五十嵐ミナトの選択
放課後の心地よい風がそよそよと吹き流れる中庭で、生徒会役員、そしてセレモニー実行委員の生徒たちは各々が任された作業に勤しんでいた。
(さすが俺。めっちゃいい出来じゃん)
ウェルカムゲートの土台を組み立て終えた五十嵐が一汗拭っていると、背後から自分を呼ぶ声が聞こえてくる。
「ミナト君」
振り返ると、手を後ろに回した撫子が近くに立っていた。
「はい。これどうぞ」
やわらかい微笑みと一緒に差し出されたのはスポーツドリンクだ。
驚いて顔を上げると、撫子ははにかむように告げた。
「ずっと没頭してたから、水分とってないんじゃないかって思って」
「マジ……?俺に買ってきてくれたの?」
「みんなには内緒ね」
しー、と口元に人差し指を当てる仕草に、胸がきゅんっと締まる。
しかし次の瞬間、俺はさっと顔を青ざめさせた。
撫子の服の袖から、青っぽい大きなアザが垣間見えている。
「お前、それ」
「!」
撫子は慌てたように腕を後ろに隠した。
「こ、これはその、何でもなくて」
「………撫子。こっち来て」
撫子の手を優しく引いて、人気のないところへ誘導する。
「東」
「五十嵐?」
「ちょっと来い」
作業途中だった東もまた、五十嵐のその深刻そうな声に大人しく腰を上げた。
生徒たちの少ないところに移動すると、五十嵐は彼女を怖がらせないよう、落ち着いた声で尋ねた。
「………見ていいか?」
しばらくためらった様子を見せていた撫子が、小さく頷く。
袖をめぐり上げた五十嵐、東は、それを見て愕然とした。
「……んだよ、これ」
白くて細い腕に浮かぶ、何かで強く叩かれたような無数のアザ。引っ掻き傷。
「お願い、ミナト君、清四郎君……っ」
撫子は震えた声を漏らすと、堪えかねたように涙をこぼした。
「誰にも、言わないで……!」
「撫子、さん」
「もし皆に言ったって気付かれたら、私またリオちゃんに――」
リオ。
……また、あいつがやったっていうのかよ。
「―――五十嵐。撫子さんを会長のところへ」
身を翻した東に尋ねる。
「……お前は」
「言わなくてもわかるだろ」
東の目を見た五十嵐は、その仄暗さについ口を閉ざした。
「最近の僕は、少し、甘かったんだと思う」
東はぽつりとこぼした。
「国が違えば思想も違う。あいつはやっぱり、この学園にいるべきじゃなかった。僕らはどうしたって特別な人間だ。なのに彼女みたいな異端児を、理解しようだなんて思ったから、そんなくだらないことをしようとしたせいで――大切な人を、傷つけることになった」
ごめん。
力無く言った東の表情には、諦めに似た何かが浮かんでいた。
「撫子さんの痛みは、あいつにちゃんと返すから」
「清四郎君、だめ……!」
撫子の声も聞こえないかのように立ち去っていく東。撫子は目に涙を浮かべて五十嵐の胸元にすがりついた。
「どうしよう、ミナト君、このままじゃリオちゃんが」
「べつにいいだろ。あいつの自業自得だし」
本心からの言葉だった。
なのに、妙に胸の底がざわつく。
「……撫子。廻神んとこ先行っててくれるか?」
不安げにこちらを見つめる撫子の頭を撫でる。
「俺も、あいつに聞きたいことあるから」
**
俺の部屋には、よく夏が来る。
「ミナト!いつまで寝てんの!」
「っでぇ!!!」
「起きろバーカ!」
からからと笑うそいつの声は、真夏に木陰を流れるような、涼やかな風に似ているとよく思った。
「朱音さァ、お前なんで毎日俺の部屋迎えに来んだよ」
「琴江ちゃんにお願いされて」
「だから人の母親ちゃん付で呼ぶなっつーの!てかいつの話してんだよ!」
「う〜ん、小1の時だったかな。ミナトがおもらしして」
「してねーよ!!」
真っ赤な顔で否定すると、またおかしそうに笑う。
朱音が俺のことを好きなのは、とっくの昔から知ってた。だけど俺はどうしたって朱音をそんなふうには見れなくて、だから、あいつに次の恋人ができるのを、ずっと待ってたんだ。
「ミナト、今日うちおいでよ!お母さんカレー作るってさ!」
「……おう」
恋はできなくても、あいつは間違いなく俺の一番の親友だった。
あのクソだけど顔のいい両親に年々似てきちまってる俺を、中身で見てくれる、唯一の人間だと思ってたから。
でも、そんなのは幻想だった。
後輩を階段から突き落として笑うあいつを見た時、俺は、そう思ったんだ。
**
(裏切られんのって、慣れねーもんだよな)
イングリッシュガーデンの奥へ続く通路を歩きながら、五十嵐はぼんやり思った。
リオが作業用の段ボールを抱えてこちらのほうへ向かうのを、1時間ほど前に見ていたのだ。
(つーか俺、何でリオがあの狐面の女だって思ったんだっけ。普通に考えてありえねーじゃん)
あれだけ強いなら、クラスでひと暴れすれば誰も手出しできなくなるはずだ。
水をかけられることも、悪口を言われることも、机に落書きをされることもない。
つまり、リオとあの狐面の女は、まったくの無関係だということ。
(……なんか、もう、めんどくせーな全部)
五十嵐の中に、気だるさにも似た倦怠感が広がる。
こうなるのは決まって、自分が何かに期待していたと気付いた時だった。
期待するから裏切られる。
期待するから落胆する。
もう、ずいぶん前から気付いていたことなのに。
(………いた)
リオは完全に人の目から隠れた木陰に腰掛けていた。
彼女の横に置かれた箱には、溢れんばかりのペーパーフラワーが。入りきらなかったものは、膝の上やその周囲に散乱している。
投げ出された手の先にも作りかけらしきものが転がっていた。
リオは、すうすう寝息を立てて眠っていた。
近くに人が来た気配でも感じたのだろうか。不意にその寝顔が、ふにゃりと綻ぶ。
「………ア…ルバ」
五十嵐の胸の中に、得体の知れない、どす黒く汚い感情が込み上げてきた。
撫子のあのアザの浮いた白い肌が頭によぎる。
(そうだ。)
東もそうすると言ったように、同じように、リオの肌にもそれを刻みつけてやればいい。
爪を立ててたら驚いて目を覚ますだろう。
暴れるこいつを抑えて、引っ掻いて、跡がつくほど噛みついて、痛みに呻くこいつの姿を上から見下ろすのは、
さぞ、いい気分だろうな。
(ざまあみろ)
傍に膝をつき、五十嵐はゆっくりと腕を伸ばした。
「……」
しかしどういうわけか。
それ以上少しも指を動かすことができない。
(……何だよ、なん……だよ……)
あとからあとから、ボロボロ溢れ出してくる涙を留めることができない。
シャツの袖で強く何度も目元を拭うが止まらない。
耳の奥にこびりついた母親の声が蘇る。
『あなたは最高傑作ね、ミナト。わざわざ父さんと結婚した甲斐があったわ』
『……?母さん、それ、どういうこと?』
『私ね、私に似た可愛い女の子か、男の子しか産みたくなかったの。せっかく痛い思いして産むんだもの。あなたが美形に生まれてくれて本当によかったわ』
腹の底に重く沈澱する、父親の声が蘇る。
『お前もなるべくいろんな女に子供産ませろよ、ミナト』
『……は?何だよそれ』
『認知なんか別にしなくていい。最悪金で解決できる。優秀な遺伝子を持つやつは、そういうふうに社会に貢献するもんなんだよ』
『……母さん、泣いてたぞ』
『勝手に泣かせとけ。あいつも俺の顔が目当てで擦り寄ってきたんだ。ま、愛してるって言って欲しいだけなら、とびきりのをいくらでもやるけどな』
恋なんか、まやかしだ。
愛は、嘘と見栄のかたまりだ。
なのにお前は、
「――私は、むりなの」
そんな顔であいつへの想いを語るんだな。
ほのかに染まった頬や、微かに噛んだ唇の隙間から発された声に、思わず呼吸を止めて見惚れた。
それがあんまりにも綺麗に見えたから。
「――勝手に、口からこぼれちゃうんだもん。こんなに愛しいと思ってるのに、それを伝えずなんかいられない」
あの時から、五十嵐はずっと焦がれていたのだ。
こんなふうに人から想われたら、それはどんなに幸福か、想像せずにはいられなかった。
(……俺が、そんなやつ傷つけられるわけねーじゃん)
五十嵐は無言で立ち上がってその場を去った。
暴走寸前の東を止めにいくため。そして、撫子に会うために。
(全部はっきりさせてやる)
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