれまで彼女としてこなかった修吾には判断がつかない。


もし嘘だったとしたら、…どこまでが嘘だ。


修吾は奏多とのLINEを立ち上げ『お前、これまで俺と話した中で嘘ついてないだろうな』と送る。

すぐに既読がついたあと、はてなマークを頭上に掲げて首を傾けたひよこのスタンプに続き『急にどした?!基本的に誠実に話してるつもりだけど?でも一言一句レベルでと言われたら覚えてない、無理ゲー』という要領を得ない返事が返ってくる。

そこで休憩時間が終わろうとしていることに気づいた修吾は、舌打ちをすると小走りで講義室に戻りながら続きを打った。


『少なくとも家にいる間は嘘つかないと約束しろ』

『今日一個目、お前、危ないことに巻き込まれてないか』

そこまで打ったところでスマホをスラックスのポケットにしまうと講義室に滑り込んだ。講師がちょうど演台の前に立とうというところ。ギリギリ間に合った。

講義が再開されたところでスマホが小さくバイブする。

修吾は講師の目を盗みながらメッセージを確認した。

『約束りょ』

、修吾はじりじりともう一度スマホが鳴るのを待った。

彼女にしては返信が遅い。くだらないことは速攻で返事してくるくせに。


答えたくないから、迷っているのだろうか。

だとしたら、どういうことになる。


やがてブブっと鳴ったスマホを、修吾は爆弾でも見るように目を細めて確認する。

『質問の答えははい』

短く返されたその返答に修吾は胸をなでおろし、知らぬうちに入っていた肩の力を抜いた。

だとすると、ひとまず事件の線は考えなくてもいいだろう。

―本当に?とその返信の遅さが修吾の胸に黒いわだかまりとして残った。


・・・


午後の研修を、睡眠不足のせいで時折意識が飛びながらも修吾は無事にやり通した。

終わりのあいさつのあと喫煙所へと席を立つ。途中、幹事らしき教員から「懇親会は十分後に入り口に集合なので」と伝えられ、会釈を返す。


タバコを吸いながらスマホを確認すると奏多からLINEが届いていた。

『先生この文上手く訳せない。イミフ。教えてほしさある』

添付されてたスクリーンショットには英語の文章が写っていた。どうやら宣言通りアプリで勉強しているようだ。

文構造と単語の難易度から、難関大の長文読解の一部を抜粋した文だと思われた。

一瞬でその文を紐解くためのポイントを見抜いた修吾の指は迷わずメッセージを打つ。


『not A but Bの形を見つけな。後半は名詞構文を使って』

既読がついてから考えているらしき間があったあと、回答が送られてくる。それはほぼ修吾が想定した通りの文章になっていた。

奏多の飲み込みの良さに修吾の口の端が上がる。


『正解。名詞構文はよく出てくるから気付けるようになっときな』

奏多からはウサギが涙を流して喜んでいるらしきスタンプが送られてきた。

『お前、英語やってんの?数学の方が偏差値低いだろ』

『せっかく先生がいるから、今のうちにできないところ教えてもらおうかと思って。カテキョよろしく』

そのメッセージに修吾は笑みを深くしたが、すぐにその直前までのやり取りに目が行き、眉が寄せられた。


『なあ、俺、お前の校外の交友関係なんて把握してないぞ』

『?』というメッセージと先ほどとは違うはてなのスタンプ。

『お前殴った奴の話だよ。友達でも家族でもないならどっかの知り合いだろ』

『答えはいいえ』

「………あぁ?」

修吾の口からタバコがぽろりと落ちる。

周りで同じくタバコを吸っていた数人がこちらに視線を向けた。小さく頭を下げて修吾は続きを打とうと画面に目を戻す。

『知らないやつが、お前を狙って意図して殴ったってことか?』

『はい』

『通り魔だろそれ』

『いいえ』


「……」

意味が分からない。もう一度メッセージを読み返すが、知らない人間が誰かに危害を加えようとしたというのはそっくりそのまま通り魔の定義に当てはまるはずだ。


ややあって、奏多から『あ?!今日一個終わってたの忘れてた!!』とメッセージが届く。むきぃ、とサルが転がって悔しがっているスタンプ。

『今日はここまで。飲み過ぎて財布とか落とさないようにねー』

修吾は一つ得をしたらしいことに喜ぶことも出来ずに眉を寄せたまま、食い入るようにスマホの画面を見続ける。


ちょうどその時「懇親会、行かないですか?」と喫煙所を去ろうとする教員に声をかけられる。「あ、すいません」と足元で燃え尽きたタバコを灰皿に捨てると、奏多とのLINEには最後に一言だけ『ちゃんと飯食って寝ろよ』と添えた。



△▽△あとがき▽△▽

お読みいただきありがとうございます。引き続きお付き合いいただけると大変うれしいです。

次は修吾が酔っぱらうお話です。

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