走る

「忘れていいって、何だよ」


 呆然と吐き出される志摩の言葉に、リオは淡々と答えた。忘れていい、など、そんなこと言うつもりもなかったのに、志摩と対面した途端、意思を持ったようにその言葉が出てきたのだ。

 最善だと思った。



「視界に入っても空気だと思って、いない存在だと思えってこと。そうしたら、そのうちほんとに気にならなくなる。二週間したら本当にいなくなるしね」

「……なに、言ってんだよ」

「だって志摩、今全然集中できてないでしょ」


 リオの言葉に、志摩がみるみると赤くなっていく。

 リオは目を伏せた。

 

「さっき、掃除中に少し見たの。皆の稽古風景」

 それは相変わらず凄まじい気迫に包まれてはいたが、志摩だけは、いつもと違った。


「踏み込みも浅いし、取った一本もぬるいし、王凱がキレないのが奇跡なくらい。このままじゃ次の大会負けるどころか、試合にも」

「うるせえな!!」


 背中に激しい衝撃を受け、リオは思わず眉をひそめた。

 コンテナに押し付けられたまま顔を上げる。

 怒りと悔しさに満ちて、わなわなと震える志摩。彼が何を言いたいのかなど聞くまでもない。


「……全部、お前のせいだろ……!!」


 黙り込んだリオに、志摩はぐっと顔を歪めた。こんなことを言うつもりはなかったのだろう。しかし彼の口は止まらない。


「お前が来てから、俺たちめちゃくちゃなんだよ……!」


 今まで押し留めていたものが溢れ出てしまったかのように、志摩はひたすらリオを責め立てた。

 自分の顔が固く強張っていくのがリオには分かっていたが、どうすることもできなかった。

 

(だって、ほんとに全部私が悪い)


「お前のせいで、俺も王凱も普通じゃねぇよ!お前のせいで撫子は泣いてるし、お前のせいで山口たちも暴力的になったし、お前のせいで部が壊れかけてる!!マジで、なんなんだよ、お前」

「……志摩、私」

「……誘わなきなよかった」


 ぐっと唇を噛んだ、志摩が繰り返す。


「――お前なんか、誘うんじゃなかった……!!」


 じんわり熱くなる目を黙って志摩に向ける。

 志摩はリオの顔を見てはっとしたように黙ったが、すぐに顔を背け、背中を向けて走り去っていってしまった。

 残されたリオは呟く。


「…………わかってるよ」


 自分が悪かったことなんか、もちろんわかってる。普通の生徒と一緒に部活を楽しむ権利なんかないことも、そんなことしてる場合じゃないことも。

 でも、憧れてたんだから、仕方ないじゃない。

 私も、やってみたかったんだもん。

 

 ――一緒に全国目指そうぜ。



「………ごめんなさい」


 けれどやっぱり、そんな理由で本気でやってる彼らを巻き込むのは間違っていたのだ。

 リオはぐしぐしと目元をぬぐい、剣道場に向き直ると、深く一礼した。

 もうここには戻らないと心に決めて。





**



 結局あの後道場に戻る気にもなれず、町内の走り込みを終えて戻った志摩は、さっきよりも幾分まともに思考できるようになっていた。

 それでも、立ち去り際のリオの顔を思い出すと足が止まりそうになる。

(……忘れろ。あいつが、そうしていいって言ったんだから)

 今すべきは剣に集中することだ。

 自分にそう言い聞かせ、自主練でもするかと靴を脱いだところで、外からこそこそと話し声が聞こえてくる。

 コンテナの方からだ。

 鼻を掠める煙草の香りに、志摩は途端に眉をひそめた。


「なあ、あの部室見たかよ?あいつ家政婦としての才能あるよな〜」

「そんな言うなら山口んちで雇ってやれば??」

「雇うわけねーだろ!あんな生意気な女。志摩の一件忘れたのかよ」


 その暗がりの中にたむろしていたのは、山口と、剣道部に所属しない数名の生徒たち。

 喫煙行為など学校にバレたら一発で退学だ。大会の出場停止が決まる。

 ぶん殴ってやめさせよう、と真顔で拳を固めた志摩は、思いがけず自分の名前が出たことで動きを止めた。


「なになに?」

「あー、お前いなかったんだっけ。あの転校生をぼこってやろうって山口が校舎裏に追い詰めたんだけどさ、その時ちょうど志摩のあの情報仕入れたとこで」

「情報?」

「志摩んちが撫子ちゃんちから出資受けてるって話」


 は?と声が出そうになる。


「え!?!まじ??そうなの??」

「しー!でけえ声出すなよ」

「そ。だから、志摩の助けとか期待しても無駄だぜってあいつに言ったんだよ。そしたら急に、志摩の手にはタコがあるとかわけわかんねーこと言い出してさあ」



 山口が身をくねらせて、いくつかの言葉を連ねる。

 志摩は片手で顔を覆い、それを聞いていた。


 彼女が必死で放った言葉。

 それは何一つとっても、志摩を裏切るようなものではない。






「つってな。マジで苛ついたよな!」

「ほんとにな。志摩なんか実際大したことねえっつーの。今日だって王凱にボコボコに」

「なあ」


 ひっと、声を漏らしたのは誰だったか。

 背後に立つ志摩の顔を見た彼らは、軒並み青ざめた。


「志摩、その、今のは」

「歯ぁ食いしばれ」

 

 志摩の拳が山口の顎にヒットする。それを皮切りに乱闘が始まったが、ほとんど志摩が一方的に打ち沈めていた。

 十数分後。

 ぼろぼろになった山口たちに向け、鼻血を拭った志摩が言う。


「お前ら。煙草はやめろよな。身体に悪いから」

「……いや、絶対他に言うことあんだろ」

 呻きながら言った山口に、志摩はふんと鼻を鳴らす。


「ねえよ。お前らなんかには」


 それを言うべき相手は、ここにはいない。

 道着から制服に着替えてすぐ、志摩は走り出した。山口たちから聞かされた言葉は、簡単に彼女の声で再生できた。





「左手に、たこができてたの。小指と薬指の根本にね」



 でかい男たちに囲まれながら、あいつはどんな気持ちでそれを言ったんだ。激しい敵意の中で。



「あの手は、剣道が好きで好きでたまらない人の手だった」



 まだ会って間もない俺をそんなふうに庇うほどの何かを、俺は何もしてない。

 なのに、



「志摩圭介の努力を前に、あなたなんか手も足も出ずに負けるに決まってる!」




(――最悪だ。何やってんだ、俺)


 今すぐ自分をぶん殴ってやりたい。

 俺は今日あいつに何を言った?

 誘わなきゃよかった、

 お前のせいで部がめちゃくちゃだって、

 そう言った。

 


 あいつが何を思って、俺を突き放したかなんて考えもせずに。



(早く、見つけねえと)



 志摩は走りながら携帯を取り出し、耳に当てた。

 恥も外聞もない。

「――――五十嵐!知ってたら教えてくれ。あいつの住所でも番号でも、何でもいいから。頼む……!」

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