忘れていいよ

 酷い試合だった。

 相手の王凱が珍しく荒れていたこともあったが、それだけじゃない。

(集中、しろよ俺)


 ここしばらくうまく気合が入らないのは、心に迷いがあるせいだ。分かっていても成す術がない。苛立ちばかりが募っていく。

「ありがとう、ございました」

 志摩は手のひらをキツく握りしめ、深く、王凱に向けて礼をした。



「圭介!」


 すぐに次の試合が始まる中で、ぱたぱたと撫子が駆け寄ってくる。面越しに、いつも通り優しげに笑う姿が見え、志摩は小さくほっとした。


「お疲れ様!」

「…ああ」

 せめて不甲斐ない声を出さないように気丈に返す。

 できれば負け試合の後は――、ことさら、今みたいな無様な試合の後は声をかけないでほしかったが、撫子も撫子なりに慰めに来たのだろう。そう思うと無碍むげにもできず、志摩は撫子に向き直った。


「悪かったな、だせー試合」

「圭介!すごかったね!」

 屈託なく、撫子が笑った。

「今日絶好調だったでしょ?わかるよ」

「……は」

 掠れた志摩の返答は、撫子には届かなかったのだろう。揚々と続けた。

 

「そりゃ負けちゃったけど、相手はあの王凱先輩だもの。仕方ないよ。でもすごく迫力あって驚いちゃった!圭介、今日いつもより気合い入ってるもんね。次の試合が楽しみだな」

「王凱に負けるのは」

「え?」

「……」


 俺が、王凱に負けるのは、当たり前なのかよ。


(あ、ダメだ。これ)

 志摩はゆっくりと面を外した。

 心配そうにこちらを見上げる撫子に向けて、にっと無理やり笑って見せる。


「悪い、撫子。ちょっと頭冷やしてくるな」

「圭介……?」

「心配すんなって。ちょっと暑くなっちまっただけだから」


 ぽんぽんと撫子の肩を叩いて剣道場を出た。

 足取りに、表情に、湧き上がる苛立ちが現れてしまうのを、志摩は必死に押し殺した。

「……」


 一刻も早く立ち去りたい。

 あのままあそこにいたら、撫子のことを酷い言葉でなじっちまう――。そう思った。

 例えば、さっきの試合の、どこが絶好調だったんだよクソ野郎。とか。

 見てなかったのかよ、王凱のあの失望した顔。適当なこと言いやがって、剣道のことなんか、全然分かんねえくせに、お前なんか――とか、あいつ、全然悪くないのにな。


(最低だ。俺は。鍛錬が足りねえんだ)


 思いっきり捻った蛇口から怒涛の勢いで溢れる水に頭を突っ込む。

 首筋から服の中に流れ込んでくるのも、耳の中に入ってくるのも気にせずひたすらに頭を冷やした。


「……?」

 水音でもなく、部員たちの掛け声でもない音が志摩の耳に届いたのはその時だ。


 それは歌のようだった。



「……」

 

 水を止めて身体を起こした志摩は、そのまま引き寄せられるように歌の聴こえてくるほうへと向かう。

 声の主は自然と頭に浮かんでいた。

 だから行く必要はないのに、足は、迷いなくそちらへ向かって進んでいく。


 思った通り、それは部室の裏手にあるコンテナのほうから聴こえてきていた。


(……あ。すげえ綺麗になってる)

 開けっぱなしのコンテナを覗いた志摩は思わず目を見張った。

 手のつけようがない有様に王凱でさえ見て見ないふりをしていたこの倉庫が、まさかここまで様変わりするとは。

 感心しそうになる心を押し沈める。

 中にあいつの姿はない。


 歌は、少しだけ開いた部室の扉から聴こえてきていた。

 



「……」


 誰のために歌ってるんだと、

 つい聞きたくなるような音だった。


 春の風に調和し、まるで人を微睡みに引き込もうとするような。

 どこかいとけなく、優しい歌声。

 その場に突っ立ったまま、志摩は、憤りともやるせなさとも言えない感情に胸を占められ、きつく歯を噛み締めた。


(……お前のせいだ)


 お前が、悪意ある言葉を平然と、誤魔化ごまかしもせずに口にするから。

 屈託なく笑うくせに、当たり前のように人を騙すから。

 俺はお前のことが何一つ分からなくなって、考えないようにしてるのに、頭を占められて仕方ないのに。


 お前はなんにも気にせず、

 こんなふうに、こんなに透き通った声で、誰かのために歌うのかよ。


(……ちくしょう)


 志摩はその場にしゃがみこんだ。

 頭から全ての思考を追いやるべく無心を心がけていると、不思議と、そのつたない歌だけが頭に流れ込んでくる。汚いおりのようなものが消えていく。


「……」


 志摩は大人しく、目を閉じてその歌声に耳を傾けた。





「え?」

 不意にガチャ、と音がして部室の外扉が開いた。はっとして目を開けると、雑巾を持ったリオがこちらを見て驚いている。

 どれだけの時間が経ったのだろう。少し寝てたのかもしれない。

「……びっくりした」

 ドアのそばに座り込んでる人がいるのだから当然の反応だ。

 志摩がまごついて言葉を探しているうちに、目を瞬かせたリオは「いつからいたの?」と彼に尋ねた。

「……今」

 咄嗟に嘘をついたが、リオは「ふうん」と答えるだけだ。

 すぐに志摩から目を離し、横を通り過ぎていく。

 志摩も袴を払って腰を上げた。


「……部室の中はもう終わったから、入っていいよ」

 リオは言い、汚れた雑巾をゴミ袋の中に放り投げた。

「ゴミ捨てしたらもう終わりだから。王凱には終わったら帰るって言っといて」

「……ああ」


 リオが黙々と撤収作業をするのを、志摩は黙ったまま見つめている。

 立ち去ればいいのに、いつまでもそこに居る理由が本人にさえ分からない。


 文句をぶつけたいわけじゃない、そしり、ののしってやりたいわけでもない。撫子が可哀想だとは、たしかに思うのに、どうしてか、志摩には彼女を庇護ひごしきれない。それよりも、今は、こいつが――。



「志摩」


 顔を上げる。

 こちらを見上げるリオは、たとえば、治りの遅い傷跡を見るような、どこか諦めと哀れみの混ざったような顔で、こう言った。


「もう、私のこと忘れていいよ」

「……は?」

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