episodio4
宇宙を駆ける黒猫の話
「リオ様」
「……」
翌朝、一睡もできなかったリオのもとに朝食を運んできたジルは、痛ましげな表情で少女を見た。
昨日一晩、Deseoの誰にかけても電話は繋がらなかったのだ。こんなこと今までに一度もない。
「カサレスに帰りますか?あそこに戻れば、誰か一人くらいいるかもしれません」
「……」
リオはゆるゆると首を振る。
昨日、ようやく一つ手がかりを掴んだのた。撫子の――藤野組の犯罪の一端。
今全てを放り出して家に帰ることはできない。
「……今日はおじいちゃんところに行くから、学校が終わったらジルも着いてきて」
「はい」
「それと、私一日無線つけてるから、何かあったら連絡してね」
「かしこまりました」
「ジル」
リオは深く息を吐き出し、すっと背筋を正して言った。
「アルバたちは大丈夫」
そうだ。何も心配いらない。
彼らが大丈夫じゃなかったことなんか、今まで一度たりてなかったんだから。
***
古い木と絵の具の匂いがする美術室で、初老の教師は言った。
「先週伝えたように、今日から二週かけて肖像画を描いてもらう。ではさっそくだがペアを――ああ、毎回ここで馬鹿みたいに時間を取られるんだった。ということで、今回は先生が適当に決めます。はい、松本ー」
「「………」」
かくして、リオの正面には今、仏頂面を極めた東がいる。
「最悪だ。お前なんかとペアだなんて」
低い声でボソッと呟かれ、リオも同意する。何が嬉しくてこんな鉄面皮をキャンバスいっぱい描かねばならないのだ。
「矢澤先生は平等主義だ。君とだけは組みたくない、なんて言ったら僕の内申点に響くから今回は諦めて被写体になる」
「はいはい」
椅子に
棒人間でも描いてやろう。リオも心に決めてキャンバスを立てた。
「……それからこの間のこと、僕は一切許してないからな」
「こないだって?どれ?」
東はいつも何かに怒っているのでいちいち思い悩むのはとっくに辞めにしている。
「伊良波先輩を使って塩谷先生をけしかけたことだ!!あのあとどんな地獄の空気で授業したと思ってる」
「あー……」
だがしかし、それについてはリオだって言いたいことがある。
「でも、先にあいつ使って私を
「それは……」
辱め、という言葉に言い淀む東。
リオはキャンバス越しにじっと彼を睨みつけた。
「もし今までも、こういうふうに女の子を追い詰めてたなら、私はあなたを心底軽蔑するけど」
何か反論しようと口を開きかけた東だったが、やがてバツが悪そうに目線を逸らした。
「あの日の塩谷先生は、確かに異常だった。僕は君にあそこまでのことをさせたかったわけじゃない……。あれは、悪かったと思ってる」
東が謝ったのは意外だった。
もっと言い訳をこねて噛みついてくるかと思ったのに。
リオは何も答えず、かわりに黙って鉛筆を取った。
***
「いやー、俺ついてるな。撫子に描いてもらえるなんて。矢澤センに感謝しねーと」
「ふふ。上手く描けなかったらごめんね」
「だめ。ちゃんとイケメンにしてくれよ」
言いながら、五十嵐の視界の淵に映ったのは黙々とキャンバスに向かうリオと、黙って本を読み続ける東の姿。
はじめリオが東とペアだと知った時は(東のやつ運悪ィな)くらいにしか思っていなかったが、あんなに真剣に描かれていると逆にどんな絵を描いてるのか気になってくる。
それに、昨夜のこと。
息を切らせてリオの居場所を尋ねた志摩は、リオに何を伝えようとしてたのだろう。
(まあ、俺には関係ねーけど)
「ミナト」
砂糖菓子のような声で呼ばれ、はっと撫子に視線を戻す。
「ちゃんと私を見て?」
ゆるりと微笑まれると他のことはどうでも良くなる。五十嵐は全ての考えを放棄し、モデルらしい振る舞いで彼女の求める視線を向けた。
***
(あと十分で授業は終わるが……こいつ描き終わる気あるのか?)
もう二十分も前から本を置いていた東は、今だに絵筆を走らせているリオを見て若干不安になってきた。
美術の矢澤はどの生徒にも平等だ。つまり、時間のオーバーで延長して課題を仕上げることを認めていない。限られた時間のなかでどれだけ完成されたものを仕上げるか。それが重要になってくる。
「ね、見てあの絵」
「あら……ふふ」
すでに描き終えて後ろを通るクラスメイトたちのこんなやりとりも引っかかかる。
それに、リオの黒曜石の目にまっすぐ見つめられると、東は自分の心まで透かし見られているような落ち着かない気持ちになるのだった。
「……おい」
「待って。もうちょっと」
「………もう終わりだ!」
「あっ」
東は立ち上がってキャンバスを覗き込んだ東は、予想外の仕上がりに度肝を抜かれた。
「――――猫?」
それは夜を駆けるしなやかで美しい黒猫の絵だった。
「うん」
リオが恥ずかしそうに鼻先を描くと、鼻の頭に黒い絵の具がついた。
「はじめは棒人間にしてやろうかと思ってたんだけど」
「棒、」
「でもそれはさすがに可哀想だからちゃんと描こうと思って。そしたらこうなった」
「……僕の何をどうしたらこうなるんだよ」
そう言いながら、怒りが湧いてこないのが不思議だ。東は引き込まれるようにその絵を見つめた。
赤いレンガ造りの家々。遠くに見える半円のドームは、帝明学園の植物園だろうか。病院らしきものもある。
しかしそれらは、黒猫の踏み歩いた地面にしか描かれていないのだ。本体は星の散らばる夜の中を、悠々と、我が物顔で走っている。まるで、すべてのしがらみから解き放たれたかのように自由に。
「東?」
「……あまりの駄作ぶりに言葉をなくしてただけだ。こんなの飾られる身にもなってみろ。地獄じゃないか」
「はいはいはい。言うと思った」
素敵なのに、とぽそりと溢され、耳がじわっと赤くなるのが分かる。別に自分のことを言われてるわけじゃない。
「おや」
「あ……」
とうとうリオの作品に気付いた矢澤は、しばらくキャンバスを眺めたあとで「猫の毛にはこういうふうに艶が入る」とリオにアドバイスして去っていった。どうやら、矢澤の中のNGなラインを超えてはいなかったらしい。
「ね。良い出来でしょ?」
勝ち気に浮かべられた笑みに、つい頷き返しそうになった東は、慌ててそっぽを向いた。
「別に、こんなの」
「おーっとわるい!!」「ギャハハ」
どん。
ビシャ。
夜を覆い隠すようにかけられた緑色の絵の具。立ち尽くすリオの背中を見て、台無しになった絵を見て、ざあっと音を立てて血の気が引いていくのが分かった。
ちょうど近くにいたらしい五十嵐が、見かねたように間に入ってきた。
「何やってんだよ山口……!!」
「は?何だよ五十嵐。間違えて転んじゃったんだって。わりーって言っただろ」
「間違えてって、……お前どうすんだよこれ」
「まー良かったじゃん?こんなん飾られても東も迷惑だったろうし。な?東」
話を振られたが、何一つ言葉が出てこない。ただ、汚い色に染められていく絵を見て、ひどく――。
「清四郎君、あの絵素敵だったのに残念だね……。でも、やっぱり皆の絵と違っちゃうし、描き直してもらった方がいいんじゃないかな」
「……そう、だね」
いつのまにかそばにいた撫子の言葉も、あまり耳に入ってこない。
「そうだ!良かったら私が」
「山口。歯食いしばって」
「え?」
ぼかっ、とリオにぶん殴られて後ろに倒れる山口。今朝来た時からすでに顔中腫らしていた彼は、どうやら今の一発でKOしたらしい。
「大丈夫だよ。東」
「……え」
「見てて」
言うなり、リオはそこにピンクの原色、青の原色、紫、黄色、と次々夜には不釣り合いな派手な色を載せていった。
正直誰もがヤケになったと思っていたが、水で濡らした布巾で彼女がそれを拭き取った時、そこらじゅうから感嘆の声が上がる。
「ほら、オーロラ」
春の陽だまりのような笑顔で差し出されたキャンバスを見て。
いっそう美しく幻想的な夜を駆ける黒猫を見て。
東は、なぜか少しだけ泣きたくなった。
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