なかなおり

 空き教室にやわらかな午後の日差しが差し込んでいる。

 昼休みの終わりを告げるチャイムはすでに鳴っていたが、アルバは一向にリオを解放しようとしていなかった。


「もう一度言う」


 拘束した敵組織の幹部に情報を吐かせるときのような声で、アルバが告げたのはこんなことだ。


「俺以外の男に触れるな。肌も見せるな。笑いかけんな喋りかけんな親切にするな」

「わ、わかった……」

「駄目だ。テメェは何も分かってねぇ」

「分かったってば!だから、もう離してよぉ……」


 横抱きに近い形で彼の膝に座らされたリオは、腰にぎゅっと巻きついた腕や、耳の少し上で語られる声に、真っ赤になって顔を覆った。


 リオからアルバにくっつくことはよくある。

 夜だって同じベッドで抱きしめられて眠る。

 でも――、アルバは今半裸なのだ!半裸の男性に抱きついたことなんか一度もない!それはもう、痴女のやることだからだ!


「今誰か来たら絶対まずいよ……最悪、停学かも」

「服を脱いだだけだ。てめぇが身をもって大丈夫だと証明しただろ」

「うぐ」


 鼻でせせら笑うアルバ。

 これは確実にリオへの仕返しも兼ねている。


 濡れた服のかわりに着させられたアルバのワイシャツはどう足掻いても大きく、ギリギリスカートを覆わない程度。しかも全身からアルバの匂いがするのだ。それだけでリオはもうくらくらして仕方ないのに、アルバの拘束は強まるばかり。


「……ね、もう離して……」

「離さねぇ」


 背中に回された腕と、どうしたって視界に入ってくるたくましい上半身から必死で目を逸らす。

 今一度リオを強く抱きしめ、深く息を吸ったアルバが、それを長く吐き出した。


「リオ」


 声のトーンが変わった。

 かと思うと、黒髪の隙間から、夜明けの色の瞳がリオを見つめる。

 近付いてくる端正な顔に、リオはばくばく心臓を跳ねさせた。


「……ア、ルバ……?」


 唇が、触れそうな位置でぴたりと止まった。

 リオはつい顎を引いてその瞬間を待ちかまえたが、いつまで経ってもやわらかなその感触は訪れない。


 視線を持ち上げると、綺麗な顔が変わらずじっとこちらを見つめ続けている。

 アルバがゆっくり顎を持ち上げ、挑戦的な眼差しをリオに向けたところで、リオはハッと気がついた。


(まさか、私からしろってこと……!?)


 ぼっと全身染め上がった。

 再三言おう。

 リオからアルバにキスをするのなんかしょっちゅうだ。しない日はないくらいだ。頰にも額にも、鼻先にも瞼にも、もちろん唇にだって、とびきりの愛を込めていつもキスの雨を降らせている。


 でも、こんな雰囲気の中でするキスが、それと同じとは思えない。


 リオはひどく恥じらって俯いたが、アルバは助け舟を出す気はないらしい。無表情にこちらを見ながら、(断固として譲らないという強い意志さえ感じる)早くしろと微かに眉を寄せている。


(……やるしかない)


 今や破裂寸前の心臓で、リオはとうとう覚悟を決めた。



 アルバの胸元のシャツを両手で握り、震えながらゆっくり顔を近づける。

 細められたその目から逃げるように視線を落とし、薄い唇にキスをした。

ちゅ、と控えめな音がする。


「……」


 顔を離せば、もう一回と目線だけで促され、リオはおずおずと再び口づけた。さっきよりは緊張しないかも、と思ったのも束の間、頰に手を添えられ、柔らかい唇を食まれるように堪能されて、リオは呆気なくだる羽目になった。



 それからしばらくの間、溶け合うようなキスの隙間に、アルバはリオの手をとって指を絡め、髪をき、耳たぶを撫で、リオがつい涙目になって困惑するほどに彼女を甘やかした。


 ややして顔を離したアルバは、溶け切った恋人の姿を見て口角を上げる。 


「……翻弄ほんろうされて、いい気味だ」

「ひどい……」


 上気した顔で睨むが、アルバは気にせずにリオの目元に触れた。

 先程ずいぶん泣いたせいで赤く腫れてしまっているだろう。鼻も詰まっているので鼻声だ。

 さぞかし不細工だろうな、と居た堪れなく思って顔を伏せれば、すぐに顎をすくわれた。

「どこ見てる」

 不機嫌そうに問われる。


「……だって、今顔ひどいでしょ。あんまり見ないで欲しい」


 リオがそう言うと、アルバは微かに目を見開き、やがて後ろめたそうに目を逸らした。



「………お前を泣かせたいと、思ったことは、ねぇよ」



 どうやら、リオがぼろぼろに泣いたことを気にしているらしい。アルバがそんなふうに思う必要は少しもないのにと、リオは苦笑しながら、大きな手のひらに頬を寄せた。その心地よい冷たさに身を委ねる。


「私の心も体も、全部ちゃんとアルバのものなのに……。もう絶対に誰にも見せないし触らせないからね」


心を込めて言うが、アルバは「信用ならねぇ」と目を細めるばかりだ。


「あのねアルバ!私は今本気で、」

「別にいい」

「え」


 とん、と机に下ろされ、顔に影がかかる。

「……アルバ?」

 久しぶりに、彼の悪く笑った顔を見た気がする。



「――安心しろ。どのみちもう迂闊には脱げねぇ」



***



(……っそいわね。何してるのよあのクソ教師)


 撫子は内心で悪態をついた。

 実はこの週末、彼女は塩谷の自宅で行われるホームパーティ(選ばれた生徒のみが参加できる)に出席していたのだ。

 撫子と同様に呼ばれていた東がいなかったのは驚いたが、なんとあのショッピングモール襲撃事件に巻き込まれていたというのだからそれは仕方ない。日本も物騒になったものね、と、撫子の認識はその程度だ。


 話を戻そう。

 塩谷のホームパーティに出席した目的はもちろん、リオ=サン・ミゲルを追い込むための布石を打つことだ。

 おかげで、学園でそれなりに地位を持つ生徒や塩谷自身にもあの女の悪行を吹き込むことができた。


 今週からのいじめはさぞ苛烈になるだろうと楽しみにしていたのに、まさか、その筆頭である塩谷がいつまで経ってもクラスに現れないとは。



(もしかして授業が始まる前にもうあの女を捕まえて、吊し上げてくれてるとか?)


 その可能性は十分にある。

 現に今リオの席は空席だ。

 Deseo幹部として名の通る二人の席も空いている。


(もしかしてあの教師バカ、ノーチェとススピロまで標的にしたのかしら。フフ、だとしたら終わりね。今日の夜にでも殺されるでしょ。かわいそう。御愁傷様)


 駒が減って残念、程度の認識である。

 打って変わってくすくすと笑みを浮かべた撫子は、教室後方の扉が控えめに開く音を聞いてすっと背を正した。

「オイ、堂々と遅刻かよミゲル」

「真面目にチャイム守ってる俺らに謝罪しろよな」

 と数名の罵声が耳に入ってきて、あの女が戻ってきたのだと知った。


(さぞかし追い詰められた顔をしてるんでしょうね。かわいそう。優等生で優しい私が、そんな哀れなあなたを慰めてあげないと)


「リオちゃん――――」

 心配そうな顔を作り直した撫子は振り返り、ぴたっと、動きを止めた。


 さっきまでリオを嘲笑っていた男子たちが真っ赤な顔で固まっている。「あ、お、お前、それ……」と二の句も告げなくなっているのは山口だ。


「……遅刻して、ごめんなさい」


 明らかに男子用のシャツは、一番上のボタンまで止めてもどこか襟が抜けて見え、そこにいくつも垣間見える虫刺されにも似た赤い痕。

 極め付けに、この教室の誰よりも顔を上気させ、目を潤ませているのが彼女だと言うのだから決定的だ。


 クラスメイト全員の頭に浮かんだのは、先週留学してきた、一つ上のあの怖そうな黒髪の男子生徒。


「あ。リオじゃん。オマエも今戻り?」

「あ、ノーチェ……」

「……つかれた」

「ススピロ」


 連れ立って戻ってきた留学生チームにクラスメイトたちの視線は集まる。三人が揃うとまるで映画の中のようだと思ったものも少なくない。


「つーかリオ、それウケんね。首ヤベーけど」

 誰もが気になっていることを突っ込んだノーチェ。

「う」とリオの赤さが増す。

「まあ首領……じゃねーや、アルバかなりブチ切れてたもんな。そんだけで済んだだけマシじゃね? 言っとくけどオマエがわりーから」

「……うぬぬ」

「リオ」

 ススピロが何かを差し出した。四角くて薄いそれ。


「次はちゃんと使わなきゃだめ」

「がが学校でそんなことするわけないじゃん!!ススピロのばかっ」


 ほとんど声にならない声で真っ赤になって叫んだリオの言葉に、じゃあどこまでやったんだ、と悶々とする男子達。

 ばきりと何かが折れた音がした。


「ふふ、リオちゃんすごい真っ赤。かわいー」


 撫子の机の中には、真っ二つになったシャーペンが転がっていた。

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