episodio3

真意不明のお誘い

 ざばっ


 キャハハハハ…


「……」


 頭からかけられた水はドブの匂いがして、リオは心底、彼らを殺したくなった。



「ごめんねえ、まさかそんなとこに人いるなんて思わなくって!」

 ベランダから身を乗り出した女子たちがくすくす笑っている。リオのクラスの人間ですらない。

「申し訳ないんだけど、汚いから今日は学校に入ってこないでくださる?」

「ねえ、あの水あんなに臭かった?」

「やだぁ、アハハッ」


 手すりの向こうに消えていった人影を睨みつけ、リオは険のこもったため息を一つ。

 くるりと踵を返した。

 このまま授業を受けるのなんてリオだってごめんだ。たしか、剣道場に一つ備え付けのシャワーがあったはず。


(少し貸してもらおう)


 その判断をリオが後悔したのは、入ろうと思っていた剣道場から王凱たちが連れ立って現れた時だった。

 どうやらちょうど朝練の終わった時間とかぶってしまったらしい。そんなものがあったことをリオは聞いてもいなかったけれど。


「あ、リオちゃん」

 そこには撫子の姿もある。

 全員の視線がリオに突き刺さった。特に、鋭い目を向けてきたのは王凱だ。


「何の用だ。ミゲル」

「……シャワーを借りに来ただけ」

「ここはお前が私的に使っていい場所じゃない」

「あら、どうして?私は剣道部の顧問補佐なのに」


 口角を上げていうと、王凱の表情が鬼のように険しくなる。「貴様…」と怒りに震える彼を抑えたのは、案の定撫子だった。


「王凱先輩、急がないと授業に遅れちゃいますよ!」

「……撫子」

 王凱にを呼ばれた撫子が、にこっと笑って王凱の腕を引いた。

 どうやらここ数日で随分距離を縮めたらしい。


「みんなも、ほら、行きましょ!」


 さあさあと部員たちを追い立てる撫子が振り返ってリオにウィンクを送る。悪女を庇ってあげる優しいヒロイン、の、演出。茶番である。

 それを無視してリオはさっさと剣道場に足を踏み入れた。

「ミゲル」

 王凱の冷たい声が背中にぶつかる。

「お前の退部は二週間後だ。俺や志摩がお前に使った時間の貴重さを天秤にかけると、そのくらい従事してもらわなければ割に合わない」

「……」

「掃除から防具の手入れまで、今日からは全てお前一人でやってもらう。明日は朝練にも来い」

「……はい」


 リオが素直に頷いたのが意外だったらしい。王凱は微かに目を見開いたが、すぐに口調を強めた。


「この二週間で、少しはその性根も叩き直していけ」


 唇を引き結び、後ろ手に扉を閉める。

 王凱の後ろでこそこそ額を寄せ合う山口たちの存在も、当然視界には映しながら。




「山口先輩たちアレまた何か企んでますね。りないな」

「……」

「あれ。志摩さん、今日はあの人助けに行かないんですか?」

「……いいだろ。もう」

(ふうん)



***




 一応警戒していたが、リオのシャワー中に山口たちが乱入してくることはなかった。来たら今度こそ全員の股間を使い物にならないようにしてやるつもりだったが、命拾いしたものである。


(……剣道場の匂い)


 二階の窓から差し込む瑞々しい朝の日差しに反して、道場は沈黙に包まれている。それが心地よく、リオはひたひたと裸足のまま道場の中央に進み出た。

 最近は色々立て込んでいたせいで、竹刀を振りたいという気分にならない。


(このまま剣道嫌いになったらどうしよう)


 憂鬱だ。リオは深いため息をつき、そのまま床に大の字に倒れ込んだ。

 授業はとっくに始まっている。しばらく人は来ないだろう。考え事をするにはちょうどいい。


 撫子はどうやら制服の時も、体育や部活でジャージに着替えた時も、肌身離さずあの薬を持っているようだ。ここぞという瞬間を逃さず使うためだろう。

 クラスメイトや部員たちのことは観察しているが、今の所誰かがクスリを使われた様子はない。一番危ないのはおそらく東だが、彼は幸い医者の家系だ。

 使用されたとして、彼の家族がその異変に気付かないとは思えない。撫子もそれを危惧しているのだろう。


(撫子に気付かれず薬を頂戴する……。ノーチェだったら、廻神か誰かに変装して撫子に近づくんだろうけど、私は変装得意じゃないしな……。気絶させて奪う?飲み物に薬を盛るとか?でもどうやって――)


 ぱき、


 不意に剣道場の扉の外から枝を踏む音がして、リオはぱっと身を起こした。

 人が入ってくる様子はない。


「……」


 そっと扉に近付き勢いよく開け放つと―――「な゛ー!!!」「イテテ……」

 剣道場の外で、暴れ猫に引っかかれる瀬川の姿があった。


「………何してるの?」

「猫を愛でてたらどこかの誰かさんがアホみたいな勢いで戸を開けたので、驚いた猫に引っかかれてます」

「……ごめん」


 瀬川が諦めて猫を解き放つと、茶色の毛玉は凄まじい勢いで逃げ去っていった。

 ため息をつきながら腰を上げた彼は、抱えていた竹刀袋を立てかけて土のついたお尻を払っている。ずいぶん長くそこにいたのか、やや湿ってしまっているようだ。


「先輩、サボりですか?」

 さらりと尋ねられ、リオも頷く。

「……1限目は仕方なく」

「ふうん。俺もです」

「……」

「……」

「……?」


 一向に立ち去る様子がない。何か害意があるわけでもなさそうだが、訝しげなリオを見つめる顔は相変わらずの無表情だ。

 これはこっちが立ち去るべきか、とリオが動こうとしたところで、ようやく瀬川が口を開いた。ミゲル先輩、と。


「俺とデートしませんか」



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