堕ちる
――ビュッ
明け方の冷たい道場に、竹刀が空気を割く音が響く。無心に、ただ無心に竹刀を振り下ろす王凱の周囲だけが、彼の身体から立ち昇る熱気でゆらめいている。
『……っ王凱』
王凱の脳裏には、あの日の、自分を見つめる彼女の怯えた瞳が、こびりついて離れない。
(あの男が現れなければ、俺は……――彼女を打ち倒していただろうか)
ビュッ
王凱の眉間には、痛みをたたえるように深い皺が刻まれる。手のひらの血豆は破け、眼差しはこれまでになく険を帯びていた。
ビュッ
どれだけ剣を振っても、離れない。
打ち倒した友の、苦痛と屈辱に歪んだ顔が。
こちらを見上げるあいつの、恐怖の滲んだ、濡れた黒真珠の目が。
「っ、」
バキッ
幻影を切り裂くように竹刀を振り下ろした先には何もない。ただ、折れた竹刀の先が転がっているだけだった。
(俺の身に、何が起きている)
**
「………ねえ、あれ一体何なんだろね。アルバ」
「知るか」
リオたちが拠点としているホテルから帝明学園へは電車で何駅か乗り継ぐ必要がある。これまでは車で登校していたアルバだが、今日はどういうわけかリオについて電車に乗ってきた。
たたん、たたん、と揺れる満員電車で、ドアのそばに追いやられたリオは、斜め上から降り注ぐ熱い視線を直視しないようそわそわと目を彷徨わせた。
「……アルバって、日本の電車似合わないね」
照れ隠しにそんなことを言えば、
「似合ってたまるか」の悪態と共に、いっそう距離を縮められた。
それはそれとして、だ。
駅に降り立った瞬間、リオたちが感じたのは、明らかに自分達を尾行する何者かの気配。
周囲を見回す。
学園の最寄であるため、帝名学園の制服を着た生徒たちばかりだが、明らかに見知った人影が三つ。三十メートルほどの距離を開けてつけてきている。
「伊良波んとこの双子と、五十嵐……?なぜ………あ、アルバ」
「行くぞ」
ど素人の尾行について深く考えることはやめたらしい。さっさと歩き始めるアルバの後に慌てて続く。
「おそらく藤野薊は、あの薬の効果を俺たちに実証するために、今日あたりからあの女を動かし始めるはずだ」
あの女とは、当然撫子のことだろう。
「ファロ、アドルフォ、ノーチェは、日中はずっとあいつにつかせる」
「あー……」
リオは、今朝方の憂鬱そうな三人の様子を思い出して納得した。リオが起きてくる前にアルバからの絶対命令が下されたらしい。
「ススピロはお前の護衛をさせる」
「え?いらないけど?」
「昨日さんざん煽った。大人しく守られてろ」
これもまた絶対命令なのだろう。
しぶしぶ頷いてからバレリアの任務を尋ねると「あいつは今日から1年の副担につく」と想定外の返答が返ってきた。
「え!?なんで!?クラス持つの!?すごい!」
「依頼人の指示だ」
心底面倒くさそうなところとみると、どうやら総二郎も噛んでいるらしい。
藤野薊と撫子をけしかけたからには、三年はアルバたちが、二年はリオたちが、一年はバレリアが、責任を持って守れということなのだろう。
リオはくるんと目を回して天を仰いだ。
「はー!いよいよ正義の味方みたい!」
「反吐が出るな」
(ほんとにヘド出そうな顔して言う)
「――――だが、どうせもうすぐカタはつく」
校門をくぐる直前、アルバは腰をかがめ、さっと彼女の唇にキスを落とした。リオはぎょっとして飛び上がる。
「なっ、ア……!」
「忘れるな。リオ」
真っ赤になって狼狽していたリオは、アルバの瞳をのぞいてつい言葉をなくしてしまった。
その目の奥が、驚くほど静かな情熱に燃えているのを目の当たりにしてしまったからだ。
「お前を自由にさせるのはこのひと月だけだ」
「……」
「カサレスに戻ったら、」
一度言葉を切ったアルバがリオの首にゆっくりと腕を伸ばす。
「っ、」
喉元に触れられた瞬間、リオは思わずびくりと身を縮めたが、彼は親指で彼女の首元のコンシーラーを拭っただけだった。
「……アルバ」
鏡なんかなくても、アルバの満足そうな顔を見れば、昨日彼がつけた赤い痕がしっかりと浮き出してしまったことがわかる。
「カサレスに戻ったら、
当面、お前を自由にはしてやらねぇ」
それだけ言って離れたアルバは、リオの手綱を離すようにさっさと校舎へと向かってしまった。
「………」
しかしリオは、なかなかその場から動くことができない。
アルバの強すぎる独占欲の、その中に込められたリオへの深い愛情が――――時々、怖くなるくらいの深い想いが、少女の脳をびりびり痺れさせて、気を抜けば座り込んでしまいそうになる。
(もしかして私、けっこうまずい……?)
藤野撫子の脅威なんかまったく目じゃない危機的状況を察し、リオはようやく、自分の行き当たりばったりな行動を後悔し始めていた。
**
「……とんでもないもの見ちゃったわね、那由多」
「うん、とんでもないもの見ちゃったね、刹那」
ふんすふんすと鼻息荒く小声を交わし合う双子の背後で、五十嵐は重いため息をついた。
(……あーあー、朝からすっげ
彼の視線の先には、右手右足を一緒に出してギクシャク歩くリオの姿がある。ついさっき、恋人である三年のスカした野郎からキスをされて固まっていた彼女は、ようやく動けるようになったらしい。
(つーかふつう校門でキスとかする?海外じゃキスは挨拶ですってか?クソが!ここ日本なんだから郷に入っては郷に従えよ!つーかリオに関しては全然平然装えてねえし!お前が今挨拶したの二宮金次郎だからな!)
「は〜〜……………お前らのせいで朝からすげーナイーブ。昨日はとんでもねーカーチェイスに巻き込まれるし。マジ災厄でも背負ってんの?」
「昨日のは仕方ないでしょ!ミゲル先輩途中でいなくなっちゃって、あのノーチェとかって先輩達の乗った車追いかけるしかなかったんだから」
「一般タクシーじゃ追いつけないスピードで撒かれたのはほんとに悔しかったです……。次は伊良波家の専属ドライバーを召喚する」
「競うなっつの」
ため息をつきながら下駄箱にローファーを入れる。
先週までは毎朝溢れんばかりのラブレターが詰まっていた下駄箱は、今やすっかり閑古鳥だ。全部あの留学生軍団に掻っ攫われてしまったのだろう。許せるか許せないかと言ったら絶対許せない。
「つーか、あれ見てもまだオニーチャンの恋路応援する気?どう見ても勝ち目ゼロじゃん」
「「うちのお兄ちゃんのほうが絶対かっこいい」」
「あっそ、もういいわ」
アホな後輩達を捨て置いて上履きに履き替えれば、目の前を東が通り過ぎていった。
「おー、東」
五十嵐の呼びかけには気付かず、東が近付いていったのは五十嵐の知らない男子生徒。
二人は声をひそめるように一言、二言交わし、教室とは別の方向へと連れ立って歩いていった。
「あれ、東先輩、瀬川くんと親しかったんですね」
「瀬川?」
意外そうに言う那由多に、首を傾げて尋ねる。どこかで聞いたことがある名前だ。
「剣道部の瀬川千紘くんです」
「……あー、思い出した。志摩の後輩か」
「志摩さんって言えば、今入院中だったわよね、たしか。あの王凱先輩と打ち合って怪我したって噂になってたけど、大丈夫かしら」
「……」
志摩と王凱。
打ち合いで入院。
それに、今少し見えた東の、どこか血の気の引いた横顔。
(……まさかな)
五十嵐はざわざわと胸に湧いた胸騒ぎに気付かないふりをして、自身は教室に足を向けた。どうせ今日も教室で会うのだ。異変があったらその時にでも聞けばいい。
「………なんだよ、この写真」
そんなふうにたかをくくったことを後悔したのは、掲示板に張り出された、その写真を目の当たりにした時だった。
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