残り ■-1 日「先に言えよ」

奏多が修吾の家に転がり込んできたその翌日。


文科省が定めたイジメ対策の研修初日を終えた修吾は、慣れないネカフェのシートで寝違えた首をさすりながら喫煙スペースで気だるげにタバコに火を付けた。

今日から三日間はこの研修会に参加する予定になっている。しかし、修吾が勤める進学校の生徒たちは幼いころから『良く教育されている』ので、この研修の内容が役立つことはほぼ無い。

首の痛みに加え、その徒労感が修吾の気だるさに拍車をかけた。


スマホを確認すると奏多からのLINEが入っていたが、修吾はそれを確認するより先に別のトークルームを立ち上げた。

学生時代からの友人たちとの修吾を含めて三人のトークルーム。

そこに『今日夜暇?』とメッセージを送り、続けてしぶしぶといった感じで奏多のメッセージを見た。


『先生今日帰り何時?適当に野菜とか肉とか買ってきてもらえますか。ていうか野菜室がカオスなんだけど』

というメッセージとともに、わざわざしなびた人参の写真までもが添えられている。


修吾は長く、長く煙を吐き出すと、タバコを咥えて返信を打つ。顔をしかめているのはタバコの煙のせいだとでも言いたそうな顔で。


『今終わったから六時頃には帰る。男の家の野菜室なんてそんなもんだろ』

すぐに既読がつき目を見開いたクマのスタンプが送られてきた。

『お前、具合は?』

『生きてる』

『それは具合じゃない』

『先生、ご飯の時お米食べる派?』


いちいち人を煽るようなメッセージにひそめられていた修吾の眉が、最後の一言を見て少し上がる。視線が最初のメッセージに戻った。


改めて意味を理解しようとして読み直せば、あの、終始世界を斜めから見ているような話し方をする少女と野菜室という言葉のイメージが結びつかない。


『お前、飯作ってるの?』

作れるの、と打とうとして少し迷った後にそう送った。

『私餓死するじゃん。私の分だけ作って先生の分作らないとかイジメっぽいし。ごはん買ってきてもらうのも悪いし』


「タイミング悪い…っつーか先に言えよ」

修吾は小さく舌打ちした。そのタイミングで新着メッセージの通知がポップアップする。


もう一方のトークルームの方に親友の隆宏から『明日原稿の締め切りだから、てっぺんまでなら』と送られてきていた。

それに追随するように拓海からも『俺も普通に明日会社だけど、そのくらいまでならいいよ』というメッセージが届く。


修吾の指は少し迷った後で、彼らに『飯食ってからになるから九時にSLAPで』と新宿にあるカジュアルバーを指定した。


奏多には『米いらない。冷蔵庫にビールあったっけ』と返す。

『あるっぽい。一本』

『わかった』

タバコを深く吸い込むと、ため息を紛らわすようにまたも長く長く煙を吐いた。


「…お疲れ様です?」ため息が聞こえたらしい、隣に立っていた男性が修吾に苦笑しながら声をかけてくる。


それは研修で同じグループだった、修吾と近い年頃の教員だった。確か榊という名だったはずだ。

「お疲れ様です。今日はありがとうございました」よそ行きの笑顔を貼り付けて修吾が応える。


「いえ、こちらこそ。木村先生は進学校にお勤めですよね。この研修はつまらないんじゃないですか?」

「…まあ、正直。うちの学校では、いじめの予兆すら年に一回くらいしか聞かないですし」

「え、そんなにですか?!」榊は柔和な笑顔を驚きに染める。

「ええ、僕があの高校を選んだのはその風土の良さが一番の理由で。たぶん勤めている教師の半分くらいは同じ思いだと思いますが」


ようやく知られてきたことだが、教師という仕事は、授業計画だの、学年主任との面談だの、クラスの生活レポートの提出だの、と授業以外の業務もあり多忙を極める。

そんな中でいじめや他の問題にかかずらうことなど可能な限り回避したかった修吾は、文字通り死ぬ気で勉強して、『治安のいい』その高校の採用試験に合格した。


これまで六年間は読み通り、忙しいながらも安定した生活だったというのに。


昨日家に飛び込んできた少女の姿が脳裏をよぎり、一体自分は何をしているのかと頭を抱えたくなった。榊がいなければ実際頭を抱えていただろう。


未成年、しかも担任しているクラスの女子、しかも名だたる私立高校の生徒を家に置いているなんて、誰かに知られたらどうする。ワイドショーがおかしげに報道するさまが目に浮かぶようだった。


「私の高校は問題が多くて、この前もいじめで生徒の一人が殴られて」

「…へえ?傷害じゃないですか?」天啓のように榊が持ち出した話題に、修吾の眉がやっと興味深げに少しだけ上がる。


「さすがに通報はしませんでしたよ。生徒の将来もありますし。それに、警察側も学校内の事件はほとんど教師任せで、殴ったぐらいのことでは取り上げてくれません」

「…そういうもんなんですか」

「ええ、それに、取りあってもらったとしても、こちらも大変ですよ。指導要録を出せとか何を出せとか」


げ。と修吾は内心顔を歪めた。指導要録とは、生徒の出席状況や成績などを記載した学校の公式記録だ。

その中には「総合所見」と言って、生徒の長所や、逆に努力を要する点などを記載する項目がある。その項目を埋めるのが修吾は大の苦手で、苦痛ですらあった。


奏多の総合所見はどうなっていただろうかと必死に思い出そうとするが、何の印象も無いということは、おそらく他の生徒と同様にスカスカになっているに違いない。


警察に出すとなれば、当然学年主任や、校長にも中身を見られることになるだろう。…それは避けたい。

それに、榊の例のようにただのいじめであれば、下手に警察に通報して問題を大きくすることも避けたい。

修吾の中で、通報するという選択肢が手の届く範囲よりまた少し遠くなった。


「他にも、兄弟げんかで家出した生徒もいましたし。…改めて、私の学校って問題の見本市みたいですが、やりがいありますよ」榊は自分で言って苦笑する。


その言葉に修吾は、ですか。と内心呟いて顔に笑顔を貼り付けた。

修吾の脳中で、榊の背中に『熱血教師野郎』というレッテルが張られた。加えて、『距離感に要注意』とも。


「じゃあ私はそろそろ。明日もよろしくお願いします」

下手に話の水を向けて熱血議論に巻き込まれてはたまらない。修吾は吸い殻を投げ捨ると、文字通り逃げるようにその場を立ち去ることにした。



帰宅途中、最後に榊から聞いた兄弟げんかという言葉に修吾は奏多の家庭環境を思い起こしていた。

奏多は一人っ子だ。両親のうち修吾がきちんと話したことがあるのは三者面談に来た母親だけだったが、年若い修吾にもまともな対応をしてくれた常識人らしき人で、話の内容からはどちらかと言えば奏多の意思を尊重する、やや放任主義のような印象を受けていた。


―あの母親くらい放任主義ならば、今回の怪我の件だって相談してもよさそうなものなのに。それとも、家庭内では意外と過保護だったりするのだろうか。まあ、いじめくらいだったら話を聞いてやらなくもない。…そのくらいのところに落ち着いてくれよ。


修吾は心から祈りながら、その少女が待つ家に重い足を運ぶ。

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