これにて一件「落着」

 一方の東は、涙でびしょぬれになった子供を抱え、疲弊したように階段を登っていた。一瞬見失った小さな影をすぐに見つけられたのはラッキーだったが、一緒に逃げていた五十嵐とは完全にはぐれてしまった。


(さっきの奴ら、どうなったかな……。五十嵐も、ちゃんと無事だよな)


 考えれば考えるほど不安の渦に取り込まれる。

 とにかく今は、状況が知りたい。

「ひっく、ひ……うう」

 腕の中の子供がまたぐずりはじめ、東は天に祈りたいような気持ちで子供の前に膝をついた。

 周囲を見渡すが、黒服の男たちの姿はない。 

「ママ……ママぁ……」

「なあ、頼むよ、泣かないでくれ。僕が必ずママのところに連れて帰るから」

「やだぁ、ママがいいぃ……!!」


 もうずいぶん長く母親とはぐれているのだから、不安で感情のコントロールが効かないのだろう。

 再びわんわん泣き始めた少女に手も足も出ず、東は思わず、少女を放り出して逃げ出したい衝動に駆られた。

 はっとして頭を振る。

 そして襲ってくるのは、いつもの自己嫌悪。


(……僕は、いつもこうだな)


 自分で助けると飛び出していっておいて、なんて勝手な話だろう。

 いつだって、理想と少しでもそぐわないことがあれば、目をつぶり、それを否定したくなる。

 これだけしてやったのにと、見返りを求めたくなる。

 東はこんな自分のことが好きではない。

 まるで、のようだから。


(清四郎、あなたは、医者の家系に生まれたのだから、人に尽くさなければだめよ)

(一流の教育を受けさせてあげるんだから、一流の医者にならなければだめ)

(東家の誇りを持って生きなければだめ)


 脳裏に母の言葉を思い起こしながら、東はつい笑ってしまった。


「――リオ=サン・ミゲル」

「――少しは帝明学園の生徒たる自覚を持ったらどうだ?」

「――君は生徒会の理念を大きく損なっている。今からくらいは一生懸命尽くしてもらわないと、ここに置く価値すらないよ」


 まるで、母そのものだな。



 自分の扇動でクラスメイトが彼女の迫害を決めた時。

 正義をかさにきて、言葉で彼女をなじった時。

 東は笑っていた。気持ちが良かったのだ。

 まるで、自分が強く正しい人間のように思えたから。


 けれどそのあと東を襲うのは、いつだって、仄暗く、粘りつくような後悔。


 このまま大人になったら僕は、正しい生き方を押し付ける母のように、生徒を服従させたがる塩谷のように、なるのだろうか。

 ――まあ、なるんだろうな。

 どれだけ抗おうとも自分の人間性の修復は、もう難しいのかもしれない。


 顔を上げると、等間隔に並ぶ窓から午後のうららかな陽光を感じる。

 



(でも、あの子は、すごかった)


 夏の強い日差しのように颯爽と現れて、自分のよりはるかに屈強そうな男たちに少しも臆さず、どこか楽しげに戦っていた。もう一人の男もそうだ。

 彼らに怖いものなんかないんだろう。

 彼らの道の先に、彼らの歩みを止めるものはない。

 あんなに晴れやかな気持ちになったことはない。

 あんなに、心の底から、憧憬に似た何かを感じたことも。


「……きみたち、すごいね」


 その彼女に言われた言葉が、ほんの少し東の心を元気付けた。

 ディスプレイ用で置かれていた黒い子猫の人形を手に取ったのは、思いつきである。

「は」

 少女に向き直り、ごくりと唾を飲み、続ける。


「はじめまして。僕の名前は……宇宙のニャン太」


 ……これは、想像の数倍恥ずかしい。

 かーっと赤くなる東の前で、少女は目をきょときょとさせている。しかし少なくとも泣くのはやめてくれたようだ。

 こうなったらもうヤケだ。


「宇宙はすべて、僕のもの。この爪で、どんな悪いやつも倒してあげるにゃあ!」


 東は猫の背を持って、空を駆けるように、自由自在に操り始めた。

 東の手の中にある黒猫の姿を追って、「にゃんにゃん」と、少女の目はいつしか輝き始めている。


「だから、安心してにゃあ。君のことは僕が守ってあげる。何も心配はいらない。もう、こわいことはなんにもないから」


 少女がようやく笑みを浮かべた。 

 ほっと安堵した東の背後に、人影が現れたのはその時だった。

「!!」


 驚いて振り返った東が見たのは着流しに鬼の面をつけた男の姿。


「……あ、なたは……」


 彼はさっき、間違いなく自分たちを救ってくれた。

 助けてくれた。

 やつらの敵ではないだろう。

(……)

 しかし手放しで信頼するには、その様相は、あまりにも対峙する相手の不安を煽った。

 無意識に少女を抱きしめながら、東は警戒するように男を見つめる。


「―――あいつが」


 やがて男が言ったのはこんなことだった。


「あいつが、お前を探せと言わなきゃ、こんなことしねぇ」

「え……?」


 あいつって、と尋ねる前に、東は男の小脇に抱えられた。比喩ではなく、本当に、小脇に抱えられたのだ。

 東の胴は男の硬い腕に支えられている。

「〜〜〜〜っはああ!!!??」

「るせぇ」

 男は、廊下に立つ少女に鬼面をあげて顔を見せてやったらしい。少女は怖がって泣くかと思いきや、面の中の男の顔を見て目をぱちぱちさせた。

 男は少女を右腕にすくいあげるように抱え、そのまま片足を窓枠にかける。

 まさか、という東の思いは、残念ながら現実になった。


「死にたくなきゃ、じっとしてろ」


 ごうごうと風に体を包まれる中で、東が見たのは、どこまでも広がる東京のビル群。そして、遠くに煌めく東京湾だった。



***




「それで、モールの窓ぶち破って人二人抱えて飛び降りたの?嘘でしょ?アルバじゃなきゃ全員死んでたんじゃない??それ」

「迷子のガキを二人送り届けてやったんだ。文句言われる筋合いはねえ」

「東めちゃめちゃ悲鳴あげたでしょ。かわいそう」

「静かだった」

「うそ!すごい」

「白目も剥いてたが」

「それ気絶してるね!?」

「うるせえ。お前を追い詰めたガキのうちの一人だ。殺さないでやっただけ有り難く思え」


 フンと鼻を鳴らしたアルバに、確信犯だったか、と静かに悟るリオ。

 月曜日。すっかりやつれて現れた東を見て、少しだけ申し訳なく思ったことは余談である。

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