第4話
合唱コンクール当日。
合唱コンクールは体育館にて、全学年で行われる。僕ら三年生は全学年の最後のプログラムに当たる。
下の学年の演奏が終わると同じ部活の先輩が褒めたたえ、後輩は顔を赤くし喜んでいる。また、逆も然り。
僕は部活に入っていないので、その気持もわからず、ぼうっと他学年の発表を眺めていた。時間の流れは早く、もう最後のプログラムに入ろうとしていた。
全学年を通して言えることだが、課題曲、自由曲でピアノの担当者は違うクラスがほとんどだ。
その点、僕らのクラスはどちらの曲も彼女が担当している。彼女はやはりクラスメートからも教師からも信頼されているのだろうと無意味な思考を巡らせているうちに順番は回ってくる。
今行われているクラスの合唱の次が僕らのクラスの番だ。
しかし、僕は何の焦りも、緊張もなかった。
周りのクラスの演奏は誰もかれも同じに聞こえるのだ。
当たり前のことだが彼女を超える演奏者はいない。
指揮者もとくに優れている人間はいない。僕は今から安心して事に当たれるわけだ。
そう、例の愚行に。
彼女を見る。
彼女は穏やかな表情で回りに気を配っており、クラスメートに声をかけている。
僕は初めて彼女に近づく。
いつもなら緊張して話しかけることは出来なかったが、慣れない環境のせいか、はたまた意思が固まったからなのか、僕は臆することなくクラスメートの群れをかき分け、彼女に近づく。
小学校の頃から今まで、公の場で彼女に話しかけることはしなかった。
しかし、僕は皆の見ている場で今日、初めて彼女に話しかけた。
「どう、緊張している?」
彼女は一瞬たじろいで答える。普段話しかけない僕の行動に多少の驚きはあるようだ。
「……全然。貴方は聞くまでもないわね。それだけ自信のある顔してたら」
どうやら、僕は自分で思っている以上に変な顔をしていたようだ。
確かに口角が上がっている。これからの自分の行動に胸躍る気持ちを抑えられないのだ。
僕は少し上擦った声で彼女に宣戦布告する。
「なあ。もしかしたら、この合唱では本来なら起こるはずのないことが起こるかもしれない。でも、それは最高の演奏になるかもしれないし、最低の演奏だと非難されることかもしれない。君なら、そういう賭けをどう思う?」
彼女ははじめ、話を理解できず不可解な顔をしていたが、すぐに僕の意図を読み取った。そして、いつもの小悪魔のような笑顔で答えた。
「乗るわ。そんなことを貴方が言うってことは、それは貴方が起こすことでしょ。もちろん概要は聞かないわ。そんな野暮なことはしない。楽しみは最後にとっておく方なの」
「君ならそういうと思っていたよ。ではヒントを。曲はいつ終わるのか?ということだ」
「なんだかいつもと逆ね。いつもなら私が貴方にいたずらしていたのに」
少し懐かしむように彼女は微笑む。
僕と彼女という珍しい組み合わせに回りの人間が気付き始めた。主に男子から痛い視線を背中で受けながら雑談は続く。
「ああ、そうね。ヒントね。演奏者が立って、礼をするまでよ」
「そうだね。それまでは演奏中だ」
?とハテナマークが頭上に見える彼女を僕は少し笑ってしまう。彼女は僕の笑顔を見て、肩眉を上げて、僕を睨む。
「なんかむかつくわね。余裕そうな顔。いいわ。その出来事でも演奏でも貴方との賭けも私が必ず勝つわ」
「そうだね。でも、勝ち負けも関係なしに、君は楽しめると思う。おっ。言っている間にもう僕らの出番だ」
僕と彼女は舞台の傍に二人で歩いて行った。
舞台袖から合奏パート、ピアノ担当者と順に出ていく。
クラスメートが舞台に並び、彼女がピアノの席に着く。
僕は一呼吸置き、指揮者の立ち台に向かう。それから、深呼吸をし、クラスの人間からピアノの彼女まで見渡す。
皆、緊張した面持ちで背をピンッと張っている。顔が引きつっている者までいる。僕と彼女だけはいつも通り、自然な表情で舞台にいた。
さあ、始めるか。これは、僕から彼女に対する初めての挑戦でもあるのだ。
僕の腕が上がり、演奏が始まる。
曲の始めも終わりも僕が決めることだ。ここからは僕がすべてを決めていくことになる。
練習通り、立ち上がりは順調に。
僕は彼女に向かって、手振りを行う。
課題曲は緩やかなテンポに、合唱パートの男女混声の綺麗なハモリを見せる名曲だ。
優雅に流れる彼女のピアノも今日は一段と魅力的で、全校生徒も教師陣もさぞ感動していることだろう。
洗練された音楽は男女問わず、老若男女、聞く者を魅了するものだ。
合唱パートの生徒には、少しの緊張で走り気味の者もいるが、全体のレベルはそこまでひどいものではない。
ただ、ピアノの音をもっと聞き、その流れに身を任せればそれは完成されたものになるはずだ。
課題曲は完璧な立ち上がりから、まぁまぁの出来栄えに終わりを迎えた。
まあ、僕を含め課題曲の出来は及第点といったところだ。
正直、他のクラスも同じ曲を歌うので、この曲自体に飽きていたのだ。
なんの問題もなく、課題曲を終え、次は自由曲に。
こちらは少し早めのミディアムテンポに、力強く深い中低音の男性パートに掛け合う女性パートの高音が魅力的な曲であり、先ほどの課題曲よりもこのクラスにあっている。練習のときよりも丁寧に女性パートはまとめられており、男性パートは体育館に響く低音で曲を支えていた。
どうやら、皆の緊張が徐々に解けてきたらしい。
無論、ピアノは完璧だ。
サビ前の盛り上がりも難無く揃い、音程、テンポと共に安定している。
最後のサビが終わり、曲は静な落ち着きを見せる。
皆、もうすぐ曲が終わると安心した表情を見せる。
面白いもので指揮者の立つ台からは歌っている者の表情も小さな動きも全て見える。
知らなかった癖も見えるのだ。間違えたときの反応も十人十色である。そんなことを考えているうちに曲は終わりに向かう。
そして、僕の右手がすべての曲の終わりを示す。
自由曲の最後を彼女のピアノが飾ると、皆は上気した顔つきでさぁ終わりの指示を出してとこちらを見上げる。
ここから、本来ならば指揮者の合図の元、合唱パートの生徒、続いてピアノ担当者は起立、礼をして最後尾に指揮者も加わり舞台袖へとはける。
しかし、僕は合図を出さない。
もう一分ほど経ったが、僕は動かずボーッと台の上に突っ立っている。
そんな僕を皆が不安そうな顔で凝視し、小声で注意する者もいるなか、僕は彼女を見つめる。
彼女は他の生徒とは違い、狼狽せずピアノの席についている。まるで何かを待つように。
ああ、ばれていたか。自由曲の最後に少し逸る気持ちが出てしまったためだろうと反省のため息がでてしまう。
眼をつぶり、面をもたげる。
眼を開くと体育館の天井にはバレーボールが挟まっており、ところどころガタがきている柱も見受けられる。
まったく呼吸も乱れていない、ただ時間がものすごく遅く感じられる。
また、体育館の空気が徐々に冷えていくように感じられた。しかし、僕だけが発熱しているように体中に熱を帯びてくる。
何百と人間のいる体育館は静寂に包まれる。
皆訝しげにこの事態を見守っているのだ。
僕は深呼吸すると指揮をするために構える。
一クラスの持ち曲は全二曲。
もう終わっている。
合唱パートの生徒は幽霊でも見るような驚愕した眼でこちらを見ている。
僕はピアノに向かい四拍子のテンポで指揮を始めた。
彼女は静かに鍵盤に手を置き、曲を奏でだす。
彼女のピアノの音が静寂を破った。
その曲は昭和歌謡のアイドルの曲だったような気がする。
たしかにこの拍子なら、その曲でスタートを切るかと合点がいく。
彼女はアクセントを強めたり、テンポを騙したりとアレンジし、曲を構成する。僕は彼女の音、動作、その一呼吸もさえも見逃さぬように彼女の一挙一動を注視する。
彼女は僕の目を見る。
これは転調の兆しだ。
すぐに、曲は拍子を変え、ジャズにつながる。
僕はすべてのつながり、変調に即座に対応していく。彼女も僕の指揮に従う。
しかし、こうして舞台で彼女の音を聞くと改めてその非凡な魅力に気づかされる。
元来のピアノの上手さもあるが、そのアレンジ力も目を見張るものがある。
僕はど素人なのでわからないが、編曲家にも向いているのではないかとさえ感じてしまう。
色づく音に包まれる僕を突き抜けるアクセントは矢のようで、僕を貫くと全校生徒に放たれる。
全校生徒、教師陣が詰め込まれたこの広い体育館で、彼女のピアノの音だけが鳴り響く。
曲が始まった時の奇行を見るような目はやがて色を変える。
全校生徒は無言でこの光景を見守る。この本来ならあり得ない光景を。
誰も批判的な言葉を吐いたり、演奏を止めようとはしない。
皆、時が止まったように黙り込み、この光景に不思議と非難する気持ちではなく、高揚し先を聴きたがっている。親しみのような感情が生まれているのは、彼女の人柄もあるのかもしれない。
ちょうど、体育館の上部に羽目ごろされた窓から光が差し込む。
僕の額に当たる光をみて彼女は少し微笑むとまた、曲調を変える。
クラシックだ。彼女はここを終着点にするつもりである。
そもそも、ピアノ演奏に指揮者はいらない。ピアノ演奏者が弾き振りすることはあれど、ピアノの演奏だけに指揮者は必要ないからだ。
僕は指揮者という立場で、彼女に指示をする。本来ならば必要もなく、指揮者の仕事とは、はき違えたものだ。
しかしこれは遊びだ。体育館、大勢の観客とピアノを使った遊びである。
僕は彼女の目を見る。これは、休符から連符を繰り返す遊びへの指示。彼女の音は止まると、僕の手も寸分たがわず止まる。また動き出す。
彼女の超絶技巧は続く。
彼女と僕の演奏は5分ほど続いた。
もうすぐ、この時間は終わりを迎える。
だんだん速さを増す彼女のピアノと僕の指揮。
彼女の澄んだ表情が苦悶に変わる。僕は激しさを増す彼女の音を更に上げろと指示を出す。
彼女の指が耐え切れない速さに行き着くと曲はどんどん失速していき、叙情的な面を見せる。
音の粒が空気に溶け込み、ここは僕と彼女しかいない世界のように感じられる。
僕は彼女に目で指示する。終わりの指示を。彼女の長い睫毛は小さく礼をするとピアノの音は徐々に絞られていく。
そして、最後の一音がこの世界に落ちた。
誰も何も言葉を発せず、息を飲み見守る。
僕は、彼女とクラスメートに起立の合図をだし、何事もなかったように皆と礼をする。
やっと出た終わりの指示に上手く対応出来ない生徒もいたが、何食わぬ顔で礼をする。
すると、体育館が割れんばかりの拍手に包まれた。
そうして皆の列に加わり、その場から退散した。
皆が呆けているいる中、僕と彼女は舞台袖でお互いの顔を見わせて何故か笑ってしまう。
それはそうだろう。
だってあの行事になんの関心もなかった担任が涙を流して拍手していたら、いくら面の厚い僕らでも笑ってしまう。
僕らは満面の笑みで合唱コンクールを終えた。
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