はじまりの足音
「うちの部員がすまなかった。あとで
剣道場に併設された部室にて、誠実さが滲み出るような丁寧な謝罪をする王凱に、なんだかこちらのほうが申し訳なくなってくる。
だがしかし、今は別の問題である。
「王凱先輩!タオルはこちらで大丈夫ですか?」
「ああ。悪いな、藤野」
「いいえ!私にできることなら何でも言ってくださいね!」
藤野撫子。
剣道部マネージャー就任。
「まじかよ撫子先輩じゃん!」「最高なんだけど!」「むさい剣道部に帝明のアイドルがきてくれるなんてっ!!」
と部員たちの中には感動で涙するものまでいる。
撫子が困り顔で近づいてきた。
「ごめんねリオちゃん。実は私、剣道部顧問の先生と仲良くて、今回マネージャーのお仕事頼まれてたんだよね」
「そうだったの」
「うん。だから一緒にがんばろうね!」
「王凱。早く始めようぜ」
道着姿で現れた志摩は、リオにはいっさい目もくれない。
(なるほどね)
どうやら彼は既に、撫子から色々と吹き込まれているらしい。
王凱は頷き、再びリオと撫子に向き直った。
「今回我が部に補佐役を入れたのは、顧問の小野里先生が産休で暫く学校におられないことと、全国大会に向けて部の実力を底上げするためだ。君たちにはその間のサポートをしてもらいたい」
「サポートって、具体的には何を?」
「そうだな」
王凱は鋭い視線を道場内へ向けた。
道場ではすでに竹刀を持った部員たちが打ち合いを始めているため、そこかしこで気合の入った掛け声が飛び交っている。
「稽古の前半は基礎練習、後半は試合が主な流れになる。今後ミゲルには試合の副審、スコア表の作成、撮影などを主にやってもらい、藤野には他校との練習試合のセッティングや防具のメンテナンスなどの雑務をやってもらいたい」
「……すごい。リオちゃん、審判できるの?」
笑顔を浮かべながら撫子の目はちっとも笑っていない。自分が雑用でリオが主力、という構図が許せないのだろう。ジルの予想通りプライドがエベレスト級だ。
「ミゲルは経験者だろう。思い出しながら覚えればいい」
「わかった」
あっさりそう言った王凱に、リオは改めて尋ねた。
「私の試用期間は確か二週間だったよね」
「ああ」
残念ながら、おそらく、リオが剣道部に携われるのはこの二週間だけになる。
これはほとんど確定事項だ。
(――今ここに撫子がいるってことは、ある意味で、私の張った罠に彼女がかかったことになる)
ジルは既に部室と剣道場、その周辺にもカメラを配置している。
リオは順調に撫子のヘイトをためつつあるようだし、尻尾を掴めるのはそう遠い未来ではないだろう。
カメラのどれかが撫子の本性を映してくれれば御の字だ。
リオが学園を去る時、撫子の手には何も残っていない。
友人も熱心な信者も騎士たちもおらず、全てを奪い去って、朱音の尊厳と名誉を取り戻す。
「王凱」
リオは彼に向かってまっすぐ右手を差し出した。
「二週間。私にできることは全てやる」
利用するからには、せめて少しでも彼らの役に立たなければならない。それが厄介ごとを部に持ち込んだリオの責任であり、帳尻合わせでもあるとリオは思っていた。
「あなたたちの努力を支えられるよう尽力するから、色々と教えてください」
リオの視線を真っ向から受けた王凱は暫く目を瞬かせていたが、やがて微かに笑い「こちらこそ宜しく頼む」と手を握り返してくれた。
**
「……で、これは?」
「着ろ」
8畳ほどの用具室の中で、仏頂面の志摩が言う。
リオの前には剣道着と防具一式が置かれていた。
「今日一日でお前に初歩的なことは全部叩き込む。実際に身体で覚えた方が早い。あとで試合も見せるから、そこで副審のやり方、反則、採点基準も全部覚えろ」
「……分かった」
「こっちは稽古の時間削って時間作ってやってんだ。使えないと思ったらすぐ追い出すからな」
言葉の節々から並ならぬ苛立ちが伝わってくる。
昨日とはえらい態度の違いだ。
一体撫子に何を吹き込まれたのやら。とため息をつきながら、リオはジャージの裾に手をかけた。
「おい!!!」
見ると、志摩は頭の先から首まで真っ赤になっている。
「何よ」
「何よじゃねえよ!!何でここで着替えようとしてんだ!!」
「ああ、大丈夫。下に半袖半パン着てるから」
「そういう問題じゃねえ!!ばかじゃねえの!!」
赤鬼のように喚いて勢いよく背を向ける志摩。
(怒ったり照れたり騒がしい人だな…)
リオは若干呆れながら長袖を脱ぎ、襟首の柔らかくなった古い道着に腕を通した。
**
帝明学園の剣道部が女子に騒がれるのは今に始まったことじゃない。
3年前、強豪校の一つとして、中学生だった俺が進学先の見学に来た時から、道場の周りにはいつも女子たちが群がっていた。
帝明学園に運動部は少ない。中でも確かな実績のある剣道部は女子にもてはやされやすいのだろうと、一緒に見学に来ていた親父は言った。
「よかったなァ、圭介。ここ入ったらモテモテになれるぞ!彼女もできるかも」
「……別に興味ねーし」
「ま、正規ルートで入学させる金なんかねーから、入りたきゃ絶対推薦枠狙えよ!王凱みたいによ!」
「分かってるっつーの!!!」
本気で剣の道を極めようとしている俺にとって、「自分は誰それのファンだ」「自分はあの人だ」などと色めき立って騒いでる女子たちを見ると、ちょっとした嫌悪感さえ湧いてくる。
(お前ら、そいつが陰でどんな努力を積んでいるのかも知らないくせに、上辺だけ見て何がファンだよ)
だから、俺が見込んだあいつが部員狙いのミーハー女だったと知った時、俺は俺自身に何よりも苛立ったんだ。
「……クソッタレ」
撫子が心配そうな顔でこちらを見つめている。
「でも圭介、噂は噂だから、あんまりリオちゃんに冷たい態度取ったりしないでね」
「……最初からお前に頼んどきゃ良かった」
そう言えば、困ったような笑顔が返ってくる。
「ふふ、ありがと。でもね、私剣道初心者だけど、圭介たちのこと、応援席より近くで応援できるの嬉しいんだ」
はにかんで告げる撫子にぐっと愛おしさが湧いてきた。
「分からないこともたくさんあるけど、今日からよろしくね、圭介!」
「……おう!」
そうだ。あいつが初めから部員目当てなら、そのうちボロが出るだろう。
そしたら遠慮なく追い出せばいい――。
そう思っていたのだ。ほんの、さっきまでは。
「……着終わったか?」
「うん」
振り返った俺は、思わず口を引き結んだ。
藍色の道着を身につけたそいつが、顎を引いて自分の姿を見つめながら、あまりにも嬉しそうにしていたからだ。
「どうかな」
志摩は素直に、綺麗だと思った。
はっとして口を引き結んだので失言をする羽目にはならなかったが。
猫みたいにやわらかそうな黒髪は、面が被りやすいよう後ろで一つにくくられている。凛と伸びた背筋は、袴の性質とあいまって余計にその立ち姿を美しく引き立たせた。
だが、道着の襟元から伸びる白い首や、袖からのぞく腕は、おどろくほど細い。
頭も小さく、その体躯で試合ができるかは甚だ疑問だ。
(やっぱり、当然だけど――男とは全然体つきが違うな)
「……
結局リオの問いかけには答えずそう続ければ、ひどく気まずそうな顔を向けられた。
「……付け方忘れたから教えてほしい」
「……じゃ、そこ。立ち膝で」
大人しく鏡の前に膝をついたリオの後ろに回り、俺は“垂”と呼ばれる腰回りを守る防具の付け方を口頭で説明した。
しかし普段口頭説明などするはずもない俺が要領よく手順など伝えられるはずもなく、最終的には「くそっ、貸せ!」 とぶっきらぼうに言って垂の紐を奪い取る羽目になった。
「…………」
腰の細さに、ためらう。
「……? どうしたの?」
「……別、に」
なるべく身体に触れないように、なんなら目にも入れないように、手早く紐を前に回して細い腰に防具を巻きつけた。
熱くなる顔が情けなくて、かわりに眉根をぐっと寄せる。
「……できたぞ。どうせ胴も着けらんねーだろうから今日は俺がやる。一回で覚えろよ」
「はいはい」
俺の態度が悪いことなんか俺でもわかるのに、リオはさして気にしていないらしい。それどころか、俺の手順をじっと目で追い、本気で一度で覚えようとしている。リオが口を開いた。
「ねえ志摩」
「………なんだよ」
「これから基本を教えてもらえるんだよね。じゃあ、私さ……」
――試合もできるの?
驚いて顔を上げると、鏡越しに、楽しみでしかたないというリオの笑顔とぶつかった。
「……お前、ふざけんなよな」
耐えられなくなった俺の言葉に、リオはふと、笑顔を取り去る。俺の怒りを肌で感じたのかもしれない。
口から溢れる言葉は止まらない。
「それ、剣道好きな演技のつもりかよ」
「……」
「俺まんまと間に受けて、お前なら真剣にうちの部を支えてくれんじゃねえかって思っちまったじゃねえか。本当は瀬川の追っかけだって、知ってたら誘ったりしねーのに」
「……」
リオは何一つ弁解しない。言いたいことを飲み込むように唇を噛んで、俺の不満を一身に受けている。
それがますます苛立った。
――クソ野郎、言えよ。違うなら、違うって。
「……じゃあ、中庭で俺のとこに来たのも計画だったんだな。俺に近づいたら、瀬川と接点が持てると思って」
「……」
「勝手に竹刀持ち出したのも、上手く振れて嬉しそうだったのも、嘘か」
「……」
「教室で俺が聞いた時、剣道が好きだって言ったのも」
「嘘じゃない!」
肩紐をくくりつけてやっていた俺は、勢いよく顔を上げたリオと近距離で視線がぶつかり、思わず硬直した。
リオのほうも驚いたように目を瞬かせている。
部室の高窓から入り込んでくる夕陽が、長い睫毛に、茜色を乗せる。
「……嘘じゃ、ないわ」
お互いしばし見つめ合って、勢いよく顔を背けたのも同時だった。
「あとは、自分でやれ」「わ、かっ、た」
(……くそ。何だよ、顔あちぃ)
眉をひそめてそいつを睨みつければ、俺以上に赤くなっている姿が目に入り、わけのわからない言いようのない感情に胸の中を支配された。
「リオちゃーん」
用具室の扉が開いたのはその時だった。
撫子がひょっこりと顔を覗かせる。
「わあっ!すごい!リオちゃん似合ってるね」
「……ありがとう」
「圭介は王凱先輩が呼んでたよ」
「……今行く」
「待って、志摩」
用具室を出ようとした俺を追いかけてきたリオが、俺に何かを手渡した。依然として目は合わない。
「うちのクラスの宮城さんって子から、瀬川って子に」
「……お前」
「渡したからね」
それだけ言ってさっさと歩いていくリオの姿を、俺はじっと見つめた。
後ろにいた撫子が、どんな顔で俺を見ていたかも知らずに。
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