学園の皇帝と邂逅

「さっき見てたんだよ。2組の志摩とずいぶん仲良さそうにしてたじゃん」


 帝明学園の図書館は校内で最も古い建物である。

 それもそのはず。もともとは明治に建築されたこの図書館に、併設されるように高校が建てられたのだから。

 昔は女学院だった名残だろうか。入り口の前には美しいステンドグラスの嵌め込まれたドームがあり、大理石の床にきらきらとした光を落としている。

 外開きに開け放たれた重厚な扉。

 その影で、リオは五十嵐に迫られていた。


「離れて」

「やーだね」


 五十嵐はリオが騒ぎ出す気配がないらしいと分かると、少し余裕を取り戻したらしい。微かに口角を上げて小首を傾げた。

 リオははっとする。今朝のファロを思い出した。

 これは自分がモテると分かっている男の仕草だ。


「俺さ、生まれてこの方、女の子に嫌われたことないんだよね」

「へえ」

「だから傷ついちゃってさ」


 すいっと顔を近付けられる。

 確かにきれいな顔だ。

 しかし、正直なところリオは綺麗な顔に見慣れている。性格が破綻はたんしているメンバーがいたとしても、Deseoには美の無駄遣いみたいなメンツが揃っているのだ。性格が破綻していたとしても。


「何で俺のこと避けてんのか知らないけどさ、仲良くしようぜ」

「……」

「そうじゃなきゃ俺、リオちゃんのこと気になって、何も手につかねーよ」


 もしかして、それも作戦?

 薄く笑って尋ねる五十嵐。


 一瞬、リオの頭に悪い考えがよぎった。

 とびきり仲良くなって、彼の中で換えの効かないような存在になるというのはどうだろう。そうして――裏切ってやるのだ。朱音がされたように。手ひどく、死んだ方がマシだと思わせてしまうくらいに。


「……あのね」


 そう思ったけど、やめた。


「私、あなたのことが嫌いよ」


 真顔でぴしゃりと言うと、面白いほど愕然とする五十嵐。まさか本当に、正面切ってそんなこと言われるとは夢にも思わなかったのだろう。

 加えて、リオは一切の手心を与えなかった。


「そのおちゃらけた感じの話し方も嫌だし、馴れ馴れしいのも嫌だし、顔がいいことを逆手にとっているふうなのも嫌だし、素敵な制服を着崩してるのも嫌」


 ぐさぐさっと目に見えない矢が彼に突き刺さっているのが見える。

 そうだ。リオはこの男が大いに嫌いだ。

 けれども深く関わる気もないのだ。

 憎めば憎むほど「どうしてこんな男のことを」と、リオは心の中の朱音を問いただしてしまうから。

 何も知らない朱音の過去を、朱音の口から聞く前に、否定したくなってしまう。


 そんなの友達のすることではない。

 朱音はリオの、唯一の友人なのだから。



「金輪際私に近付かないで。ほんとに嫌いだから」


 これくらい言っておけばいいだろう。

 がっくりと項垂れて動かなくなった五十嵐を一瞥し、リオは図書館の中へ足を踏み入れた。




**


 図書館の中はリオの想像よりもはるかに素晴らしかった。

 木と本の香り。

 列をなしてどこまでも並ぶ本棚には、書籍以外にも写真や楽譜など数々の貴重な資料が揃っているようだ。

 リオは無類の本好きである。

 自分の部屋には収まりきらず、アルバの部屋を間借りさせてもらっている程度には本を愛している。


「ふふ、それでね廻神先輩」


 だから、本に微塵も興味がないくせに図書館にきているようなやつは、すぐ分かるのだ。



「五十嵐くんたら、授業中に東くんと喧嘩始めちゃったんですよ?」

「あいつら……」

「あ、違う違う!喧嘩って言ってもじゃれあいみたいで、そのおかげでクラスが和んで、そのあとの授業はすっごく雰囲気が良かったんです。だから、二人には感謝しなきゃ」

「ならいいんだがな」


 窓際に等間隔に並んだワークスペースの一つに、撫子と、男子生徒――おそらく、廻神彗の姿があった。


 遠目に見ても育ちがいいことが分かる。

 姿勢が良く、所作の一つ一つに品があるから。



 彼の顔をじっと見たリオは驚いた。

 昔祖父の部屋で見た、学生服の真面目そうな男性と瓜二つ。

 たしか隣で肩を組んでいたのは、リオの父だった。


(やっぱり、理事長は小日向組――というか、父と、深い繋がりがあったのね)


 帝明学園の理事長。

 廻神彗の父は、思慮深く、食えない人間だと聞く。

 今回の一件についても、彼自ら動くわけではなく祖父に依頼してきていることから、そもそもこの件を外部どころか内部にも知らせる気がないことがわかる。

 火種は育つ前に潰しておけということだ。


(それにしても、仮にも極道の人間にそれを頼むのはリスキーじゃないのかしら)



「邪魔してごめんなさい、廻神先輩。私もう行きますね」


 物思いにふけっていたリオは撫子の声にふと顔を上げた。元々彼の元に長居をするつもりはなかったらしい。この辺りの匙加減さじかげんもさすがといえばさすがだ。

 最後に、廻神のそばに置いてあった本の表紙に触れ、撫子は微笑んだ。


「この本。懐かしいな」


 廻神の目が微かに見開かれる。


「驚いた……。勤勉なんだな、藤野」

「前に気になって少しだけ」

 瞼を閉じた撫子がゆっくり台詞をなぞる。


「春がきたが、沈黙の春だった――。すごく詩的でロマンチックな物語ですよね。私、それから出版された他の作品も読み漁っちゃいましたもん」


 ぴくり。としたのは廻神。

 いらり。としたのはリオ。

 したり顔で笑っているのは撫子ひとりだ。


「それじゃ廻神先輩、また」


 小さく会釈をして去っていく去っていく撫子が完全に姿を消してから、リオは本棚の影から一歩踏み出した。その一歩には、隠しきれない怒りが滲んでいる。


「ちがうよね」


 ぎょっとしたように、いくつかの顔がリオを見る。廻神もそのうちの一人だったがリオは気にしなかった。


「春がきたが、沈黙の春だった……。これ、詩的な表現じゃないわよね」

「……」

 リオの意図が分かったのか、廻神が目を逸らす。彼も気付いたのだろう。

 撫子が本当はその本を読んでいないであろうことも。

 ただ薄い知識を披露しただけだということも。


「ないわよね」

 念押すと、

「……そうだな」

 と返ってきた。


 沈黙の春は、タイトルに反して、詩的で美しい表現が散見するロマンチックな物語ではない。農薬によって狂ってしまった生態系に静かに憤る、生物学者としてのレイチェルカーソンの、世界に向けての糾弾なのだ。

 そして、彼女の次の作品など、この世のどこにも存在しない。

 レイチェルの最後の著書が「沈黙の春」なのだから。


「君は、先日うちに転入してきた生徒だな」

「リオ=サン・ミゲル」

「そうか」


 腰を上げた廻神はリオの前に立った。


 隙のない立ち姿。

 彼のためにあつらえられたのでは、と思われるほど美しいシルエットのブレザーには、学園のエンブレムが入った腕章がついている。


 たとえば、人を恐怖でひざまずかせる力が存在するとしたら、彼が放つのはその真逆――内から発される、凄まじいまでのカリスマ性。

 一声で相手を頷かせてしまえそうな、指導者としての素質が溢れ出ている。


「他人のアラを探すのが好きか」


 暗いブラウンの髪と、同色の瞳が、軽蔑を込めてリオを見つめた。


「誰にでも間違いの一つや二つある。彼女は優秀で努力家だ。そういう人間を馬鹿にすることは、生徒会長である俺が許さない」


 彼の言葉は、その場しのぎで口にするにはずいぶん芯の通ったものに聞こえた。自分が生徒たちの代表であり、彼らを先導する役割を担っていると、常日頃から自覚している者の声だ。


「ずいぶんと立派な心構えね」


 リオの中にはふつふつと、歯止めの効かない何かが込み上げていた。

 どこか笑みを含んだような言い方に、廻神の眉間に深い皺が刻まれた。




**



「スペインから一人、生徒の編入を受け入れることになった。お前の下の学年になるが気にかけてやってくれ」


 彼女について父から聞いたのはつい最近のことだ。日本語も堪能。帝明学園の編入試験も難なく突破した優秀な生徒だとは聞いていたが、正直、その程度の優秀さならばうちの学園では珍しくもない。

 だが父の頼みということなら、一度落ち着いた頃に声でもかけにいくか――と、正直その程度の認識だった。



(不愉快な奴だ)


 一目見た瞬間から、廻神がリオに対して抱いたのは警戒心だ。


 所作は静かだが、どこか荒っぽく、眼差しは燃えるような敵意に満ちている。

 例えば、学園の女子生徒たちが温室で育てられた百合の花だとすれば、彼女は荒野に咲き乱れる名もなき野薔薇だ。

 家柄が現れるような声のたおやかさも、微笑みの慎ましさもない。


(藤野撫子を敵視してるのか)


 もしそうであれば、自分が擁護ようごすべきは当然、撫子だ。


 幼い頃から一流の教育を受け、父と母、その他大勢の期待を背負い、応え続けてきた廻神は、他人の努力を蔑ろにする人間を何よりさげすんでいる。


「この心構えは、いずれ学園を継ぐ俺の決意だ。お前に馬鹿にされるいわれはない」


 もしリオの返答が、努力家の撫子をこき下ろすようなものであったら。自分の決意を軽んじるようなものであったら。

 当然容赦はしない。

 自分がこの学園において有しているすべての権力を使ってでも、二度とそんな態度が取れないように徹底的に牽制するつもりだった。

 ――――なのに、




「あなたみたいな人がいたなら」



 リオが伏せていた顔を上げた瞬間。

 廻神は、自分の全身の血がざあっと音を立てて引いていくのを感じた。

 黒曜石の瞳が燃えている。


「努力する人間が、正しく報われるべきだと言うなら」

「、っ」


 例えば心臓のすぐそばに、ナイフの切っ先を当てられたような感覚。

 リオは笑っていなかった。

 底冷えするような冷たい目で、ただ、廻神を見ていた。


「どうしてあの子は、一人で屋上に立ってたの」


 何の話だ――。

 そう、尋ねる声も掠れる。

 廻神は目が離せなかった。

 苛烈なほどに美しく憤る、その少女の姿から。








「……ごめんね」


 それがふっと途切れたのは、リオが視線を外した時だった。凍てついた空気がゆるやかに常温へ戻っていく。

 どっと、廻神は身体中に冷や汗をかきながら、その場に腰を下ろした。


「よく考えたら、あなたを責めるようなことじゃない……。かっとしちゃってごめんなさい」


 リオが申し訳なさそうに眉を下げて彼に近付いていく。

 差し出された手を、廻神はとうてい握る気になれない。かわりに尋ねる。


「………おまえ、何者なんだ……」


 今しがた自分が浴びたのは、殺気だ。

 そうとしか思えない。

 足が竦むほどの殺気を放てる人間が、ただの転校生であるはずがない。


「べつに、何者ってわけでもないけど……」


 リオは少し悩んだあと、廻神が読みかけの「沈黙の春」を取り上げて、彼の前にしゃがみ込んだ。


「〝本の番人〟――ってことにする」

「……は?」

「あなたがつい腰抜かすほど怒り上げちゃったのも、狂おしいほど大好きな本を、知ったかぶりのど素人が土足で踏み荒らしていくのが許せなかったから。それを擁護するあなたが敵に見えちゃったから。それだけなの」

「……俺は腰を抜かしてない。少し休んでるだけだ」

「そうなの?じゃあ起きて。人目につくから」


 リオは腕を伸ばし、廻神の両腕を掴んで引き上げた。

 ぐいっと強い力に導かれるように立ち上がった廻神は、かすかに、鼻先に華やかな薔薇の香りを感じる。

 ほっと緊張がやわらいだ。


 つい先程まで、誰も触れることのできない鋭い棘でも身に纏っているかのようだったのに、今の彼女にはまったくそれを感じない。

 それどころか、まるで古くからの友人といるような親しみやすさだ。

 彼女は言った。


「あなたは生徒の味方だろうけどね、私は本

の味方なの。だからここでの軍牌ぐんぱいは私にあがる。だってここは図書館で、言論の自由と、著者の思想を守る場所なんだから」


 いまいち彼女の言いたいことが掴めず、

「……つまり?」

 と促すと、リオはバツが悪そうにもごもご言った。



「つまり、この場所において、藤野撫子は悪人でいいでしょってこと。それについてはもう怒ってこないで。あなたと喧嘩したかったわけじゃないの」



 ポカンと口を開ける廻神の頭上で、午後の授業の予鈴が鳴る。

 リオは身をひるがえし、じゃあねと片手を上げた。


「待て!」


 リオがゆっくりとこちらを振り返る。

 廻神はそのまましばらく、言葉を吟味ぎんみした。


 本の番人云々が、建前であることなどわかる。彼女のあの噴き出すような怒りの理由がそれでないことも明らかだ。

 リオは、暗に追求するなと言っている。それはいい。それはもう分かった。


 でも、だから、教えてくれ。




「――どうしてそこまで、実直でいられるんだ」


 想定外の問いかけにリオが目を瞬かせている。

 しかしリオを初めて見た瞬間から、廻神の心中に渦巻くものの正体はそれだった。


 澄んだ水底を覗き込む時の、あの後ろめたさ。


 そこにはきっと偽りも秘匿もない。

 いつもどこかの誰かが描く肖像に我が身をなぞらえ、自分の意思よりも「あるべき正解」を優先させ続けてきた廻神とは、真逆の存在。

 だからこそ、不愉快で、

 だからこそ、眩くてたまらない。


 彼女はいつだって、心のままに笑い、心のままに怒るのだろうから。


「……自分の感情にそこまで正直に従って、怖くないのか」


 自分の声が思いがけず弱々しかったことに、廻神は口にしてすぐ気がついた。

 しかし今更どう取りつくろっても遅いだろう。

 黙ったまま視線を落とした廻神の目に、少女の上履きの先が映った。


「あなた、意外と怖がり?」

「、誰が」

 からかうような口ぶりにむっとした廻神が顔をあげると、リオの輝くような笑顔とぶつかった。


「怖いわけないでしょ?だって私は、私の中に流れるスペイン人の血を信じてる。言っとくけど、こんなに信頼に値するものはないからね!」


 驚く廻神に、リオは嬉しそうに語ってみせた。

 それはリオの誇りだ。

 今はもういない母から、リオが確かに受け継いだものの一つ。


 

「情熱を燃やせるものに出会ったら、それが人だって、物だって、命の限り愛するの。そういう人たちが生きる国よ」


 廻神がそれに、どれほど圧倒されたかリオは知らない。

 チャイムを耳にして図書室を駆け出していったリオの背中を、廻神はいつまでも、まるで雷を受けたように固まって見つめ続けていた。

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