置き手紙

「ずいぶん遅かったな」


 カフェに戻ってきた二人を迎えた廻神は、リオの頬が赤く腫れていることに気付くと険しい顔で立ち上がった。思わずリオもたじろいてしまいそうなほどの剣幕だ。


「……まさか殴られたのか?」

「い、いや、まったく!」

「……伊良波」

 首を振って否定するリオから伊良波に視線を移す廻神。伊良波は真顔でリオに手を差し向けた。


「拳ぶん回す男子に突っ込んで顔掴んで優しく諭して優しく脅して力づくで万事を解決させてきたゴリラが彼女です」

「ちょっと??」

「あ、あとあいつはなるべく君に近付けちゃダメだからね。恋が加速する」

「何の話??」

「…………はあ。詳しいことはあとで聞くとして、リオ。ちょっと来い。怪我の具合を見る」


 リオの腕を引いた廻神は、キャップのツバを軽く持ち上げてよくよく彼女の顔を眺めた。口端が少し切れている。目の下のあたりが赤く腫れているのも、明日は痣になってしまうかもしれない。こんなことなら。と、廻神は思わずにはいられない。


(……伊良波こいつなんかに任せず俺が行けばよかったな)


 小さな後悔とともにふと目を上げれば、口を引き結んだリオが真っ赤になって視線を彷徨さまよわせているところだった。

 どうやら間近にある異性の顔に、どこを見ていいのか分からなくなっているらしい。

「ふ」

 緊張感のない様子に、先程まで胸を占めていた苛立ちが薄れて笑みがこぼれた。リオに睨まれる。


「なに」

「別に。ほら。反対側も」

「……」


 大人しく横を向くから可愛いものだ。

 五十嵐や東が彼女の恋愛遍歴について色々と言っているのを聞くが、奴らは彼女のこの初心うぶさを見たことがないのだろうか。

 後輩の不出来に呆れつつも、リオの伏せられた睫毛の長さや、ほんのり染まった耳の赤さに、妙なむず痒さを覚える。


「あの……もういい?大した怪我じゃないし」

「……いいが、帰ったらちゃんと冷やせよ。特にこの」ぱしん


 廻神が彼女の頰に向けて伸ばした手を払い除けたのは伊良波だった。

 深いグレーの瞳が、廻神をじっと捉える。


「……」

「……」


 互いに視線をぶつけ合う二人の間からリオはこっそりと抜け出した。

(この二人ほんとに仲悪いんだな……。そっとしとこ……)

 恐々としたものの、手元の携帯が震えたためリオの意識はすぐそちらに移った。メールの差出人はジルだ。





「………いつからだ?」

「今さっきだけど?」

 廻神の唐突にして主語のない問いかけに、伊良波はさらりと答える。

 本人に告げられるかは別として、認めてしまえば恥じらいなどあるはずもない。


「言っとくけど、別に彼女とどうこうなりたいわけじゃないから。恋愛感情なんて所詮脳内物質の分泌が引き起こすまやかしだし、数年で作用も消える。ただ、恋は脳内のドーパミン濃度を上昇させるんだ。これを使わない手はないだろ?」

「つまり研究が捗ると?」

「そういうこと」


 上機嫌に答えた伊良波をしげしげと眺めた廻神は、ややして小さく鼻で笑った。


「全然ダメだな」

「……は?」

「お前だってあいつの言葉の端々から感じるだろ?あいつは類い稀なるロマンチストで、夢想家なんだ」

 廻神の言葉に、伊良波も口を閉ざした。

 思い当たる節はある。

「つまり、ドーパミンがどうのと言い始めた瞬間に、お前は恋人どころか大気圏にぶち込まれる。論外も論外。おつかれ」

「………言わなきゃいいだけだし」

「まあ、がんばれよ」

「は?何それ。高みの見物ってわけ?」

「見物も何も俺は傍観者だ」


 ぽかんとした伊良波は、ややして、にやーっと嫌な笑みを浮かべた。

「……へえ〜〜〜、まだ気付いてないんだ」

「何が」

「さあ……。なにかな」


 べえっと伊良波が舌を出す。教えるつもりなど毛程もないのだろう。

(いちいち癪に触るやつだな)

 額に青筋を浮かべつつも、廻神は気を取り直してリオに向き直った。実は一つ、懸念事項がある。


「リオ」


 呼びかけると、慌てて携帯をポケットにしまったリオが振り返った。その顔はどこか青ざめている。

「何かあったか?」

「な、なんでもない。それより、もう遅いしそろそろ帰ろう」

「帰るが、その前に一つ。さっき五十嵐から電話が入った」

「電話?」

「志摩圭介のことだ」


 ぴくりとリオの動きが止まる。

 廻神は続けた。


「どうやらそいつがお前を探し回ってたらしい」

「……」

「連絡先を知ってるかと聞かれたから、知らないとだけ答えておいた。それでよかったか?」

 リオは間を置き、はっきりと頷いた。


「うん。ありがとう廻神」


 志摩とも剣道部とも、もうこれ以上関わるつもりはない。何一つ役に立てなかったことよりも、これ以上彼らの負担になることのほうが罪が重いとようやく気付いた。


 リオは意識を切り替え、廻神に預けていた鞄を受け取った。


「今日の成果報告は明日の昼休み、地下室でね」

「ああ。家まで送るぞ」

「大丈夫、迎え呼んだから!またね二人とも!」

「気をつけてな」

「はーあ、疲れた。何でうちの制服ってこんな堅苦しいの?みんな白衣にしたらいいのに」

「それが唯一許されてることをお前はもっと有り難がれ。だいたい…」



「……」

 二人の言い合いを聞きながら、リオは駆け足で店を出た。

 二つ路地を曲がると街の先に黒塗りの車が停まっているのが見える。ジルだ。リオは脇目も振らずその車めがけて走り、後部座席に飛び込むなり運転席に向かって声を荒げた。


「ジル!」

「リオ様」


 運転席にいたジルがゆっくりと振り返る。

 リオは信じられない思いで、先程彼から入った連絡を音にして尋ねた。


「アルバと連絡取れなくなったって、どういうこと?」


 心臓が、嫌な音を立てて脈打っている。


「ファロや、アドルフォ達とも……?」

「気付いた時にはホテルももぬけの殻でした」


 ジルは神妙な顔で頷き、リオに一枚の紙を差し出した。ホテルに残されていたものだという。

 そこにはアドルフォの汚い走り書きでこうあった。



「〝必ず迎えに来る〟」

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