episodio5
決闘
その日、道場にはいつもと全く違う空気が漂っていた。
「不動不屈」の横断幕の前に正座した王凱から発される、肌が痛むほどの殺気。それが道場に充満しているのだ。
「………おい」
荷物を置いたリオは背後から声をかけられ、振り向いて素直に嫌な顔をした。
クラスメイトであり剣道部員の山口だ。
彼がリオの傑作を絵の具で汚したことはまだ許していない。
「何?昨日殴ったことなら謝らないけど」
「そのことじゃねーし、もういいわそれは」
「なら何?」
「志摩だよ」
山口が苦い顔で続ける。
「あいつ、王凱部長に試合挑んだって」
「知ってる」
「やめさせてくれ」
思いがけない言葉にリオは目を丸めた。
「今日の王凱部長はマジでシャレになんねー。あいつでも、怪我じゃすまねえ」
リオは改めて王凱を見た。
山口の言うように、今日の王凱は確かに何かがおかしい。
彼のそばで穏やかに微笑みながら、時折リオに嫌な視線を向ける撫子のことも気がかりだ。
「でも、志摩に止めろなんて言ってもたぶん」
「聞かねーよ」
二人同時に声の出所に目をやれば、竹刀を担いだ志摩が部室の入り口に立っていた。すでに彼は道着に着替え、全身からは薄く熱気が立ち昇っている。どこかで下準備は済ませてきたと言った様子だ。
「お前が俺の心配なんか珍しいな、山口」
「志摩……」
「この前ぶん殴っちまったのに」
え?志摩も?
とリオが思っている傍ら、未だ苦々しい面持ちで「ぶっ倒れたお前担いで保健室いくのが嫌なだけだ」と山口は言って去っていった。
残されたリオは何を告げるべきかと言葉を探すが、リオ、と、それを遮ったのも志摩だった。
「信じてくれ」
まっすぐな目でそう言われてしまうと、頷くことしかできない。
胸の中で渦巻く胸騒ぎに蓋をして、リオもまた志摩に続いて道場内へと足を向けた。
面をつけた二人が対面に立つ。礼節通りに礼、抜刀し、
時計係はリオが。審判には瀬川が抜擢されていた。
「二人が一足一刀の間合いに入ったら押してください」
そう言いながらリオにストップウォッチを手渡した瀬川。彼の目がいつも以上に無感情であることに、リオは少々動揺した。
まるで出会った当初に戻ってしまったようだ。
「……瀬川」
声をかけられた瀬川は、しかしリオを一瞥するもことなく、再び審判の位置へ戻っていった。
「試合、始め!」
瀬川の声と同時に二人の気合いが声となって道場内に響き渡る。
志摩の剣道は主に足を使うものだった。
前後左右に、洗練された足捌きで相手の型を崩し、自分への攻撃のタイミングを掴ませない。その中で彼自身の構えが一切崩れないところに、リオはいつも志摩の基礎の厚さを見る。
「………」
何かがおかしいと気付いたのは、試合が始まって30秒ほど経ったころだった。
長く続く小競り合いの中で少しずつ、志摩の打ち込みが乱れ始めた。
(……何で)
リオがその理由を探しあぐねていたころ、傍で同じように試合を見ていた山口がぽつりと言った。
「
その言葉にリオもハッとする。
もう一度試合に目を向ければ、その答えが見えてきた。
王凱が一向に攻めてこない。
おそろしいのは、それでいて付け入る隙が一切無いことだ。
攻めっ気の強い剣道を好む志摩は、これにより無意識にフラストレーションを抱えていたのだ。それが剣に現れている。
そしてとうとう、信じられないことが起きた。
「
志摩の片足が、境界線を越えたのだ。
それに誰よりも驚いていたのは志摩本人だったろう。彼がそれを意識していなかったはずもない。誘導された。王凱に。
山口の声には畏怖に近いものが浮かんでいた。
「……王凱部長は俺たちの癖も、強みも弱みも、全部把握してる。把握してるだけじゃない。それを自分の技に落とし込んで、自分の身体で理解できる。全ては、徹底的に勝つために。この部を勝利に導くために――。だから俺たちみんな、あの人に弱みを掴まれたら、もう勝てない」
「場外!」
続けざまに叫んだ瀬川が、声と共に白の旗を掲げる。
場外二回の反則で、一本。
何一つ有効な打突を与えられないまま一度目の勝敗が決した。元の位置に戻った志摩の肩が震えている。
「二本目、はじめ!」
試合が始まるや否や、志摩が鋭い打突で面を狙った。しかし王凱の竹刀は鉄の剣のように揺るぎなく、不動を極めている。志摩の物打ちはあと一寸のところで王凱の有効打突領域に届かない。
「場外」
「場外!」
目に見えない糸で操られているかのように、志摩は巧みに場外へ誘導される。時に重心の移動で、時に自らの足捌きで。
気付けば志摩は二度目の一本が取られていた。
「瀬川っ」
リオはたまらず審判の瀬川に詰め寄った。
「あれ、あんなのって……!」
「リオさん」
瀬川の目は凪いでいる。
何かを諦めきったような色のない瞳。
「逆らってはいけない人に逆らった時、一番初めに、心臓を穿たれるのは誰だと思いますか」
「え……」
「それは将じゃない――。前線に立つ兵士なんですよ」
リオが瀬川の言葉の意味を測るより早く、
「王凱!!!!!!!!」
怒りに燃えた志摩の声が道場に轟いた。
面をその場で脱ぎ捨てた志摩が、腕に血管を浮かせて王凱に詰め寄っていく。
「こんなのがお前の戦い方かよ!!!こんなのがお前の勝ち方か!!?こんなのが、お前のっ――――」
「志摩!!」
恐ろしいほどに鋭く速い、王凱の突きが志摩の胴を突いた。
一間ほど後方に吹き飛ばされた志摩に、リオはタイマーを投げ捨てて走り寄る。
「志摩、志摩……!!!!」
凍りついたような道場の中で、痛みに喘ぐ志摩の声と、リオの悲痛な呼び声が重なった。
「まだ試合は終わってない。誰が場内に入れと言った」
「……王、凱」
振り返って王凱を見上げ、リオは、息を呑んだ。
鉱石を砕いた瞬間の青い火花が王凱の目の奥で燃えている。冷たい、冷たい光。そこに剣道を志す青年の熱意は微塵もない。消えてしまった。
――これは、いったい誰。
「お前たちの不出来は俺の責任だ。俺が指導する。志摩も――――お前も」
振り上げられた竹刀を前に、リオはその驚きから、一歩も動くことができなかった。彼が大切な竹刀をこんなことに使うなど、誰が思っただろう。数名の部員が王凱の名を叫びながら走ってくる。真っ青な顔で突っ立っている瀬川が見える。
その向こうに、うっそりと、恍惚を極めた笑みを浮かべる撫子の姿。
バシィッッ!!!
咄嗟に志摩を庇って覆い被さったリオは、背中で、竹刀がぶつかる激しい音を聞いた。
いつまで経っても、痛みはこない。
「……」
ゆっくりと目を開けて振り返ったリオは、その姿を見て、どっと身体中の緊張が解れるのを感じた。自分でも呆れるほど情けない声が出てしまう。
「………アルバ………」
王凱の竹刀を受け止めた彼の手の中で、竹の砕け散る音が響いた。
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