暗雲
事件が起きたのはその日の三限目が終わった時のことだった。
「最低!!!!」
――ぱしんっ
「……え?」
頬を叩かれたリオが呆然と見つめるのは、目を真っ赤にしたクラスメイト、宮城だった。彼女が胸に抱き締めているのはグリーンの包装紙のプレゼント。
しかしラッピングはむしり取られたように破け、中に入っていた腕時計は皮のベルトがハサミで切り刻まれている。
「それ、どうして」
「しらばっくれないでよ!!」
ぽろぽろ涙を流しながら宮城は声を荒らげた。音楽の授業を終えて教室に集まり始めていたクラスメイトたちが何事かとこちらを伺っている。
「私が瀬川くんにプレゼント渡すの、そんなに気に食わなかった!?」
「ちょ、ちょっと待って……なんの話?」
「あんたがやったんでしょ!?これっ」
宮城はしきりに目をこすりながら
「音楽の授業、あんただけ遅れてきたじゃない、その時にはさみで切ってるのを見たって……そう言ってる人がいるんだから!!」
「――ああ、そう」
叩かれた頰ではない。ひりひりと、こめかみの辺りがひりつく。
始まったのだ。そう、リオは急激に理解した。血が冷たくなっていくような感覚は、一瞬で彼女を冷静にさせた。
「誰が言ったの?」
聞かなくても答えはだいたい分かる。
「あなたは、私がそれを切り刻んでるのを見たって、誰かに言われたのよね。だからそんなに怒ってるんでしょう?」
「……」
宮城が頷いた。
「それは一体」
「僕だよ」
振り返る。声を発したのは東だった。
「廻神会長から頼まれごとをしていて授業に行くのが少し遅れたんだ。それで、教室の前を通りかかった時に、君が不審な動きをしているのを見た」
「ふうん」
リオはまっすぐ東に近付く。
「じゃあなた、私が彼女のプレゼントを破って、切り刻んでるのを見たの?」
東が中指で眼鏡を押し上げた。
「……見てないが、あの時間に一人で教室にいるなんて怪しいだろ」
リオはため息をつき、自分の鞄からある教科書を取り出して戻った。
「私が授業に遅れたのはね、机に入れておいたはずの音楽の教科書がなぜかゴミ箱に入ってて、それを探し出すのに時間がかかっちゃったからよ」
撫子の嫌がらせだろうと軽く見ていたが、どうやらここからすでに仕組まれていたようだ。
ぼろぼろの教科書を東の前に突き出すと、東は困惑するように瞬きをしたが、すぐに「自作自演の可能性もある」などとのたまいはじめた。さすがのリオもカチンとくる。
「あっそ。でも、そんなこと言うなら一番怪しいのあなたじゃない?」
「なんだと」
「だって決定的な瞬間を目撃したわけでもないのに、私がやったってこんなにはっきり断言するんだもん。それも――ハサミでだっけ?カッターとかの可能性もあるのに、どうして分かるの?」
「それは……」
東の顔色が変わる。
彼の視線がほんの一瞬ある人物に向いたのに、気付いたのはおそらくリオ一人だろう。
「まさか、あなたも誰かに入れ知恵されたとか」
「もうやめてよ!!」
リオの声を遮ったのは、言うまでもなく撫子だった。
彼女は目に涙をいっぱい溜めてこちらを睨んでいる。
「クラスメイト同士で疑い合うなんて、もういや!」
「撫子」「撫子ちゃん……」と彼女の言葉に心打たれるクラスメイトたち。あほなのかな?どうしてあんなに見え見えの演技にひっかかるのか不思議でならない。
少しでも視野を広げたら、授業に遅刻してきたリオや東なんかではなく、途中に一度トイレに抜けた撫子が一番怪しいことなんか誰だって分かるのに。
「宮城さん」
撫子は宮城の傍により、その手をすくい上げた。
「贈り物は残念だったけど……リオちゃんも違うって言ってるし……。ね?」
これではまるで、やったのはリオだが、ここはひとまず穏便にとでも言っているかのようだ。
撫子は名案を思いついたような顔で続けた。
「あっ、そうだ!私圭介と仲良いから、今度瀬川くん紹介してもらえないか聞いてみるよ!」
「えっ」
宮城の表情がたちまちぱっと明るくなる。
それを見た撫子はにっこり微笑んだ。
「だからもう泣かないで?宮城さんが泣いてたら、私も悲しくなっちゃうから」
「……うん、ありがとう。撫子さん」
宮城は、撫子に向けるのとは真逆の顔つきでリオを睨みつけると、包装ごと腕時計を投げつけてきた。
「……剣道部も生徒会も撫子さんが頼まれればよかったのに。あんたみたいな底辺の女、誰からも必要とされてないから」
**
「頬、大丈夫か?」
ぼうっとしていたリオは、前からかけられた声にはっとして顔を上げた。既に授業は始まっている。
科目は古典。
前後の席で机をつけて、古文の現代語訳と口語訳に直す授業だそうだ。
リオに尋ねたのは五十嵐だった。
「……」
「
答えないリオに五十嵐は問いかけを繰り返す。
リオはどこかぼんやりとしたまま、目の前にある壊れた時計を見つめた。
「……どうしようね」
今、頭を占めるのは、クラスメイトたちの疑惑めいた眼差し。
自分に向けられる明らかな軽蔑。
それらは直接的でないものの、しかし確かに、じっとりとリオの周囲に絡みついて離れない。
「捨てればいいじゃん」
驚いて顔を上げると、
くいっと顎でノートを示される。課題をしてるフリをしろということだろう。リオは大人しくシャーペンを握った。
「だって、持っててもしょーがなくね?恋と怨念のカタマリだぜ、それ」
「……疑ってないの?私のこと」
「俺?いやまー、女子コエーなとは思ってるけど、別に疑ってはない……。つーか瀬川って志摩の後輩だろ?あんな無愛想のどこがいいんだろーな」
「………疑ってないって、どうして?」
朱音のことは信じなかったくせに、と喉元まで出かけた言葉を、リオは咄嗟に飲み込んだ。
五十嵐の返事には間が少しの間があったように思う。
「うち、親が二人ともモデルでさ、二人ともバカみてーにモテたけど、不倫も連れ込みも平気でやってた。だから愛とか恋とか、俺はそういうの信じてないんだけどさ」
思わずまじまじと見つめた五十嵐の顔からは、どんな想いも読み取れない。しかし、彼が伏せた目には、どこか羨望にも近い感情が浮かんでいた気がした。
「だから、朝。あんたの話聞いて、正直いいなって思った」
「……」
「あんなふうに好きなやつのこと語る子が、他の子の恋路の邪魔とかだぶんしねーだろ」
胸の中に、光を取り戻したような気がした。
古典の教師が耳障りのいい声で伊勢物語を朗読している。空いた窓の向こうから教室の中へ、春先の風が横切った。
同じ風が、戦場にいる彼のコートも揺らしているといい。
「ありがと、五十嵐」
気付けば、リオの肩からは力が抜けていた。
敵意を向けられるのには慣れていた。でも悪意を向けられたのは久しぶりで――リオとしたことが、少し
それに気付かされたのが彼の一言だというのが少し癪だが、今は素直に、感謝しておこう。
(情けない)
そうなるように仕向けたのは自分なのだから。
きっとこの出来事を皮切りに、今日から撫子との戦いは本格化するのだろう。
だから、舐めてかからないことだ。
相手は仮にも、同業者なのだから。
リオは机の下で拳をにぎる。
(――受けて立とうじゃん。藤野撫子)
***
<――やはり、リオ様の言う通りでしたよ>
例のごとく薄暗い科学準備室で、携帯のスピーカーから流れ出てくるジルの声は闇を切り取ったように暗い。リオは苦笑いしながらジルが見たであろう映像をこちらにも飛ばすよう指示した。
「これ終わったら観る。っていっても、観なくてもだいたいの絵面は想像できるけどね……っと、あ、よかったいけそうこれ」
リオは邪魔な前髪をかきあげ、スタンドライトの下にセットした腕時計をじっくり眺めた。
<そんなゴミは捨て置けばよろしい>
ジルの語調からは、明らかにリオが頬を打たれたことへの苛立ちが滲み出ていた。
「そういうわけにはいかないよ。彼女、とばっちりだもん。かわいそうに」
<素人に傷を負わされたリオ様のほうが可哀想です>
「それって哀れのほうだよね?ほっといて」
バネ棒外しをラグに差し込み、ゆっくり回す。こうするとベルトを接続していた金属のバネ部品が外れ、取り替えが可能となるのだ。申し訳ないがベルトはリオが使っていた時計のものを代用させてもらう。盤面に傷が入っていなかったのが救いだった。
「バネ棒外しなんかよく持ってるね」
「あー、ほら、昔ファロが私の時計によくGPS仕込んでたでしょ?それ外すのにしょっちゅう使ってたから癖でね」
<……リオ様>
「それで一回知らないおじさんのポッケにGPS入れたらさぁ、うふふ、ファロ、私がモスクワに行ったと思ってめちゃくちゃ焦ってたことあったよね!あれはおっかしかったなぁ」
<リオ様!!>
「え?何よ、ジル」
<………誰と話してるんです>
はっと青ざめて後ろを振り返る。
――誰もいない。
「ここだよ」
声がしたのは教室の隅にある古い棚の裏側だった。
ジルも警戒して耳を澄ませているのだろう。しんと静まり返った室内で、リオはゆっくり内ポケットに忍ばせたベレッタに触れた。
「はぁ……。そんなに警戒されても困るんだけどな」
突然、がこん、と音がして戸棚が動いた。
棚には古い花瓶や教科書が乗っていたが、それらは微動だにしていない。音も軽い。そこでリオはようやく、それらがレプリカであること、そして戸棚は戸棚ではなく地下へ続く階段の入り口であることに気が付いた。
現れたのは白衣姿の青年。
ひょろひょろで身長は高く、特徴的な真っ白い髪をしている。いつから寝てないのか目の下にはくっきり隈が浮かんでいた。
「――誰」
「3年の
<……リオ様、私の失態です>
「大丈夫だよ、ジル」
ぼそっと言ったジルに答える。
おかしいのは、この部屋にもカメラが仕掛けてあるのに、ジルが彼の存在に気が付かなかったことだ。
(……どこまで聞かれただろう)
こんな場所に潜んでいるくらいだ。
もしかしたら撫子の手のものかもしれない。
だったら、リオがすべきことは一つ。
「“Deseo”」
彼がそう発した瞬間、リオは床を蹴り、その身体に飛びかかった。
しかし伊良波が何の抵抗もせず、受け身もとらない姿に同業者ではないことを察し、慌てて床と頭の間に手のひらを差し込む。
内ポケットから取り出したベレッタは、そのまま薄い胸板に当てた。
「北半球一の殺し屋兼
伊良波は自分の状況も無視して淡々と喋り続けている。
「どの組織にも属さない代わり、金さえ払えばどこにでも雇われ、仕事を遂行する殺しのプロ集団……。へえ、殺し屋って実在したんだ」
「……実在したし、ちゃんと非情」
リオは押し付けた銃口に力を込めた。
「お願い。誰にも言わないで。ひと月で出ていくし、ここでは誰も殺さないって約束するから」
「嫌って言ったら僕を殺す?」
「……殺さない」
でも、とリオは伊良波を見つめた。
「もしあなたが原因で任務が破綻し、Deseoの名に土がついた時は――地の果てまででもあなたを追って、つけた汚れを拭いにいくから」
伊良波が観念したように両手を上げるのを、リオは冷めた気持ちで眺める。
(……ああ、やだな)
自分の中の残酷な部分が表に出る時、それは必ず、アルバや他の家族に関わる時だ。
こんなこと他のメンバーには知られたくない。
まるで偽善者みたいな自分の沸点が、リオはいつも嫌でたまらなかった。
(……殺し屋って、こんな子にもできるんだな)
(今にも泣き出しちゃいそうだ)
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