獅子奮迅
王凱、志摩に並んで、各所で行われる部員たちの激しい打ち合いを眺める。二人のおかげであらかたのルールや有効打突の入れ方、反則などはかなり思い出せた気がする。
この道場にいる生徒たちのレベルの高さもなんとなく分かった。
(なるほど。これが全国常連校というやつか)
「基本的な部分はもう大丈夫そうだな」
王凱の声に頷いた。
しかし彼は厳しい眼差しをさらに尖らせ、道場の対角を睨みつけている。
見れば、そこでは椅子に座って見学する撫子のそばに数人の部員が群がり(なかには復活した山口の姿もあった)剣道のルールを教えるという体で会話に花を咲かせているようだ。
「あいつら撫子がいるからって気緩んでやがるな」
志摩が呆れたようにこぼすと、王凱の青筋がわかりやすく浮かび上がった。
「貴様ら!!外周10周!!」
数名が飛び上がって道場を転がり出ていく。
どうやらこの剣道場内での絶対君主は、やはり彼、王凱らしい。
「瀬川!」
続け様に呼ばれたのは例の無表情な青年だった。
駆け寄ってきた彼は額に浮いた汗をぬぐい、涼しげな顔で王凱を見る。リオと目を合わせようとしないあたり、もしかすると彼もまた例の噂話を耳にしているのかもしれない。
「今から三本。ミゲルと打ち合ってくれ」
は?と揃ったのは、志摩、瀬川の声だ。一方のリオはここでようやく王凱の思惑を確信する。
「おい王凱、こいつまだ試合できるほど仕込んでねーぞ」
「問題ない」
志摩の言葉に王凱は淡々と答えた。
「外から見るのと実際に体感するのとでは理解の速度が違う。これも必要なプロセスだ」
「……なら、志摩さんでいいじゃないですか」
「瀬川」
王凱の声は低く揺るぎなかった。
「俺は無駄なことはしないし、させない。彼女との一戦で、お前はお前に必要なものを養え」
「………」
明らかに不服そうな瀬川。
こんな素人との試合で一体何が養われるというのだ――というオーラを隠してもいない。ため息混じりに「わかりました」とこぼし、リオに向き直った瀬川は、冷たい視線をリオに投げ、はっきり言い放った。
「言っときますけど手加減はしませんからね。怪我が怖いなら、はじめから場内に上がらないでください」
リオからの返事も待たず、瀬川は背を向けて行ってしまった。
「志摩、
リオはすぐに志摩に面を差し出した。視線は瀬川から離していない。
「……お前、大丈夫なのかよ」
「何が?」
「何がって……」
ため息をついた志摩はリオから面を受け取ると慣れた仕草で面紐を結び始める。リオの頭にそれを被せ、ずれないように固く締めた。
これで視界は格段に狭まる。
志摩はいつしか、無情な戦場に子供を送り出すような苦い心持ちになっていた。
「相手は瀬川だ。ちょっと剣道かじってたからって歯が立つ相手じゃねえぞ」
「うん」
「………怖いとかそういうのねーのかよ」
「ない。別に死ぬわけじゃないもの」
さらりと発された言葉の自然さに驚く。そうこうしているうちに、リオは竹刀を握り直して一歩踏み出した。
剣道の試合には、明確な手順がある。
まずは提刀で場外に立ち、正面を見る。試合場内に入り相手と向き合い、提刀のまま立礼。帯刀。開始線まで3歩で進む。3歩目と同時に竹刀を抜きながら
「――……」
剣道場の、ほんの一角で行われていたその試合に、気付けば全員の視線が注がれていた。誰だ、と、初めは誰もが思う。
あんな小柄な部員はいないはずだと。
そして素足の小ささから女性であると気付き、やがて行き着くのは、今この剣道場内に立ち入ることの許された二人の女子生徒。
学園の人気者、藤野撫子は道場の傍で百合の花のように腰掛けている。彼女ではない。となると、あれはつまり――。
瀬川の向かいに立つ相手の、一連の流れるような所作の美しさに、誰もが声を発することを
(……ただの素人ではないみたいだな)
けれど、それだけだ。
自分の相手にならないことには変わりない。
対峙する相手からは大概、殺気のような、肌がひりつく緊迫感が滲み出る。瀬川のような強者を前にした時には、特に。
勉強でも、その他の学生生活でも、私生活でも。
ほとんど心が動かされることのない瀬川にとって、肌が痛むほどの緊張感に覆われるその瞬間は何より貴重で尊いものだった。
それが、彼女からはまるで感じられない。
(……つまらない)
空気を切り裂くような気勢を発すると同時に、瀬川は素早く足を踏み出した。そして竹刀のぶつかる鋭い音が――――否。すでに終わっていた。
パンっ
**
「……
志摩が呆然と呟く。
それは、試合直後の相手の、ほんの一瞬の隙をついて小手を斬り落とす技である。
見事に一本を取られた瀬川が呆然としているうちに既にリオは間合いを広げ、
瀬川が一歩踏み出すより早く、疾風のように動いたのはリオだったのだ。
――おぉっ
沈黙は、すぐさま部員たちのどよめきに塗り替えられた。
実力者たちが揃い踏みのこの道場内で、もはやリオを侮る者はいない。志摩も同様だ。知らずのうちに背筋を伸ばし、竹刀を握る彼女に対して、素直な賞賛の念が胸には湧いていた。
ざわめく剣道場で、王凱が満足そうに頷く。
「瀬川からは度々、一目で格下と思われる相手への
なるほど。
志摩は唸った。
これまで奴が足元をすくわれてこなかったのは、相手もほどほどの実力者であり、瀬川もまた十分に警戒していたためであろう。今日以降、瀬川の中でその油断は1ミリ足りて消え失せたことは断言できる。
今、場内で発されている瀬川の気勢は、もはや本物の戦場に投げ出された剣士のそれであったからだ。
「これで
すべては策略通りだと言わんばかりの王凱に、志摩は呆れた目を向ける。
「末恐ろしい奴だよな、お前って」
「勝ちに貪欲だと言え」
「……っていうか、そもそもあいつにこんだけ実力があるっていつから気付いてたんだよ!」
志摩は、スカウトした自分よりも王凱の方がリオの実力を正しく
それもそのはず。
王凱は遠い昔、一度リオと会っているのだ。
(……彼女も覚えてはいないだろう)
思い出すのはあの古い道場。畳と木の香りのなか、凛と
桜の精のような出立ちで、そのくせ誰より楽しそうに竹刀を振るう姿に、当時の王凱がどれほど心を奪われたか。
(――まあこれは、言わずともいい話だ)
この再会に王凱自身思うところはあったものの、その気持ちまで掘り起こす気は毛頭なかった。今の自分にとって一番大切なものは、自分の代でこの部を全国の頂点に導くことなのだから。
「一本!」
審判の部員の声が響き、瀬川に対し一礼したリオが二人の元へと駆け戻ってくる。王凱、志摩は改めて、健闘した彼女を拍手で迎えた。
「やー、負けちゃった!やっぱり強いね彼」
面を外したリオが照れくさそうに笑う。
「……お疲れ」
「ありがとう!」
上気した頬にしっとり汗ばんだ額。曇りない瞳で屈託なく見上げられ、つい今しがた先程の非礼を詫びようと心に決めていたはずの志摩は、口を引き結んで顔を背けた。
「それより王凱。私の役割、あれでよかった?」
リオは王凱に顔を向けて尋ねる。王凱は驚いたように目を丸めた。
「……俺の意図がわかったのか?」
「もちろん」
王凱の意図にリオが気付いたのは、防具を身につけてしばらくしてからのことだ。
剣道部の要である志摩や、王凱自らがわざわざ時間を割いて「顧問補佐」などの指南役に回るだろうかと思ったことが一つ。
それぞれの欠点をあげながらされた部員の紹介が一つ。
確信したのは、王凱が瀬川に告げた「無駄なことはしない」という一言だ。
(つまり、足元をすくって欲しいというわけね)
であれば、この部においてトップ3に名を連ねる瀬川にリオが取れる一本など、初めから小手くらいに限られている。それが証拠にその後の二本は驚くほど凄まじく鋭く、迅速に入れられてしまった。
「たぶん二回目は通用しないから、これ以上のことはもう望まないでね」
冗談混じりに告げたリオに、王凱はふっと目元を緩めた。
「十分すぎるくらいだ。どこも痛めていないか、ミゲル」
「ええ」
強面で体格もしっかりとしている王凱は、初見の相手にはまず恐れられるのが常だが、彼が微笑むとその破壊力は極寒の氷河期すら吹き飛ばすようなものだった。どこかでまた剣道部のファンたちが悲鳴を上げている。
撫子が道場の対角で腰をあげたのも、この時だった。
「お、おい、主将笑ってるぞ」
「あの鬼主将が……?」
「嘘だろ!?」
周囲の部員たちの囁き声に、王凱は咳払いしてすまし顔を作った。
「ミゲル先輩」
防具を外した瀬川がリオの前に立つ。
相変わらずの無表情だが、リオを見つめる瞳にもうあの見下すような冷ややかさはない。
リオもまた先程の一戦の礼をしようと右手を差し出した。
「瀬川。さっきはどうもありが、」
「俺に気があるって本当ですか?」
リオの言葉を遮って放たれた、無表情かつド直球な問いかけにざわめいたのは周囲の部員たちだ。やはりクラスメイトのプレゼント(略)事件は既に本人の耳にも入っていたようだ。
全く事情を知らないのは「どういうことだ……?瀬川は急に何を言い出した」と
リオは突然の問いかけに驚きつつも正直に首を振る。
「ごめん、全然ない」
瀬川は舌打ちを一つすると「やっぱりな」「クソ」「わかりました」とぶつぶつ頷いて一歩距離を縮めた。リオが中途半端に差し出していた右手をとって、強く握る。
「じゃあ、なったら言ってください」
「え?」
「好きになったら言ってください」
混乱しながらも彼の圧に負けてわかったと頷いてしまう。
瀬川は再び頷くと、満足そうに歩き去っていった。
「なんなのあの子……」
「リオ」
リオが振り返ると、そこには機嫌悪そうな志摩が立っている。
「やっぱりこれはお前からあいつに渡せ」
差し出されたのはリオが直した、宮城の腕時計だ。
「え?でも」
「いいから」
リオの腕を掴んだ志摩から無理やり握り直される。
「クラスの女から、お前宛の、愛のプレゼントだ、っつって、本人に、絶対渡せよ!わかったな!」
「……わ、わかった」
瀬川に劣らずの気迫にまたもや頷いてしまう。鼻息荒く去っていく志摩。誰も彼も、もはやわけがわからない。
リオはその後も何度か部員たちに声をかけられながら、剣道部での初日は無事終了時刻へと向かっていく。道場に初めて足を踏み入れた時より、ずっとずっと居心地がいい。
このまま最終日までいられたら――とリオは思うが、そうもいかないのが世の常である。
「リーオちゃん」
「………撫子」
「試合、見てたよ!すごかったねえ、感動しちゃった私」
愛らしく微笑みながらそっと腕を掴み、リオを見つめる撫子の瞳の奥には闇がある。光を受けても跳ね返さないほど、深く完全な闇が。
「それでね、ちょっとお話があるんだけど、一緒に来てくれるかな?」
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