あの子の痛み
帝明学園の生徒たちは、たしかに一般の学生に比べれば裕福な家庭環境に生まれ、恵まれた生活を送っていることだろう。だからこそ、与えられる試練やプレッシャーも大きい。
厳しい試験や受験勉強はもちろん、周囲の生徒との競争。家族から受けるプレッシャー。クラス内の派閥や力関係が、そのまま社会に出てからも継続される。
誰もがストレスを抱えている。
だからこそ、そういったものの捌け口に、彼女たちはちょうどよかったのだろうか。
「とうとう尻尾を出したな」
席に着くなり目の前に仁王立ちになった相手を、リオはゆっくり見上げる。
そこにいたのは帝明学園生徒会副会長、
彼はビロードのような黒々とした目にはっきりと軽蔑を浮かべ、リオを見下ろしている。
「剣道部での一件は既に生徒たちから報告を受けている。学園の器物損害、生徒に対する暴力行為。到底、許される行いではない」
(やっぱりな)
怒りに震える東を見ながら、リオは冷静に思った。昨日の撫子の一件は生徒たちの間でも既に話題になっているらしい。
「ねえ聞いた?」「聞いた聞いた、撫子さん怪我させられたんでしょ?」「怖いよねぇ」「しかもあの転校生、剣道部と生徒会のメンバー全員狙ってるらしい」「何様なんだっつーの」「相手にされるわけないじゃん」「身の程知らず」
校門に一歩立ち入った瞬間から浴びせられる視線。
ひそひそとした囁き声は、悪意をはらんでいっそう耳障りだ。
「
東の声に、リオはぴたっと動きを止めた。
彼は嘲りのこもった微笑を浮かべている。
「君と入れ替わるように学園から去った馬鹿女がいたんだけど、まさか君も同類とはね……。ちょうど彼女もその席に座ってた」
「馬鹿女……?」
「ああ。藤野さんの人望を妬み、彼女をいたぶろうとした愚かな奴だよ」
冷ややかな視線でリオを一瞥した東は、身を翻し、教室の中央へと向かっていった。
そこには撫子の席がある。
本人はまだ来ていないが、東はまるでそこに撫子がいるかのように、椅子の背もたれに優しく触れて言った。
「けどあいにく、僕たちは誰一人、彼女の妄言を信じたりしなかった。そんなものじゃ、これまで藤野さんが築いた一人一人との友情は崩せない」
例えばこれが、リオが悪役の物語ならいい。もしそうなら、今この瞬間がその物語のクライマックスだ。
でも違う。
何もかも違う。
「リオ=サン・ミゲル」
東の強い視線がリオにぶつかる。
まるで正義の旗を掲げるような、凛とした面持ちで。
「帝明学園から出ていってくれ。君の居場所はここにはない」
その瞬間、教室が歓声で包まれた。
沸き起こる拍手の渦中で東が目を白黒させている。
「おいおい!やるな副会長!」
彼の弁舌に心打たれたのはクラスメイト達だった。
「正直頼りねーやつだなと思ってたけど、訂正する!東はやる男だわ!」「来年はお前のこと会長に推すぜ!」とからかい混じりの男子達の声に、状況を理解したらしい東が「誰が頼りないだ!」と照れくさそうに応じている。
「ねね、今の東くん、廻神会長っぽくなかった?」「かっこよすぎてときめく〜」「てかうちら団結力ありすぎじゃない?」「ね!撫子ちゃんはうちらが守るし!」
声に熱を込める女子達。
その喧騒の中で、誰一人、もうリオを見ているものはいない。
まるで話はこれで終わったと言わんばかりに。まるで、そこにはもう誰もいないかのように。まるで、まるで――。
リオは内ポケットに腕を差し込み、冷たい鉄の塊に触れた。
(……朱音)
リオにはこれがある。その気になれば、ものの数分でこの青春劇場を終わらせることもできる。
ここから飛び出して飛行機に乗るのもいい。
そうすれば、カサレスの白い家で、Deseoの皆や、アルバがリオを迎えてくれるから。
だけど、朱音は、ただのふつうの女の子だった。
優しい両親を傷つけたくないから、自分の受けている残酷な仕打ちについて誰にも相談できない。一人で抱え込んで、必死で耐えようと頑張ってしまう。
そういう、ただのふつうの、心優しい女の子。
リオはゆっくりと胸元から腕を引き抜き、膝の上に手を置いた。
それからは、たびたび浴びせられるクラスメイト達からの暴言や、悪意ある言葉に反論することもなく。
自分の鞄が踏み付けにされて、ノートが破られ、目の前で残酷な言葉を書き連ねられても、俯きながらそれらの行為に耐えた。
がた。
リオがようやく席を立ったのは、最後の授業終了を告げるチャイムが鳴った直後のことだ。
クラスメイト達の視線に追い立てられるように教室を出、その足で屋上へ向かう。途中で水を三本買った。それを抱えながら、一段飛ばしで階段を駆け上ると、屋上はやはりあの日同様、施錠もされていなかった。
当たり前だ。普通そんなもの必要ない。
命の危険があるようなあちら側へは、この高い高いフェンスを乗り越えていかなければいけないから。
そう思った時、堰を切ったように涙が溢れた。
「………う、うう〜〜〜っ、あかねぇ〜〜」
ぼろぼろっと堪えきれない涙が頬を転がり落ちる。
幸いにも人の姿はなく、リオはフェンスに額を押し付けて、肺の底にたまった毒を嗚咽の隙間に吐き出した。
(朱音、あんなのよく耐えた)
(私だったら三日も持たない)
(あいつら最悪だ、最悪最悪最悪……むかつく、殺したい、殺したい!)
(朱音はすごい)
こんな仕打ちにずっと耐え続けた、朱音のなんとすごいことか。
そう思うと、今たくさんの管に繋がれてどうにか呼吸をしている彼女の姿が頭をよぎり、また熱い涙が溢れた。
(全員、殺してやる……!!)
朱音が受けた痛みを思い知ればいい。
彼らの持つ権利も財産も全て奪って、両親の庇護も、法さえ及ばない地へ追いやり、暴力と迫害の中、常に命の危機と隣り合わせの生活を送らせてやるのもいい。
死ぬよりずっと苦しい目に、彼らを合わせたら、そしたら朱音はーー。
『――リオちゃん。あそぼ?』
耳の中に、優しい声が木霊する。
朝顔の鉢の隠れて泣いていたリオ。あの日、差し出された小さな手のひらを、リオは忘れたことはない。
握りしめていた日記が手のひらから落ちる。
『いつか、きっと戻れる』
『ちゃんと戻れる』
『信じてれば、きっと……』
『みんなまた、絶対普通に戻ってくれるから』
それは日記の中に散りばめられた朱音の願いだった。あんなことをされても、朱音は彼女たちを信じていた。
(……できない)
朱音は取り戻したかったのだろう。友人たちと笑い合う、あの輝かしい日々を。
「……」
リオはパキッとペッドボトルの蓋をあけると、自分の頭上でそれを勢いよく逆さにした。
冷たい水が一気に流れ落ちてくる。
顔や背中を伝って、あっという間にリオは水浸しになった。
一本目がなくなり、二本目の蓋も開けて水をかぶる。なくなれば、三本目。
彼女の足元に三本の空ペッドボトルが転がった時には、リオの表情は普段通り、強く意志のある少女のものへと変わっていた。
真っ赤な目をぬぐい、濡れた髪を掻き上げ、沈みゆく太陽を睨みつける。
(朱音は必ず全快する。)
(だからその時までに、私が、あなたの帰る場所を取り戻しておいてあげる)
リオの胸の中には強い野望が燃えていた。
朱音はふつうの女の子だ。けれども幸いなことに、ちょっとだけ普通じゃない友達を持っていた。
「私は負けない」
殺し屋兼、極門一家の孫。少女、リオの反撃の始まりである。
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