残り ■-2 日「…いじめられてる?」

「…では、お配りしたシートのレーダーチャートを記入してください。そのあと、グループディスカッションを行っていただきます」


研修二日目、昨日と同じく五十人近くの面々が集まった講義室。修吾はやや酒が残る頭で講師の話を聞き流していた。課題のシートをしばらくながめるがペンはピクリとも動かない。


しばらくそのまま何かを思案した後でペンがようやく動き始めるが、つづられていくのは昨日出てきた不穏な言葉たちだった。


友人と喧嘩、家族と喧嘩、バイト先のトラブル、ウリ、通り魔、ストーカー、いじめ、返り討ち。

その言葉たちは、さあどれがいい、とでも言いたげに修吾を見つめてくる。

いじめか、家族と喧嘩くらいに落ち着いてくれ。頼む。と修吾はその文字たちに懇願するような目を向ける。


奏多はあの顔を母親に見られたくないと言っていた。もし家族と喧嘩だとすると、殴ったのは父親ということになるか。


修吾はペンをコツコツと額に当てる。その振動で、奏多の父親に関する情報がポロリと零れてこないかと思っていた。


奏多の父親の印象は極めて薄い。確か、会ったのは入学式が最初で最後だった気がする。

都内のそこそこ名の知れた企業の務めで、よく思い返してみれば修吾とは違い醤油顔で、比較的整った顔立ちをしていたような。


そのまましばらく彼の情報を探っていた修吾だったが、「残り五分です」の声に慌てて課題を埋めはじめた。


・・・


「…ただいま」


玄関の扉を開けた修吾が昨日のやり取りを思い出して帰宅を告げると、今日もキッチンに立っているらしい奏多が「おかえりなさーい」と扉の向こうから返事をした。


リビングに入ると、修吾は目を丸くする。

「…ええ…俺んち、そんなに汚れてた…?」

床には一冊の本もなく、微量ながら放置されていたゴミも片付けられていた。テレビボードに積み重なっていた雑誌も片付けられ、ひいき目に見れば物は多いもののモデルルームのように見えなくもない。


「いや、別に汚くはなかったよ。ただ散らかってただけで。テレビボードにあった雑誌は本棚のあのへん、床にあった本は種類ごとに分けて入れといた」

意外と几帳面らしい彼女は言葉も正しく使うのが好きなようで、わざわざ汚れていたのではなく散らかっていたのだと訂正した。


奏多は修吾が持っている袋から豚バラを取り出し切りながら言う。

奏多からのLINEで買ってくるよう頼まれたものだった。


「あと、インテリアっぽい置物たちもちょっと場所変えてみたけど、だいじょぶだった?」

「それは全然いいけど…」

呆然と部屋を見回す修吾を見た奏多が、口の端を生意気そうに持ち上げて言う。


「せんせ?私、部屋はノートと同じだと思ってんの。整理整頓されたノートって見てて気持ちいよねえ?」

ぐう、と顔をしかめた修吾を見て奏多は勝ち誇った顔をして、続いてかつおぶしを袋から取り出し、何かと和え始める。


「…今日の飯は?」

今日も良い香りが台所に満ちているのでつい修吾はそう聞いた。

「キャベツと豚バラの蒸し煮と、ピーマンとかつおぶしの和え物、あとはだし巻き卵」

「…お前、主婦かよ」

「なんと、今をときめくJKで~す」


ピコピコと効果音が聞こえるようなしぐさでフライ返しを振りながら今日もテキパキと料理をする奏多に、所在なくなった修吾はテーブルにつくとスマホを眺める。


「…先生、嫌だったら言ってね」

ん?と修吾が奏多に視線を向けると、彼女は真剣な顔でフライパンの火加減を見ながら続ける。


「私、片付けとか料理くらいしかできないからさ。でも、迷惑だったらやめるから」

未だに痛々しい頬をした奏多は修吾を見ないままそう言うと、セイッと言いながらだし巻き卵をひっくり返す。


修吾は一昨日からひたすら遠慮がちな彼女と、その彼女の教室での振る舞いとのギャップに眉を僅かにひそめ口を開こうとしたが、一足先に奏多が口を開く。


「先生、暇だったらテーブル拭いてくれない?」

「え」

「もうご飯できたから、早く」


ほら、と奏多からふきんを手渡される。発言権を奪われた修吾がテーブルを拭いていると、湯気が立ち上る料理が運ばれてきた。

その香りに促されるように修吾はおとなしくテーブルに着く。


「…いただきます」

「いただきまーす、先生、温かいうちにこれ食べてほしさがある」

まだ慣れない言葉を口にした修吾に、奏多はずいっとだし巻き卵を押し出した。


勧められるがままに綺麗な長方形になったそれに修吾が箸を差し入れると、ジワリと透明な出汁があふれ出た。

修吾はよく息を吹きかけてそれを口に含むと、噛み締めるような表情になる。


「あっはは、良ーい顔するねえ先生」

「いや、マジでうまい」

「だし巻きはやっぱり焼きたてっしょー」

「お前、意外といい嫁さんになりそうだな」


ビールを煽ったあとに言った修吾のセリフに、奏多は汚いものを見るような眼になると「おっさんじゃん…つーか意外ととかマジ失礼なんだけど」と小さく漏らした。


「おっさんだよ。うるさいな。…あ、明日は飯要らない」

「あ、そ?」

「研修の懇親会がある。こっちにも来れないかもしれないから、ちゃんと鍵かけとけよ。誰か来ても絶対出るな」

「研修?勉強会みたいなもん?先生になっても勉強することあんだ。大変だね。何やってんの?」


イジメの、と言おうとして修吾は口を閉ざした。それが不穏なリストの中にあったことにようやく思い至る。


「あーあのさ、…相良、お前…いじめられてる?」

「え?誰に?っていうか急にナニ」

「…その顔」

「あー、そーゆー話?まあまあ、とりあえずさ、温かいうちに食べようよ。ご飯は楽しく食べないと消化に悪いんだって」


奏多がキャベツと豚バラの蒸し煮を取り分けて修吾に寄越す。


修吾はしばらく奏多を見つめていたが、だし巻きうんまっ、私天才じゃない?と能天気に言う奏多に根負けしたようにため息をつくと彼女が取り分けてくれた皿に手を伸ばした。


「それ、塩コショウしてあるけど、ポン酢で味変も美味しいと思われ」

それを一口食べた修吾は、缶ビールをしばしにらんでから少しだけポン酢をかけた。


「そういえばお前、ずっと家にいて暇じゃないのか?」

「今時の女子高生はスマホがあれば一か月は家にこもってられるよ」

「ゲームとか漫画ばっかだと頭悪くなるぞ。あと、生活リズム崩しすぎるなよ」


「失礼すぎる。アプリで勉強してるってば。朝も八時までにはちゃんと起きてる」

「えマジで」

「先生、私のこと馬鹿にし過ぎじゃない?マジだよ。でもアプリだと限界あるから、問題集買おうと思ってる」

「お前、ちゃんとしてるなー…」

修吾の想像を超えてきちんとした生活をしているらしき彼女を修吾は唖然として見つめた。


「…今度教育委員会に投書しようかな。担任の先生が生徒のことを全くわかってくれませんって」

「おい、洒落にならないからやめろ」

奏多が修吾の傍らにあるポン酢に手を伸ばそうとするので、修吾はそれを取って手渡す。ピーマンを食んでいた奏多は飲み込んでからありがと、と礼を言った。


「ねえそういえば、ご飯、こんな感じで大丈夫?」

「こんな感じ?」

修吾はテーブルの上に並べられた料理に目を向ける。


キャベツの蒸し煮はキャベツと豚肉が均等に重ねられた綺麗な断面を晒している。ピーマンは丁寧に千切りされてつやつやと緑色に光る。だし巻き卵は綺麗な黄色で、見ているだけでふるふると揺れだしそうにしていた。


「…メニュー?献立?的な?」

「いや、十分だよ。俺の実家だとおかず一品とか普通にあったぜ。むしろこんなに作るの大変じゃないか」

「時間はいっぱいあるし、私が他にできることあんまないし。あと、先生が美味しそうに食べるの見てるの面白いから」さっきの顔、と言って奏多はくくっと笑った。


修吾もつられて苦笑すると「美味い物食べたらそういう顔になるだろ。お母さんに教えてもらったのか?ちゃんとお礼言っときな」と言う。


「はいはいそうですねー」修吾の言葉を取り合わず気のない返事を返す。

いつも通りの軽々しい口調に少しだけトゲを感じた修吾は少し顔を曇らせた。


「…お前、もしかしてそれ、親にやられたのか?」

「いいえ」

「あ、そう…」残念。奏多は愉快気に箸を左右に振ってみせる。

どうも、機嫌がいい時に手に持っているものを振るのが彼女の癖らしい。

それをみて、修吾は自分も彼女をまともに取り合うのをやめた。


「…じゃあ友達にやられた?」

「いいえ」

「えーっとじゃあ、バイト先かなんかの知り合い?」

「それ、どっち聞いてる?バイト先の人?それとも知り合い?」

「めんどくせえな。じゃあ、バイト先」

「いいえ。私、バイトしてないしね」

「…おいずるいぞ」

ざーんねん、奏多は楽しそうに言う。その顔はどこかほっとしているようにも見えた。



△▽△あとがき▽△▽

お読みいただきありがとうございます。引き続きお付き合いいただけると大変うれしいです。

次は謎解きのお話です。

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