第3話
中学校に上がっても彼女との関係は続いた。
僕も彼女も地域内の中学校に上がり、クラスの顔ぶれもそれほど変化することはない。
しかし、とくに僕は彼女とクラスが同じになっても教室で話したりすることもなかった。
ただ放課後になるとピアノのある教室に集まって彼女の演奏を聴く。それだけで幸せだったのだ。
彼女と僕は放課後になると空き教室である、第2音楽室を利用していた。
中学二年生で一旦、クラスは別れ、中学三年生になったとき、また彼女と同じクラスになった。彼女の影響で僕にも少しは音楽の知識が付き始めたころだ。
彼女は好きな曲を僕に聞かせたがったし、僕も好きな小説を彼女に勧めていた。そうして日々は緩やかに続いて行く。
放課後は一通り彼女のピアノの練習が終わると、おもむろに僕が手で指揮をして、彼女がアドリブでその拍子に合わせて何か曲を弾く遊びをしていた。
曲もクラシックからJAZZ、最近流行りのJPOP に昭和歌謡など。彼女のその時々の気分で変わっていった。
特段、むつかしいことをしている訳ではない。
本当に単なる遊びであり、どちらかがミスをしても笑って、やり直し。お互いの気分で遊びは変化していく。
僕も彼女も遊びに飽きると、吹奏楽部の音に耳を傾けたり、彼女がそれにピアノを合わしたりと放課後は暇なようで、充実した日々を送っていた。
今日も何気なく遊んでいると、彼女がまた突拍子もないことを言い出した。
「ねぇ一義。来月の合唱コンクールの指揮者を貴方がやりなさい」
「は?なんでまた?」
僕の間抜けな声が第二音楽室に響く。隣では吹奏楽部の演奏が行われており、ちょうどサックスの女の子が高い音に苦戦していた。
彼女はその音を聞きながら、眉をピクリと動かしつつ、僕を見て笑う。
「なんか面白そうだし。それに、私のピアノに合わせられる生徒は貴方くらいでしょう?」
「いつも突拍子もないこといってくるなぁ。もう指揮者は決まってるだろう?それに、小学生の頃も勝手に音楽室をつかって先生に怒られただろう。もうちょっと計画性をもって行動したらどうだ?」
「うるさいよ。まあ、物は試しで、指揮者の子に交代を頼んだら、快く変わってくれるそうよ。感謝してよね」
「はじめからやる気ない子をその気にさせて、落として……お前、悪魔だな」
そう。我がクラスの合唱コンクールでの指揮者はもう決まっている。課題曲、自由曲ともに同じ男子生徒がやることになっていた。
その子は陸上部の短距離走で成績を残しているイケメンであり、クラスでも目立つ生徒であった。
そして、彼女に気があるのは目に見えて分かり、クラスの彼への期待と、三山咲と二人で個別練習できる権利につられ彼は指揮者を快諾したようであった。
「まあ、あの子が指揮者になる流れを作ったのは私だけど。ああいう子は別にそういうクラスとかの流れで生きてるでしょう?あの子自身は指揮者をやりたかった訳ではなく、ただその場のノリで受けただけらしいし。その点、一義は融通効きそうだからいいじゃない?」
「別に僕も指揮者をやりたい訳じゃあないんだけど……まあ、いいさ。やるさ」
「そういうと思って、はい、CD。この中に課題曲と自由曲入ってるから。あと来週から全体練習だから頭に入れてきて」
彼女は気軽に言うと、僕にCDを渡し、僕が勧めた小説を読み始めた。自分勝手な人である。
別に断ってもよかった。
しかし、また楽しいことが起こるかもしれない。そういう期待に胸躍らせる自分がいたのだ。
初めて彼女の音楽に自分が参加するのだ。気分が高揚するのもしょうがない。
その男子には悪いが、僕は指揮者をやるからには本気でやろうと意気込み、その日から毎日、合唱コンクールの曲を聞きこんでいった。
僕が彼女の話を受けてから一週間が経ち、今週から彼女の言う通り合宿練習が始まった。
合唱コンクールの練習は主に教室で行われる。学習机と椅子を教室の後方に寄せて、教室内の為、皆が縦八列、横に四人ずつ並ぶ構成だ。担任の教師は用事とかなんとかで教室にはいない。
彼は合唱コンクールの曲決めの時から、生徒に全て丸投げしており、「まぁ、がんばってください」と適当な言葉を残して、その後、生徒に一切口出しせぬ不干渉を貫いている。
合唱練習の初日に来ない教師というのも珍しいものだと感心していると、クラスメートの準備が出来たようだ。
はじめはCDの曲に合わせて合唱の練習をする。
課題曲から始まる。
僕はその音源に合わせて指揮をする。音源ならば、指揮をする意味はあるのかと疑問に思いながらやみくもに手を振る。
ピアノ担当の彼女はその光景を教室の隅の方で見ていた。
立ち上がりはばっちり合い、そのまま曲の進行に四拍子に手を振る作業。少し歌の方が音源より速いかと思っていたが黙って指揮を進める。
ここまでは順調に思えた。
しかし、一番のサビの盛り上がりの前で指揮と歌がズレる。
ここのパートは一時的にピアノの音も薄く、ズレを感じ人は少ない。
生徒達の中には僕の指揮がズレていると見える人もいるかもしれない。
僕はリズム感が絶望的にないということはない。合唱パートの生徒たちはどうやら僕の指揮には合わす気がないのかもしれない。意図したことか、過失かわからないが由々しき事態である。
僕は仕方なく、曲を止め、他の生徒に謝罪すると、また初めから曲を再開させる。
多少僕に対して悪態をつく生徒がちらほら見られた。特に僕と指揮を変わった生徒は俺の方が上手いなとか、今からでもやってやろうかと周りに自慢気に話していた。
それに関して何も思わない訳ではないが、ここで僕が声を上げようと意味はないだろう。
次の演奏からは、音源に合わせて着実に指揮し、盛り上がり前では他の合唱パートの生徒に合わせた。今度はズレることもなく曲は終わる。
しかしCD音源とは多少のズレを感じ、苛立ちを覚えた。
そこでクラス委員の一言で一旦休憩をはさむこととなった。
僕が一息ついていると、目の端にこちらに向かってくる彼女が見える。珍しく彼女は教室で僕に話しかけてきた。
「なんで、音源じゃなくて歌に合わせたの?」
彼女は何故か不機嫌だ。いつものような少し人を小馬鹿にしたニュアンスではなく、かしこまった話し方である。
「いや、その方が円滑に事が進むだろう?」
「そう。でも、音源には貴方の方が合っていたわ。注意もできたでしょう?」
何に苛立っているのか、彼女は一定のリズムで足踏みしながらこちらを睨みつける。
「別に全体のリズムがちぐはぐだったわけじゃないだろう?なら、指揮の方が合わせた方がみんなも納得するし、変に事を荒立てることもない」
「そう」と一言、息を吐くように言うと彼女はそれからただ黙って合唱を見ていた。
来週には合唱コンクールだというのに今日まで同じような練習が進む中で、明日は体育館での練習となった。
正直に言うと、得に目立った進歩はなかった。ただ声が大きくなっただけだ。
音程が合うようになったとか、綺麗にハモれるようになったということはない。
合唱コンクールは学年ごとに金賞、銀賞と賞が贈られ、その賞を目指して皆が切磋琢磨するわけである。
しかし、この時、このクラスでは賞はとれないだろうと僕は考えていた。
クラスの人間は明日の音楽室利用の件を喜んでいたが、僕はあれから不機嫌な彼女を気にしており、それどころではなかった。
合唱練習のせいで放課後の彼女との時間もあまりとれていなかったことも原因かもしれないが。
体育館では、初めて彼女のピアノが入り、合唱練習をする。
また、今日も担任教師は来ない。あまりクラスの行事に関心のない教師なのだろう。
体育館の広さと、室内の独特の匂いに一瞬、目眩に襲われながら、僕は周りを見渡す。
彼女はピアノの音を鳴らし、音の響きや体育館のピアノの音をチェックしている。
どうやら彼女の準備が整ったらしいので、すぐさま曲を始める。
早く始めないと、クラスの人間が暇を持て余し、私語を始めるのは自明の理であるからだ。
僕の指揮から一小節おき、ピアノが入る。彼女が僕に目を合わせるとピアノの音が鳴り出す。
はじめは揃っていた。しかし、すぐにズレた。僕のミスではない。こんな曲が始まって早々にズらす方が逆にむつかしいだろう。
理由はすぐに分かった。
彼女である。彼女はわざと音源より速く弾いている。
彼女の口角は少し上がっており、こちらに一瞥くれるとその速度を維持する。僕は彼女の速度に合わせ、合唱部隊は彼女についていく。
しかし、何故かしっくりくる。パズルのピースが合うように、また盛り上がり前では合唱も指揮も掛け違えたボタンを直すように合った。
合唱が終わると皆が今のはよかったと手放しで褒めあった。やっぱり音源より生演奏の方が良いとか、歌いやすいと言い合う。
違う。
彼女が他の生徒の合唱に合わせたのだ。それも違うか。彼女はピアノの演奏で彼らの合唱を操ったのだ。
彼女は僕の方に寄ってくると、笑いかけ「合わせるのなんてらしくないでしょ」と勝ち誇ったように言う。
「ああ、馬鹿なことをしていたよ」
僕の返答を聞き、彼女はニンマリと小さい子供のように笑った。
僕は彼女の演奏に圧倒されていた。そこらの生徒となんら変わらない。
この時の出来事で彼女のいままでの生き方が見えた気がした。
彼女はいままでも納得できないものはその努力で培った技術で黙らせてきたのかと。
しかし、だれも異論を唱えない。なぜならそれが良いものだから。彼女は下手な小細工や、他人に合わせ屈したりしない。より良い形で答えをだすのだ。
「もっと指揮も自分らしくやれば?できるでしょ?」
その挑戦的な目は初めて会ったときに見たもので、懐かしい気持ちが僕の中に広がった。
その他の生徒と同じようにただみんなに合わせる指揮をすることは容易であり、楽である。
しかし、それは彼女が許さない。私は私のやり方でこの合唱を変えた。
あなたはどうするの?と彼女は僕にも求めている。他の生徒とは違う答えを。
僕の答えを。
こんな情けない姿ばかり晒しているのも我慢できない。
何かないか。彼女をあっと驚かせることは。他の指揮とは違う、僕の答えを。
僕は足りない頭で考える。
これは彼女からの挑戦であり、僕と彼女が一緒にいる理由なのかもしれない。
しかし、僕には音楽的な面で他の生徒を引っ張ったりすることは出来ない。
僕にしか出来ない、彼女を驚かす方法を考える。
その時、ある愚策を思いついた。
本当に馬鹿な愚策である。
もはや策ともいえない類のものだ。
これは、後で合唱の生徒には叱られるかもしれない。でも、僕はやるだろう。これは、僕と彼女の初めての合奏なのだから。
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