救世主、求ム
教室に戻ると机の上にびっしり書き込まれた悪口の数々。
筆跡からして単独のものではない。
というか、このあいだは水だったが、学生ってそんなに暇なのだろうか。リオが抱いていた青春生活はとっくの昔に泡と消えたが、それにしたって疑問を抱かずにはいられない。暇なの?
「今朝クラスの奴らが書いてたぜ?寄せ書きとか人気者じゃん」
その幼稚さにうんざりしていると、後ろから楽しげな声がかかった。よりいっそううんざりする。
五十嵐だ。
「てかお前さ、本当にビッチだったんだな。それとも、昨日の奴らのどっちかが恋人?」
「……」
「まあどっちもすげぇ頭悪そうだったけど。特にあの金髪のほうな。お前の男見る目心配になるわ」
つらつらと聞いてもいない悪態を連ねる五十嵐。
家族を馬鹿にされ、さすがのリオもキュッと眉を顰める。
その時、
「五十嵐せんぱーい!」
と教室後方の出入り口から声がかかった。
見れば、数名の後輩女子達がきゃっきゃとはしゃぎながら五十嵐に手を振っている。それにひらひら手を振って応じる五十嵐の勝ち誇った顔に、リオも穏やかな微笑みで応じた。
「五十嵐こそ、よくまた私に話しかけてこれたね」
「……は?」
「格の差思い知って泣いてるかと思った」
馬鹿にしたように言い放つ。
アドルフォの煽りにあれこれ言ったが、リオも決して人のことは言えない。
「……お前、人のことおちょくんのも大概にしろよ」
真顔になった五十嵐に胸ぐらを掴まれる。
後輩達が依然としてきゃあきゃあ騒ぎ続けているのは、五十嵐の荒っぽい面にときめいているのか、それともリオがいたぶられているのが面白いのか――。
もはやこの学園のほとんどの生徒が敵であるリオにとっては、いまいち判別がつかなかった。
「五十嵐」
声が差し込まれる。
机にカバンを置いた東が、涼しげな目をこちらに向けてくる。
「絶対殴るなよ。会長に言われただろ」
あいかわらず廻神絶対信仰のスタンスらしい。
五十嵐は舌打ちをすると、無言でリオの胸ぐらを離した。
「何。じゃー言われっぱなしでいろってのかよ」
「違う。彼女には他の手段で制裁を下せばいい」
「他の手段?何それ」
言葉を返したのはリオである。
朝から水をかけられ、罵詈雑言に迎えられ、家族を馬鹿にされ、リオの虫の居所は今大変に悪い。したがって蔑むような言い様にも拍車がかかった。
「東くんったら、昨日廻神に言われてから一生懸命考えたんだ?えらいねえ。さすが生徒会副会長」
「ッお前」
東の顔が侮辱されたように真っ赤に染まった。
拳を握りしめた東がこちらに一歩にじり寄ったが、リオには関係ない。
「言っとくけど、私は誰に何されても屈しないから。そんな無駄なことに労力使ってる暇があったらお勉強でも頑張れば?
――今度はちゃんと、主席が取れるようにさ」
東が手を振り上げるのがスローモーションで見える。
避けるか、それとも一発喰らって廻神にチクるか、考えた末後者を選んだ。そっちのほうが東には効くだろうから。
しかし、いつまでも痛みは襲ってこない。
きつく閉じていた目を開いてみれば、そこには悔しそうにこちらを睨む東の姿があった。
「………会長に言われなくても、女子なんか殴らない」
東がゆっくり腕を下ろしたタイミングで本鈴が鳴り響いた。
はっと時計を見た東が、今度は薄く笑ってリオに視線を戻す。
「何されても屈しない――か。楽しみにしてるよ」
「……」
リオが微かに抱いた嫌な予感が現実となるのはそれから数分後の話だった。
**
「授業を始める」
教室の前の扉が鋭い音を立てて空いた。入ってきたのはスーツに身をつつんだ神経質そうな男。歳は四十も後半だろうか。
彼はジャージ姿のリオを見るなり、威圧的なため息を吐いた。
「お前が噂の問題児だな」
制服はどうした、授業の用意もできてないのか、と続け様にされた問いかけにリオは事実だけをかい摘んで答えた。
正確には、答えようとした。
「朝水をかけられたので着替えました」
――バン!!
教卓に教科書が叩きつけられる激しい音に、クラスが一斉に静まり返る。リオも思わず目を見開いた。
塩谷の冷め切った眼差しがリオ一人に向けられている。
「まずは、申し訳ありませんだろう。親の教育を受けてないのか?」
「……」
塩谷こえー、と笑い混じりの小さな囁き声がリオの耳に届いてくる。
「あいつマジで生徒嫌いだよな」
「一回標的決めたらそいつが卒業するまで一生いたぶり続けるらしいぜ」
「前にターゲットにしてたやつも頭おかしくなって消えちゃったもんな」
「次の標的こいつでマジで良かったわ」
(……
当然リオのデータファイルの中にこの男も存在する。
現校長の甥であり、生徒を自分の所有物として扱う独裁的な教師。
これまで幾度となく保護者からのクレームを受けているが、校長の
リオは冷静に男の情報を整理しながら、今しがた耳で拾った新しい情報に目をつけた。
(――変になって消えた生徒、か)
「先生。」
東が真面目ぶって手を挙げてる。
「彼女は我が校の校風を軽んじた言動や行動が多く、生徒会の監視下においてもなお目に余ります。どうか先生から直接ご指導いただけませんでしょうか」
「もちろんそのつもりだ。東」
塩谷は従順で自分の支配下に収まる生徒のことは特別に可愛がっているらしい。東や、彼女――撫子がそうだ。
「だめです、先生……!」
ここぞとばかりに突然席を立った撫子が、目にいっぱい涙を溜めて塩谷を見る。
「どうした?藤野」
「リオちゃん、こないだ別の先生のこと脅してたんです……!この学園でいじめが起きてるって、ネットに拡散するって……」
「……なに?」
塩谷の鋭い眼差しがリオに向けられた。
「だから気をつけないと、先生も……っ」
「――大丈夫だ。俺はそんな脅しに屈するような弱い人間じゃない」
「……」
よくない流れだな。
リオは目の前で進んでいく茶番を冷静に眺めながら思った。こういう男は、それらしく理論武装して相手を服従させることが楽しいのだ。大義名分があれば平気で一線を超えた行いをする。自衛はしておかないと。
リオは素早くポケットの中に手を差し込み、携帯画面をタップした。
(あとは数分時間稼ぎでもしとくか)
「ミゲル。お前が下劣で卑怯なクズだということは十分に分かった。お前には罰を受けてもらう」
「罰?」
「朝水をかけられたと言っていたが、服はどうした?」
リオは机の横にかけたビニール袋に目をやった。それに気付いた塩谷は、近付いてきてそのビニールを机の上に放り投げる。びしゃっと重たい音がした。
「着替えなさい」
「……は?」
「耳がないのか?それに着替えろと言ってる」
何言ってんだこいつ。
怪訝そうに顔を歪めたリオに、塩谷はまっとうな口ぶりで続けた。
「校則では、ジャージの着用は体育など運動に関わる授業の時のみ許されている。規律の乱れを生まないためにな」
「……水浸しの制服を着ろと?」
「水を被ったのはお前の失態だろう。それは制服を着なくていい理由にはならない」
「……」
「ちなみに、このことをネットに晒しても構わないが、その時は我々全員でお前の言葉が妄言だったことを拡散するから、そのつもりでいるんだな」
「……」
塩谷は、リオのクラスでの立ち位置を理解しているのだ。告げ口をする人間などいないことをわかってやっている。
「――けほ」
ならば、とリオは別の手に出ることにした。
「先生。さっき水を被ったせいで体調が悪くて……」
「そんな嘘通じると思ってるのか」
鼻で笑う塩谷。
「もともと体が弱いんです。都内にも行きつけの病院があるくらいで……あ。そういえば、そこで会った子が何か帝明学園の噂をしてたような……」
病院、噂、というワードを誇張して言うと、塩谷の表情が少し変わった。
リオはその変化を見逃さなかった。
「たしか、学校の先生からの執拗な攻撃を受けて心を病んでしまった子がいるとか……」
「そんなの、根も葉もない噂話だ」
「そうでしょうか?現に今私は普通じゃない要求をされていますけど、もし仮に、これで私が心を病んでしまったら、それは噂を裏付ける証拠になりますよね」
「馬鹿を言うな!!だいたい、これは、指導の一環で……」
かかった。
裏社会にいる人間がよく使う交渉術の一つに、相手の不安を煽る方法というものがある。語調やイントネーション、絶妙な間の使い方はもちろんだが、周囲の環境やこちらの仕草一つ一つに気付かれない程度の不快感をのせるのだ。
そうして、じっと待つ。
獲物がボロを出すのを。
「こ、ここは天下の帝明学園だ!多少のプレッシャーを跳ね除けられない人間が社会に出てやっていけるはずもない!」
「でも暴力は指導とは呼ばないですよね。先生は一度も生徒に暴力を振るっていないと断言できますか?」
「できるに決まってる!」
塩谷は気付いていないだろうが、額には汗の粒が浮かび、すっかりリオの術中にはまっている。塩谷どころか、クラス全体がもうやめてくれという嫌な緊張感で満ちていたが、リオは止めなかった。
もう少しで引き出せそうなのだ。
嘘をつく人間が、沈黙を埋めるために発する、余計な情報――。
「だいたい、あいつらは俺が標的にする前からとっくに変だったんだ!そんなことまで俺のせいにされてたまるか!!!」
さっと撫子のほうに視線だけ向けると、彼女は能面のような無表情で黒板の方を見ていた。
この騒ぎの中、こちらには一切視線を向けずに。
(十分だ)
リオはそれ以上追求せず、濡れた制服の入ったビニールを手に持った。
「わかりました。では着替えてきます」
まあそのままバックレるけど。
と心で付け足したところで、塩谷にすごい力で腕を掴まれた。その目は血走り、額には血管が浮いている。
「誰が出ていっていいと言った!」
きわめて動物的な反応だ。リオは呆れた。
自分の意思で感情がコントロールできなくなる不快さは、そのまま当人の攻撃性に直結する。
「俺は授業中の退出を認めていない!!これ以上の口答えも許さん!!」
「はぁ、ではどうしろと?」
「――――ここで着替えていきなさい」
ぞわっと背筋を悪寒が駆け上がる。
塩谷の顔には、いつしか歪な笑みが浮かんでいた。
「安心しろ。誰もお前のようなクズの着替えなんか興味はない。それよりも、これ以上授業が中断されることのほうが問題だ。早くしなさい」
リオはゆっくり、教室を見回した。
たくさんの生徒と目が合う。
彼女が制裁を受ける様を面白そうに見ている者、無関係を装っている者、さすがに居心地悪そうにしている者……。
東と目があった。
そこには、明らかな動揺と焦りの色が浮かんでいる。塩谷がここまでのことをするとは予想していなかったのだろう。
リオは思わず、東のことをじっと見つめた。
助けてほしいと他ならぬ彼に願ったのは、リオへの私怨より、学校の正当性を彼は重んじるはずだと、心のどこかでそう信じていたからかもしれない。
「……」
しかし東は何かを言いかけた口をつぐみ、やがてリオから目を背けた。
それは、リオを失望させるには十分な要因だった。
(……もう、いいや)
ジャージの裾に手をかけ、リオは勢いよくそれを引き上げた。
彼女のなめらかなオリーブ色の肌やレースのついた淡い色の下着が大勢の目に晒されたが、リオの胸中は凪いでいる。
ちらりと目があった撫子は口元を手で覆っていたが、その奥ではさぞかし満面の笑みを浮かべていることだろう。
(この任務が終わったら、とりあえずこの教師とあいつは極寒のシベリアに裸で吊るしてやる)
リオの指先がスカートのジッパーにかかった。
背後でがたんと激しく椅子が動く。
しかしその誰かが声を発するより早く、リオの身体は背後からふわりと白いものに覆い隠されていた。
珍しい真っ白な髪がリオの視界の隅で揺れた。
「何、してんだよ」
白衣だ。薬品の匂いがする。
底冷えするような静かな声を発する彼、伊良波の眠たげな瞳には、今日ばかりははっきりとした軽蔑の色が浮かんでいたのだった。
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