それぞれの想い

 ときは少し遡り、昼休み序盤。志摩とノーチェが教室でバトルを繰り広げている頃だ。

 東は一人美術室にいた。

 校内の喧騒が遠くに聞こえる。

 まるで、この部屋だけ時の流れがゆっくりと流れているかのようだ。

 東は絵を見ていた。

 美術室の後方に立てかけてある、リオの描いたあの夜の絵を。


「東くん」


 びくりと肩を跳ねさせた東が振り返ると、そこには教材を抱えた美術教師、矢澤が立っていた。

 午後の美術室にふさわしい穏やかな顔つきである。


「珍しいな。その絵を見に来たのか」

「……いいえ。」

「嘘はつかなくていい。それは、いい作品だ」


 授業の趣旨にはそぐわないのでSはやれないけど、と苦笑して矢澤は東の隣に並んだ。東はしばらく言い訳の言葉を探していたようだが、やがて絵に視線を戻すと、ゆっくりと観念するように口を開いた。


「先生。僕は、彼女のことが嫌いなんです」


 矢澤は黙って聞いていた。


「彼女だってきっと僕のことが嫌いなはずだ」


 なのにリオの絵は、東の心に直接触れようとするような、透明な優しさで満ちていた。

 その衝撃がいつまでも淡い波のように東の胸を打つから、これを見た日から、東はリオとうまく話せなくなってしまっていたのだ。

 東には美術の才などありはしないし、一般レベルの絵以上のものはかけるはずもない。そもそも自分にそんなことは期待していないのに、自分が絵筆をとったときのことを想像すると、ふと思い詰めてしまう。


 僕は彼女を、こんなふうには描けないから。


「君は真面目だな」

「……はい」

「褒めてないぞ。少なくとも、私の授業においてそれは君の足枷になる」


 矢澤は二度ほど、夜を駆ける黒猫を叩いて微笑んだ。


「枷を外してみなさいよ。彼女が描いた、のように」



**



「あいつは、あんな顔もするんだな」


 ぽつりと言った廻神に、アドルフォが「へっ」と鼻先で笑って見せる。突然リオが現れ、アルバがそれを追って教室を出て行ってすぐのことだ。


「あいつってリオか?なんだ。まさかお淑やかな仮面でもかぶってたのかよ」

 廻神は苦笑して首を振った。

 悪いがリオを“おしとやか”だと思ったことは一度もない。

「俺は初日から喧嘩も売られたしな」

「なあ、あいつ絶対俺のこと言えねーよな」

 ファロに同意を求めるアドルフォ。

 廻神は、リオとアルバが消えた後方の扉を眺めながら、胸中に湧く小さな痛みに首を傾げた。


「それで、あんな顔って?」

「なんかキレ散らかした鬼みたいな顔だろ。さっきの」

「……まあそんなとこだ」


 違う。

 廻神は見たことがなかったのだ。

 不意をつかれたように、彼女がぽろりと泣いたことはある。それを拭ってやった時、廻神の中に湧いたのはささやかな優越感だった。

 他の生徒たちには見せない弱さを、自分には曝け出してくれているのだと思ったから。


 でも違った。

 彼女は、本当に信頼し切った相手にはあんな顔を向けるのだ。

 心のうちを包み隠すこともなく、捨て身で飛び込んでいくような、そんな、全てを預けきった表情を。



 ――へえ、まだ気付いてないんだ。

 いつかの伊良波の言葉が、頭の底でちりちりと疼いた気がした。



**


「あの黒髪のやつと?」


 ノーチェが立ち去った後の教室で、一汗かいたあとの清々しい面持ちの志摩はぽとりと箸を落とした。いつの間にやらリオは姿を消していたため、どういうわけか五十嵐と昼食をとるはめになっている。


「おー。デキてるらしいぜ」


 鼻先で笑いながら五十嵐は吐き捨てるように言った。


「あんなカオがいい恋人いるくせにお前らにも手出してるとか、マジで見境ないよな、あいつ」

「リオはそういう奴じゃねぇよ」

 ぴしゃりと言い放った志摩に、五十嵐は物言いたげな、そして何か探るような眼差しを向ける。


「…………お前、もしかしてあいつにマジなの?」

「は?」

 顔をしかめる志摩に、五十嵐はなおも聞き募る。ニヤリといじわるく口角を上げて。


「だってさっきあいつになんか言ってたじゃん。王凱に勝つとかどーのこうの。いいとこ見せようとしてんじゃねーの?」

「……お前には関係ねーだろ」

「変にカッコつけてても意味ないぜー?なんせリオちゃん、あの三年のやつにぞっこんだし。転校してきた初日にも俺すげー惚気聞いちゃってさァむぐっ」

「うるせえって」

 五十嵐の口に味の飽きたカレーパンを突っ込んだ志摩は、しばらく黙り、やがてニッと笑みを浮かべた。

 その表情に一切の曇りはない。

「あいつが誰を好きとか、そういうの関係ねーよ」


 例えばリオが自分を見るとき、あの黒い宇宙を閉じ込めたような目には、志摩だけが映る。

 額を掠めた唇の柔らかさもまだはっきり覚えている。

 ――志摩は、大丈夫よ。

 リオが志摩にかけた言葉も胸にある。

 今はそれだけで十分だった。


「俺は俺らしく堂々と、あいつのそばにいるだけだ」


「………………っっっそかっこよくて、むかつくわマジ」

「男に言われても嬉しくねーな」

 ごんと机に額を落とした五十嵐を軽く笑い、志摩は腰をあげる。

「お前もあんま意地張ってると後悔するぜ」

「………意味わかんねー」

「そうかよ」


 じゃあな、と後引かれる様子もなく去っていく志摩の足音を聞きながら、五十嵐は固く目を閉じた。頭の中を駆け巡る様々なことから逃れるように、耳の奥にイヤフォンをつっこんだ。

 撫子のことを考える。

 甘い声で、愛らしく笑いながら、こちらに駆け寄ってくる撫子。

 あいつは優しいから、仲のいい志摩がリオの味方についたと知ったら傷つくだろうな。


(……俺はずっと、あいつの味方でいてやんねぇと)


 心の中で何かひっかかった気がしたが、五十嵐は答えを深追いすることはしなかった。その必要など、なかったからだ。

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