泣きたくなったら

「ねえ、あの人、伊良波 巴じゃない……?」「ノーベル賞の?嘘でしょ?」「うちの高校にいるって噂ほんとだったの!?」

 伊良波の登場に途端にクラスの生徒たちはざわめき始めるが、彼はまるで意に介していない。

「ねえ、説明あるよね」

 伊良波はリオの前に回り、眉を顰めながら白衣のボタンを一つずつ留め始めている。


「ジルに君を助けに行けとか言って部屋追い出されたんだけど……何これ、どういう状況?何で公開ストリップ始めてんの。そういう趣味?」

「そんなわけない」

「だよね」

「――――伊良波君か!!」


 はっと我に返ったらしい、塩谷が大袈裟に両腕を広げて破顔した。

 胸元から取り出したハンカチで額を拭い、平静をとりつくろっている。


「妙なところを見せてしまって申し訳なかったね!彼女が授業中に突然脱ぎ始めたから、何をするんだと止めていたところだったんだよ」

「……」

 このクソ野郎。


「それにしても驚いたな!めったに学校には来ていないと聞いていたが、まさか私の授業に来てくれるなんて……!もしよかったら見学していくかい?席は用意するよ」


 塩谷のように独裁的な人間は権力者に対して異常に腰が低い傾向にある。

 リオの想像通り、やはり伊良波は塩谷にとって媚びを売る対象だったらしい。

(ジルが今日も地下にいてよかった)

 生徒たちは先ほどの嫌なムードを追い出そうとするかのように、誰もがすっかり伊良波歓迎ムードを作っている。


「いやなに、これでも私は学生中イギリスに留学しててね。今は数学なんて教えてるが化学分野もそれなりに知識があるほうなんだ。君のこともがっかりさせないぞ!わはは」

「先生」


 リオは斜め上に視線を放り投げた。

 来ると思ったが本当に来るとは……。


「もしかして、本物の伊良波巴さん……?」

 塩谷の後ろから、小首を傾げた撫子が現れる。

「ああ。藤野も挨拶するといい」

「はい」

 撫子はふんわり微笑むと、伊良波に向かって「藤野撫子です」と右手を差し出した。まさか自分の裏の顔を知られているなどとは露ほども思っていないらしい。顔を引き攣らせている伊良波にも気付かず嬉しそうに握手を交わしている。


「伊良波さんとはいつかお話したいと思ってたんです!」

「ああ……ども……」


「そうだ!伊良波君、もしよければ今度私のうちに遊びにこないか?実はうちの祖父が日本でも有名な数学者の一人で、君のことをよく話題にあげていたんだ。科学に比べたらつまらない分野だが、もしよければ君を招待するよ」

「先生、あの、それって……」

 撫子が上目遣いで塩谷を見上げる。

「ああ。もちろん、藤野も来るといい。うちは昔から優秀な生徒だけは招くようにしているからな」

「本当ですか?嬉しい…!ね、行きましょう?伊良波先輩」

「いや、行かないけど」


 一瞬の沈黙。

 さらに言葉を重ねたのは伊良波だった。


「僕この子迎えに来ただけだし。君たちの気持ち悪い馴れ合いに付き合わせないでくれる?」

「え……」

「だいたい、君教師だろ?授業もしないで僕みたいなのに媚び売って恥ずかしくないの?ああ、授業中女子生徒にストリップ強いるくらいだもんね。教師の自覚とかないの?」

「それは、だから……」

 伊良波の言葉に塩谷がかっと赤くなって口を結ぶ。

 伊良波は止まらなかった。


「それと数学はつまらなくない。自然界の現象のすべては微分方程式で書くことができる。宇宙の現象さえ、数学を使わなければ記述できない。ガリレオも言ってるだろ」

「そ、そんなこと」

「物理や化学は実験や観察によって実際の現象を収集し、仮説立てること。その現象が起こる本当の理由を検証し、言葉や概念、論理構造に落とし込むのが数学――。はぁ、君みたいな残念な奴が孫で、数学者のお祖父様もかわいそうだ」


 もはや恥と怒りで二の句が告げなくなっている塩谷のことを、伊良波はもう一瞥もしていない。


「そういうわけで、こんな授業出ても意味ないからこの子連れてくね。今日のこともあいつには報告しとくから」

「あ、あいつってまさか……!」

「行くよ。リオ」

「う、うん」


 伊良波に連れられるように教室を出る。

 おそろしいほど静まり返っていた教室のその後を想像するとぞっとするが、そんなことより、リオは驚きを隠しきれなかった。


「……私、伊良波ってコミュ障だと思ってた」

「それ助けてくれた救世主に言うこと?僕が来てなかったら君どうなってたかもう一回考えてくんないかな」


 伊良波は本気で怒っているようだ。

 リオは慌てて姿勢を正し、伊良波に向かって頭を下げた。


「……それは、そうだよね。助けてくれてありがとう」


 素直に言ったリオをしばらく見つめ、伊良波は大きなため息をつく。



「……とりあえず、帰るよ。今頃ジルが血管はち切れそうになりながら君を待ってる」



 化学準備室に向かって歩きながら、リオは隣を歩く伊良波を見た。

 日焼けとは無縁の不健康そうな白い肌は、陽の光の下では透けるようだ。白い髪も光を弾いてきらめいている。

 まだ怒っているだろうかとチラリと顔を覗けば、ちょうど彼が口を開いたところだった。


「……正直、僕も驚いてるから」

「え?」


 ぽりぽりと頭をかいた伊良波が呟いた。


「普段は家族以外と話さないんだ。めんどくさいから……。けど君が助けを求めてるって聞いて、気付いたらあそこにいた。あいつに色々言ったのは数学を馬鹿にされたからじゃなくて、単に気に食わなかったからだよ。君をおびやかせると思ってそうなところが特に」


 伊良波は観念したように眉を下げた。


「もっと自分を大事にしてよ」

「伊良波……」

「君、暗殺者のくせにまるでスマートじゃないし、よく泣くだろ。妹たちみたいでほっとけないんだ」


 リオは頭の中にあのにくたらしい双子を思い浮かべた。

 きっと彼らも、伊良波には従順なのだろう。


「……ていうか、私が泣いてるとこなんかいつ見たの?そもそも泣いてないし」

「最近ジル氏、地下でカメラ映しっぱなしだから。屋上のも生徒会室のも一緒に見てたよ」

「ジル!!!」


 真っ赤になって地下室に飛び込んだリオを見送り、伊良波は小さく口を折り曲げた。いつまでも言えずにいることを、今日もまた言えなかった。


(泣きたくなったら僕のとこにくれば――。

なんて、言うような関係じゃないもんな)

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