イングリッシュガーデンでの出会い
撫子がお眼鏡に叶おうとしている帝名学園の生徒会長、廻神彗は、昼休みはいつも図書館にいるらしい。
(男嫌いを公言してしまったとはいえ、なんらかの形でコンタクトはとれないものだろうか)
そんなことを思案しながら図書室に向かっていれば、渡り廊下を渡ったところで美しい庭園が目に入り、リオはうっかり見入ってしまう。
そこには見事なイングリッシュガーデンが、植物園に向かって五十メートルほど広がっていた。
植物はどれも季節を意識して植えられ、一年草だけでなく、種を巻いた年には芽を出さないカスミソウやジギタリスまである。きっと辛抱強く、植物を愛する庭師でもいるのだろう。
見ず知らずの庭師に心からのリスペクトを送りながら再び歩みを進めていれば、道の先に木製のガゼボまで見えてきた。ここまでくると、リオは落胆の気持ちを隠しきれない。
(……朱音があんなことにならなければ、あそこで一緒にランチしたりできたんだろうな)
肩を落としながらも、常夜灯に吸い寄せられる夜光虫のようにふらふらガゼボに近付いていく。そして、辿り着くなりびくっと飛び上がった。
(お、おどろいた、人がいたのね)
そよそよと風に吹かれて気持ちよさそうに眠るのは、帝明の制服を着た男子生徒だ。
暑がりなのだろうか。ジャケットは無造作に放り出しており、シャツは春先だというのに半袖の仕様だ。つんつんと短い髪。きれいな額には汗が滲んでいる。
立てかけられた竹刀を見て、リオはようやく彼が練習後の一休み中であることを悟った。
「剣道……」
リオがまだ日本にいた頃だ。
剣道場の師範でもあった祖父に剣術を習っていた時期があった。
祖父はなんとかいう流派の免許皆伝だとしょっちゅうリオに自慢していたけれど、そんなことよりも、リオは竹刀が風を切る音が好きだったのだ。
でも、アルバが腕をなくした理由を知ってからは自然と剣道の話はしなくなった。
彼はきっと気にしないだろうが、その時の痛みを思い出させるようなことは避けたかったから。
(……ちょっとだけなら、いいよね?)
リオは立てかけてある竹刀を手に、少し広さのあるスペースへ小走りで移る。
ここなら草花も傷つけないし、竹刀を振って当たりそうな木の枝もない。もちろんジルが設置したカメラの守備範囲外だ。
二、三回だけ振らせたもらったら返すとしよう。
今一度周囲に人気がないことを確認して、リオはどきどきしながら竹刀を構えた。
ひゅっ
気持ちのいい音を立てて竹刀が風を切る。
構え直し、もう一度。
ひゅっ
リオはそれを何度か繰り返した。
(……た、たのしい……!)
足の裏に道場の床の感覚さえ蘇ってくるようだ。祖父にはしょっちゅう怒鳴られていたけど、やっぱり、リオは剣道が好きだった。冬の痺れるような寒さの中での稽古も今は懐かしい。
(今度うちに戻ったら、あの頃使っていた竹刀を探してみようかな)
知らずのうちに口角は上がり、目元は懐かしさに細められる。
あと二回、いえ、やっぱりあと四回だけ。そうリオが竹刀を振り下ろそうとした時だ。
「へたくそ」
驚いて飛び上がり、声のしたほうを見れば、竹刀の持ち主がふてぶてしい顔つきでリオを見ていた。
「あ……」
やばい!と慌てて竹刀を背に隠したが、どう考えても言い逃れは不可能である。リオは覚悟を決め、そっと持ち主のもとへ戻った。
「……あの……ごめんなさい」
それに尽きる。
持ち主はしばらく眉間に小さめのしわを刻んだままリオを見ていたが、竹刀を受け取るなり、もう一度彼女に握らせ直した。
「え?」
「構えはまあいい。姿勢も悪くない。けど足運びが最悪」
「いや、あの」
「ちゃんと握れよ」
「あ、はい」
なんで怒ってるんだこの人。
「まずは、目の前に相手がいることを想像すること」
真剣な面持ちで言われ、リオもつい頷いてしまう。
その時初めて彼のシャツの胸元に「
真剣な眼差しでリオに指導する彼には、リオの前に立つ敵の姿が見えているようだ。
「一振りで打てる距離より遠く。移動するほうから足を動かして、後ろ足をひきつけて上体のぶれをなくす。次に相手の眉間から股間までを結ぶラインを通って、腕を突き出すように振り下ろす。やってみろ」
「うん」
ヒュッ
おお。思わず感嘆の声を上げたリオに、彼も満足げに口角を上げて頷いた。
たしかに今までで一番いい音がした気がする。
忘れないうちに二、三度同じ方法で振り下ろしてみる。あれだけのアドバイスでリオは格段に打ちやすくなったことを実感していた。
「やっぱ筋は悪くねーな。あんた」
「あ、ありがと」
「……へたくそとか言って悪かった」
彼は鼻先をこすって続けた。
大きいが吊り目がちな目は、今朝路地で見かけた野良猫のようだ。
「口悪いってよく言われんだ。でも別に、怒ってるとかじゃねーから」
どんどんと尻すぼみになっていく声に思わずクスッと笑ってしまう。
自分からそう言うくらいだから、これまで苦労したことでもあったのかもしれない。
「気にしてない。教えてくれてありがとう」
素直に告げれば、瞬きした彼にじっと見つめられる。
「……お前さ、」
「圭介ー!」
遠くから綿菓子のように甘い声が聞こえてきたのはその時だ。
振り返ると、息を切らした撫子がすぐそばまで走ってきていた。
どうやらリオ同様に図書館に向かう途中で二人の姿に気がついたらしい。リオはそこでようやく、彼もまた撫子の騎士の一人なのだということに気がついた。
「もう、さがしたよー!」
「撫子?あれ、わり、なんか今日約束してたっけ?」
焦り出す志摩に、撫子は悪戯っぽく笑ってみせる。
「なんにも。ただこの間の試合、団体戦優勝おめでとうって言いにきただけ。圭介すごかったね」
「……サンキュー」
ほのかに頬を染め、照れ隠しによそを向く志摩。
一体何を見せられているのだとリオは白けそうになったが、どうにかこらえて撫子の喜びそうな言葉をかけてみた。
「撫子は彼と仲いいのね」
「え?そうかな?そんなことないと思うけど」
言いながらぴくぴく鼻の穴が膨らんでいる。にやけをこらえているようだが、どうして彼女の信者たちはこの演技に気付かないんだろうか。ちょっと不思議になってきた。
「オイ、そんなことないってなんだよ」
「いてっ、えへへ、ごめんごめん」
撫子を軽く小突いた志摩が続きを引き継ぐ。
「こいつとは1年の時同じクラスだったんだ。剣道部の試合とかもたまに観にきてくれるんだぜ」
「そうなの?撫子も剣道好き?」
「剣道っていうか、私、頑張ってるひと応援するの好きなの」
照れくさそうにいう撫子。
「それに圭介といると、なんだか素の私になっちゃうから……」
なるほど。とっておきの特別感の演出というわけか――。藤野撫子、やる。
そっと志摩を見てみればゆでダコのように真っ赤になっていた。一周回って少し哀れだ。
「いけない、私図書館いかなきゃなんだった!」
思う存分仲の良さを見せつけられたことで満足したのだろう。ひらりと身を翻した撫子が手を振りながら去っていく。
「圭介、あんまりリオちゃんに竹刀とか振らせちゃだめだよ!剣道バカになったらかわいそうだもん」
「うるせーな、わかってるよ」
「ふふ、リオちゃんもまた教室でね〜!」
「ええ」
微笑みながら手を振って見送る。
とんでもないものを見た。少し撫子のことを甘く見ていたかもしれない。
(いけない、私も図書室いかなきゃ)
撫子の一推しというのもあるが、そうでなくても、彼はこの帝明学園の理事長の息子なのだ。小日向組との縁然り、今後なにかと関わりがあるかもしれない。一度本人の顔を見ておかなければ。
リオは気を引き締め直し、竹刀を志摩に返した。
「これ、ありがとう。少しだけど楽しかった」
「え?まだ昼休みあんだしやってけよ」
「今日はちょっと用事があるから……」
あからさまに残念そうな顔をする志摩。撫子の言う通り、本当に剣道バカなのだろう。
「じゃあ、あんた……リオとかいったっけ。剣道部興味ない?」
「剣道部?え、女子あるの!?」
思わず身を乗り出して聞けば、ないけど、とつまらない返事が返ってくる。ならなぜ聞いた。
「実は今マネージャー募集してんだけど、集まってくんのミーハーばっかで困ってんだ」
「へえ……。撫子は?」
「いや無理だろ。あいつ剣道の知識ゼロだし」
そこはシビアなんだ。
さすが剣道バカ(確定)である。
「私、いい」
きっぱりと断ったリオに志摩は驚きの目を向けた。
「だって絶対自分がやったほうが楽しいもの。
でもお誘いは嬉しかった。ありがとう」
時計を見ると昼休み終了までもう十五分を切っている。今から行って間に合うだろうか。
「それじゃ、教えてくれてありがとう、ええと、ケースケ?部活も頑張ってね」
「ああ」
ほとんど背中越しに言いながら駆け出したリオを眺め、志摩はぷっと吹き出した。
「あいつ上履きじゃん。渡り廊下からそのまま出て来たのかよ。
……へんなやつ」
「志摩さん」
くっくっと笑う志摩のそばに、二人の男子生徒が近付いてくる。
一人は袴姿の背の高い生徒で、ひと睨みで相手を威圧するような厳格な面持ちをしている。
もう一人は栗色の髪に涼やかな目元の持ち主だったが、一切の表情筋を動かしてなるものかといわんばかりの無表情だ。
二人とも剣道部の生徒であった。
「昼に抜け駆けで練習しないって約束じゃないですか。俺委員会だったんですけど」
声に不機嫌を滲ませ、
「あー?お前の横のやつなんか袴だろ」
「部長はいいんです」
しれっと言う後輩を志摩は横目で睨んだ。
「この間の団体戦も順番回ってこなくて苛ついたんですから、たまには発散させてあげないと」
「俺は苛ついてない」
小学四年の時に全日本剣道選手権に最年少で選ばれ、個人優勝を勝ち取った剣道界の化け物である。
「この俺に順番が回ってくるようなら貴様らの鍛錬が足りなかったということだ。卒業まで試合には出れんと思え」
王凱は低く威圧感のある声で二人に告げたが、しかし二人も動じない。
「お前こそ。次の団体戦で見せ場なくても泣くんじゃねーぞ!」
「というか、このくらいのプレッシャーがなきゃやる気出ませんよね」
彼らもまた全国大会やインターハイでいくつもの優勝杯を勝ち取った猛者たちである。ちょっとやそっとの圧力に怯むはずもない。
「それよりよ」
志摩は話を切り替えた。
「あいつでいいよな――。部長?」
その顔は断られるなどとは微塵も思っていない自信に溢れている。
瀬川は、はぁ…と気だるげなため息をつき、王凱は無言のまま視線を前に向けた。
走り去ってしまった少女の、あの見事な一振りを脳裏に思い起こしながら。
「なあ、」
「……」
リオは眉をひそめてから、ぷいっと顔を真横に向けた。背中には図書館の扉。顔の両脇には腕がつかれているので動けそうにない。
「どいて」
「退かねぇ」
横目で睨むが、彼が躊躇う気配はない。それどころか、
「お前いい加減にしろよ」
男子生徒、五十嵐ミナトは正面からリオを睨みつけ、言ったのだ。
「お前が嫌いなの、男じゃなくて”俺”だろ」
……もうバレた。
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