信頼

「リオちゃんってばっかだよねえ」


 立ち去る志摩を見送ったリオのもとへ、一人の影が近づいてくる。


「あそこで泣いてすがらないから、一人ぼっちになっちゃうんだよ?」


 いつから見ていたのか、喜悦満面の撫子だ。リオが思い通りに動いたことがよほど嬉しいのだろう。


「……志摩を味方に引き入れたら、彼の家をどうする気だったの」

尋ねると、撫子は肩を竦めた。


「もちろん、パパに出資しないでってお願いするだけ。あとは、二、三人うちの若いのを取り立てに行かせて、心が壊れるまで強請ゆすったら、一家心中に追い込むの。ま、圭介だけは助けてあげるけど」


 だってかわいそうだもの、とくすくす笑う撫子。


「精神が崩壊する寸前で助けてあげたら、彼の一番は私になるに決まってる。そのあとは一生奴隷として扱うわ。一瞬でも私以外を選んだ男なんて、その程度の扱いで十分でしょう?」


 撫子は携帯をちらりと見ると、「きゃっ」と嬉しそうに声を上げた。


「王凱先輩、今日も放課後送ってくれるんですって!今まで取っ掛かりがなくて悩んでたけど、あなたのおかげで親密になれたかも!ありがとね、リオちゃん」

「……糞ビッチ」

「やだ、悪いお口。私はただ愛されるのが得意なの。他の誰よりもね」


 軽やかにリオに背を向けた撫子が、あ、と思い出したように振り返る。


「今日の放課後は生徒会よね?廻神先輩も昨日のとっくに懐柔済みだから、楽しみにしててよね」


 立ち去っていく撫子。

 リオは自分の心が、重く沈んでいくことに、気付かないわけにはいかなかった。

 

(助けてなんて、言うべきじゃない)





「助けてェ!!」

 化学準備室の地下室に訪れたリオは、入るや否や伊良波の突撃を受けてよろめいた。真っ暗な視界の中で別の声がする。

「っっっ何をしてんですこのアホ!!今すぐリオ様から離れなさい!!」

「嫌だ!!これ以上君といたら気が狂う!っていうか今僕をアホって言った!?この僕の頭脳に向かって!?」

「アルバ様に殺されますよ!!?」

「このままだと君に殺される!」

「なんなの……?」


 突撃してきた伊良波を引き剥がすと、地下室にはなぜかジルの姿があった。伊良波の白衣を引きちぎる勢いで引っ張っている。

「ジル来てたの?」

「ええ!機材設置のために少々」

「それであれは?」


 普段伊良波が実験道具を広げている机の上には、なぜか今所狭しと料理が置かれている。ほうれん草のスープに人参のロースト、アスパラガスのグリル、季節野菜のパフェ……。


「野菜フルコース?」

「……申し訳ありません。リオ様」

 ジルが非常に言いにくそうに口を開いた。

「ここ数日、伊良波巴に何か不審な動きがないか監視していたところ彼の食生活のおぞましさに気付いてしまい、つい……」

「余計なお世話すぎるんだよ……」

「ジルが戦慄するほどの食生活ってどんなの?」


 伊良波がデスクの引き出しから、言わずと知れたカラフルグミの業務用袋を取り出した。

「三食ハ●ボー」

「ジルお願い」

「はいリオ様」

「えっ、何何やだ怖い怖い怖い来ないで!来ないで!誰かー!むぐごっ」


 ジルに無理やり野菜を口に突っ込まれている伊良波から目を離し、リオはこっそりため息をついた。

 なんとなく人のいないところに行きたかったが、まさかこの二人がこんなに仲良くなっているとは思わなかった。

「何かありましたか?」 と目ざとくジルが尋ねるが、リオは黙って首を振った。


「放課後が憂鬱なだけだよ」



**



 帝明学園の生徒会室は西校舎の三階に位置する。他の教室の入口は引き戸であるにもかかわらず、高校のエンブレムがかかった生徒会室の扉だけは重厚な木製で出来ていた。


「失礼します」


 背筋を伸ばして室内に足を踏み入れると、中にいたのは廻神一人だ。

 部屋の奥に設られた椅子に腰掛け、リオを一瞥すると無言で自分の正面を指す。

 想像通りの反応に、リオも言葉なく応じた。


「ずいぶんな騒ぎを引き起こしてくれたな」

「……」

「昨日の夜、うちに藤野薊から連絡が入った。裁判を起こすのも辞さないほどの憤慨ぶりだったらしいが、どうやら彼女――藤野撫子が父親の気を収めたらしい。学友が退学するのを見たくないと泣きながらな」


 つい鼻で笑ってしまう。

 おおかたまだ仕返しが足りないだけだろうに。


「何か可笑しいか」


 廻神の冷たい声音。

 まるであの時のようだと、リオは廻神と初めて顔を合わせた図書館での出来事を思い出したが、今はあの時のように反論する気にはなれなかった。

 何一つ面白くないからだ。こんなもの。


「一つだけ言っておく」

 無言でいるリオを前に立ち、廻神は続ける。


「被害を受けた生徒が許しているものをわざわざ取り沙汰する必要はないというのが父の見解だ。――だが、俺はそうは思わない。自分が起こした事についての責任は取るべきだ」

「……なら退学にでもする?そんな権利あなたにないでしょ」

「そうだ。だから俺は俺のやり方で、罪を償わせる」

 廻神の手が持ち上がり、リオの鼻先に迫る。


 ぱちん、

と想像よりもはるかに軽い刺激がリオの額を弾いたのはその時だ。

「……!?」

 驚いて数歩後退り、額を押さえて目を瞬かせるリオ。

 廻神は冷たい表情を、不意ににやっと悪戯な笑顔に変えた。


「……なんてな」

「え」

「悪いな。お前がこの世の終わりみたいな暗い顔で入ってくるから、ついからかいたくなった」


 そう言って肩をすくめる廻神。

 リオは少しも状況についていけないまま「……何で」と呟くように尋ねた。


「何で?それは、どうして俺がお前を責め立てないかってことか?それとも、藤野撫子の味方をしない理由について?」

「……」

 正直どっちもだ。そんなリオの心が読めたらしい。

「あんまり俺を舐めるなよ」と廻神はすっかり気分を害したようだった。



「俺は誰より自分の目を信じてる。人を見抜く目だ――。だから、俺がお前を生徒会うちに入れると決めた瞬間から、俺がお前を信じることは決まってる」


 廻神の言葉に、リオはゆっくり肩を下ろした。

 そのまま側にあった椅子に腰を下ろすと、その拍子にぽとりと涙が溢れる。

(あ…)


 驚いたが、一粒溢れてしまうともう止まらない。後を追うようにぽろぽろ溢れてくる涙を放置していると、困り顔になった廻神がリオにハンカチを差し出した。

「悪かった。泣くな。もうしないから」

 リオの前に膝をついて優しく語りかける廻神。


 そうじゃない。信じているという言葉にこんなにも救われる日がくるとは思わなかったのだ。

 それはリオが今まで当たり前に持っていたものだったから。

「っ、……、」

 だから、それを誰からも与えられなかった朱音を思うと胸が苦しくなる。自分を信じようとしてくれた志摩を突き放したことも、今は後悔している。ごめんなさいと言いたい。

 どうすることもできなかったけれど。


「話してくれ。ミゲル。今この学園で一体何が起こってるんだ」


 真剣な顔つきで尋ねる廻神を前に、リオはぐすっと一度鼻をすすった。

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