episodio1
復讐劇の幕開け
真新しい制服に身を包み、街中を
なめらかなオリーブ色の肌に、豊かに流れる黒い髪。
彼女の歩みの一歩一歩には自信があふれ、心躍る彼女の心情が垣間見えている。
「ずいぶん楽しそうねぇ。今からデート?」
ついうっかり聞いてしまった老婦人は
「ええ、そんなところ!」
と少女に親愛を込めて微笑み返され、例に漏れず被弾して胸を押さえた。
<何が、そんなところ、ですか>
機嫌良く歩き出した少女、リオの耳の中に、ノイズ混じりの声が飛び込んでくる。
今にもスキップしそうな彼女の対をいくような不機嫌声だ。
<デートどころかあなた今家出中でしょう>
彼の名はジル。リオの部下の一人だ。
シャツのボタンを常に襟元まで止めるタイプの神経質さが首領アルバのお気に召したらしい。所属して早々にリオの部下に当てられた。
<アルバ様たちに内緒で勝手に仕事を引き受けるなんて、この後どうなっても知りませんからね。私は止めましたから>
「大丈夫だって!ジルったら心配性だなぁ、もう」
あの日、スペインの殺し屋達のもとへ送られた小日向リオは、それから七年の時を彼らと過ごした。
もちろん楽しかったことばかりではない。怖かったこと。命の危険だって何度もあった。
おかげさまで一人前の暗殺者として部下を持つほどにもなったわけだが、それはそれ。これはこれ。
彼女は今、若者真っ盛りなのである。
「カサレスじゃ家出だってよくしてたじゃん!1ヶ月帰らなかったこともあったし、皆もそこまで大騒ぎしないでしょ」
甘い、ジルは思った。
彼らのリオに対する過保護さは常軌を逸しているのだ。
カサレスの一件だって家出と思っていたのはリオ1人で、彼女に気付かれないよう自分や他の部下たちがその周囲に隠れて見守っていた。
「私だってお年頃なんだよ。殺しとかテロじゃなくて、ふつうにブカツしたり、友達と放課後にシブヤでお茶したりしたいんだもん!」
<友達ならノーチェ様がいるじゃないですか>
「ちょっと気抜けば殺しにかかってくる友達っている?こないだなんか冷蔵庫のかぼちゃスープ毒入りにすり替えてたんだよあいつ!その前は”私”に変装してしこたまアドルフォのこと虐めてたし!」
<先月アドルフォ様が精神科にかかってたのそれですか>
「トラウマレベルの悪口だったって。私じゃないって教えてあげたら泣いてたよ」
<おかわいそうに……>
「というか、私が日本に来る原因つくったのジルだからね!」
<くっ>
こればっかりはその通りなのだ。
彼女の祖父、
「私が行く!!!」
「絶対だめです。アルバ様がお許しになりません」
「じゃあアルバに内緒で行く!」
「私が殺されます!!リオ様!リオ様!!」
ともかく、総二郎の話はこうだった。
日本のとある高校に敵対する組の一人娘が通ってるそうなのだが、どうやらその娘が「小日向組」の名を使い学校でクスリを売り歩いてるらしい。
しかしまだ裏が取れない。
自分たちの組には若いのはほとんどいないし顔も割れているから、そちらで腕のいい若いのを何人か
その高校には留学制度があり日本人でなくても潜り込みやすいのでいいだろうと。
「そんなの直接私に頼んでくれたらいいのに。おじいちゃんも水臭いよね。実家のピンチなんだから報酬だっていらないし」
<……>
真面目腐っていう彼女に、ジルはじっとりと物言いたげな沈黙で応じた。
リオの目的はすでにわかっている。
対象の高校には、彼女が日本で唯一仲のいい幼馴染兼ペンフレンドの少女が通っているのだ。
七年間。月に一度は必ず手紙のやり取りをして、互いの誕生日にはプレゼントも送り合う相手だ。
「
くすくす嬉しげに笑うリオ。
ジルはとうとう、諦めのため息をついた。
この組織の一員として働き始めてまだ4年だが、リオが彼らの中でどういう存在なのか、既に痛いほど理解している。もしこの期間にリオの身に何かあれば自分の命も無事では済まない。
<アルバ様は、あなたの不在をきっと心配されますよ>
最後の手段とばかりにマイク越しにそう言ってやれば、リオはわかりやすく揺らいだ。
彼女は、これを言われると弱い。
「……わかってるよ」
アルバの瞳。
あの、朝焼けみたいな美しい目にじっと見つめられると、リオは胸の奥底がむずむずして、くすぐったくなってしまう。
リオが少女から年頃の娘になったように、アルバもまた青年から魅力的な大人の男性に変わっていた。
二人は気付けば互いに代え難い相手になっていたし、リオはアルバが、世界で一番大切な相手になっていた。
普段は真冬の湖のような、冷たくて恐ろしい眼差しで標的の命を奪うのに。
リオを見つめる彼の瞳には、いつもこちらが戸惑ってしまうほどの愛情が込められている。ここ最近は、特に。
「〜〜〜〜でも、それとこれとは別の話!私は今青春がしたいんだから!」
<……はあ>
「大丈夫大丈夫!ちょっと朱音とのスクールライフを楽しんで、ちょっと悪事の尻尾を掴んだらいいだけだもん!2週間くらいで帰れるって」
<そんなに上手くいくでしょうか>
「この心配性め」
リオは足を止めた。とうとう、校門前に到着したのだ。
門構えは名門私立校と言われるだけあって流石に立派だ。広々としたメインストリートには中央に噴水が据えられ、その奥には三階建ての校舎が見える。外壁は重厚感と歴史の深みを感じるレンガ造りで、西側には植物園と思しき透明なドームも見えた。
「なんて素晴らしい学校なの……!」
<リオ様、本来の目的をお忘れでは>
「お、覚えてるって!未来ある若者に薬を売りつけてる性悪女の悪事の尻尾をつかむんだよね!大丈夫大丈夫」
今朝はかなり早く出たつもりだったが、既にちらほらとジャージ姿の生徒たちの姿が見える。部活動というやつだろうか。心躍る。
(制服よし、挨拶の言葉よし、日本語よし)
一つ一つ心で数えながら、リオはふと顔を上げた。
校舎の屋上に人影がある。
リオはついうっとりとため息をついた。
「はあ。ああいうの。ああいうのがしてみたいの私。ほら、よくあるでしょ?屋上で友達と………」
<リオ様?>
気付けば、リオは走り出していた。
屋上の人影はフェンスの「こちら」側に立っている。そしてその顔が見間違いでなければ、あれは……。
「朱、音」
***
私立帝明学園。屋上。
美しい朝日が東京の街を照らしている。
都内でも有数の進学校として知られるこの学園で、少女は一人、生気のない目を虚空に向けて佇んでいた。
制服の裾から垣間見える、痛々しい痣。
(――なんで、こんなことになったんだっけ)
朱音がこの学校に入学したのは去年の春だ。
ここに進学してくる生徒の大半は資産家や政治家の娘や息子。もしくは学力や運動に特別秀でた特待生たちである。クセは強いが面白くて魅力的なクラスメイトたちのことが朱音は大好きだった。
あの日までは。
「……
放課後の教室で、息も絶え絶えな男子生徒にまたがりその口に何かを押し込んでいたのは、朱音のクラスメイトであり、周囲からの人望も厚い
撫子はその日、何も言わずに男子生徒を連れて朱音の横を通り過ぎた。
クラスメイトたちによる朱音へのイジメが始まったのは翌日からだった。
「あんなことしといてよく学校来れるよねえ。面の皮あっついわぁ」
「撫子さんかわいそ〜」
「ちがう、私、何もしてない」
「あれ!?今誰かしゃべった!?なんか誰もいないとこから声聞こえたんだけど!」
「こわぁ〜い」
これまで親しくしていた友人たちから浴びせられる冷笑。絶え間なくかけられる嘲りの言葉。どうやら朱音が撫子に何かしらの危害を加えたという噂が広がっているらしい。どれだけ言葉を尽くして否定しようとも、それがクラスメイトたちに届くことはなかった。
撫子は、とっくにこのクラスのすべてを掌握していたのだ。
「大体、たかが製菓会社の分際でよくうち入ろうと思ったよね。ほぼ貧乏人じゃん」
「こんなのと仲良くしてた自分が恥ずかしいわ」
「同じ空気吸ってんのもいやなんだけど」
向けられる悪口は次第に慣れた。
心が何も感じなくなったから。
でも、一番辛かったのは。一番、堪え難かったのは。
「あれ。お前まだ死んでなかったんだ」
「……みなと」
「お前に名前、呼ばれる筋合いねえから」
ぽきん、
と心の折れる音がした。
「撫子がかわいそう」
「撫子が美人で家柄もいいからって、お前ごときが嫉妬してんじゃねえよ」
「ミナトもこんなのに告られるとかマジかわいそうだよな」
「撫子ちゃん怖がるからさっさと消えろよ」
「もう学校くんな」
「消えろ」
「死ね」
「死ね」
「死ね」
――わかったよ。
一歩、前に踏み出した。春先の冷たい風が、体を包む。
「あかね」
久しぶりに名前を呼ばれた。
振り返ると、屋上の扉を開けた姿勢のまま、驚いた顔でこちらを見る少女がいる。
ウェーブのかかった真っ黒な猫っ毛は、最後に見た時よりずいぶん伸びた。日本人離れしてすらりと長い手足に、顔立ちは彼女の母親に似てすごく美人だ。目だけは、おじいちゃん譲りの黒曜石みたいな綺麗な目。一目で分かった。私の大好きな幼馴染。リオ。リオだ。リオ。
ぼろぼろと、もう思い出せないほど久しぶりに、熱い涙が頰を伝っていく。
「………リオ………」
朱音が踏み出した先に地面はない。
最後に見たのは、幼馴染の絶望に染まった顔。
ごめんね。ごめんねリオ。
わたし、あなたに一つ、嘘をついてた。
「私ね……リオ……」
「――ジル。今すぐ用意して欲しいものがある。うん、うん、そう。それと……やっぱりアルバたちには言わないで。私ね、ジル。
悪事を暴くだけじゃ、もう足りなくなったみたい」
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