雨の鱗

爽月柳史

雨の鱗

 足元を照らす明かりを持つ。ナップザックには硬い音を立てる道具たち。湿った階段を下りて、僕は兄さんに会いに行く。

 座敷牢には兄さんがいる。

 初めて兄さんと会ったのは、魚の身を傷つけずに鱗を取れるようになったくらいだ(魚の鱗取りは子どもの仕事なのだ)。父さんに連れられて初めて自分の家に地下があることを知った。初めて見る地下室、地下室の半分を仕切るように嵌る木格子、その中に彼はいた。一目見て彼が兄さんだと理解した。

 「兄さん、本日より私は貴方の“弟”ではなく“父親”となります」

 父さんは木格子に歩み寄り、深々と地に頭をつけた。

 「ほら、お前も挨拶をなさい。彼は我が村の守り神であり、今日からお前の兄だ」

 初めて会う兄さんは、ちらちらと青く光る目を細めてにっこりと微笑んだ。

 兄さんは首から下がびっしりと鱗に覆われていて、僕は弟として兄さんの鱗を剥ぐというお役目を受け継いだ。

 兄さんは僕に似ていない。それどころか親族の誰にも似ていない。けれども兄さんを見ていると誰かを思い出す。

 というのも、兄さんは僕の兄さんであり、父さんの兄さんであり、おじい様の兄さんであり、もっと遡った親族の兄さんだからだ。僕の一族は代々男子しか生まれず、生まれた男子は皆次男坊だ。長男は兄さんだ。兄さん以外の兄は許されないので、三男、四男は生まれない。子供は魚を使って鱗を剥ぐ練習をして、上手にできるようになれば“弟”として兄さんと対面し、鱗剥ぎの仕事を父から引き継ぐ。年頃になったら兄さんが見初めた女を娶り、そして次の代がまた鱗剥ぎの役目を引き継げるようになると“弟”を引退し、父親として兄さんに接するようになる。父親の役目は剥いだ鱗を山の池に捧げることと、兄さんの好物であるイワナを供えることだ。

 「おはようございます兄さん。本日、雨をお恵み賜りたく参上いたしました」

 僕はあの日、父がしたように深々と頭を垂れた。

 兄さんは穏やかに目を光らせながら微笑んでいる。

 牢を開けて中へと入る。再び礼をしてから作業に取り掛かる。

 鱗が隙間なく覆ったしなやかな体をきれいに拭いながら、重なりの少なくなったところに見当をつける。清拭が終わるとペンチを取り出して、見当をつけておいた鱗にあてがう。

 ここからが難しい。

 鱗は肉にくっついているために、乱暴にすると兄さんに必要以上の痛みを与えてしまう。別に怒る様子はないようだが、僕は兄さんに痛みを与えたくない。細心の注意を払って鱗を引き抜いていく。

 ぷつり、とかすかな音を立てて外れた鱗は、手元の明かりに照らされて銀色にキラキラと輝いている。鱗の表面には年輪のような模様が刻まれていて時折そこに青い光が瞬く。しばらくそれに見惚れてからガラスの壜に入れた。鱗を落とした壜がちりんと涼やかな音を立てる。

 ぷつり、ちりん、という音だけが地下座敷牢に響く。牢の中ということを忘れるほどの穏やかな時が流れ、鱗を剥ぐごとに透けるような白い肌が表れていく。

 壜の半分ほどが鱗で埋まってから、作業の手を止めた。今日はここまでだ。あらわになった肌にすっと亀裂が入り目が開く。顔についている方の目と違い、こちらは深い海の底を思わせる深い黒色だ。

 僕は再び頭を下げる。兄さんは僕を抱き寄せて、すりすりと僕の頭に頬を擦り付ける。鱗の生えた手で撫でることで傷をつけることを気にしているのか、兄さんは“弟”の頭をこのようになでる。鱗を剥ぐなんて、痛みがないはずがない。こんな酷いことをする“弟”でも兄さんは許すかのように頭をなでてくれる。

 兄さんの全体の様子は魚のようだが、水の外でも生きているから龍の方が正しいかもしれない。実際兄さんは龍だ。龍ということになっている。

 だから兄さんの鱗には龍の力が宿っていて、雨を呼ぶ。日照りも火事も兄さんの鱗で解決できる。村にとって兄さんは守り神だ。“弟”は兄さんの鱗を剥ぎ、山の池に捧げて雨を降らす。僕の一族はそのようにして村を守っていた。

 と、大体の村民は考えているが、実情は少しだけ違う。

 兄さんは昔人間であったという。人間であった兄さんがどうしてこうなってしまったのかは不明だが、とにかく最初の“弟”は兄さんを必ず元に戻すと誓い、誓いは血の中に刻み付けられた。鱗をすべて取り去れば兄さんは人間としてそのときの“弟”の兄さんになる。兄さんを兄さんにするために僕の家は兄さんの鱗を剥ぐ。剥いだ鱗を池に捧げると雨が降るから村を干ばつから救う守り神ということになった。守り神と崇めてくれる分には不利益もないので否定もしない。

 鱗は剥いだらすぐに山の上にある池に納めなくてはならず、鱗を収めると必ず雨が降る。頻繁に剝がせないから兄さんを人間に戻すための作業は遅々として進まず、時間がかかりすぎると鱗も再生してしまうので、未だに一族の“弟”の悲願は果たされないままだ。

 けれど鱗の下にある滑らかな肌、時折開く海のような瞳を見ていると、兄さんを、この美しく奇妙な兄さんを任期付きの“弟“として継承していくのも悪くないのではないかとも思う。同時にこの美しい兄さんが僕を本当の弟としてくれたらと考えると、甘やかな幸福が胸に迫る。

 兄さんが頭を優しくなでる。

 兄さんが笑う。

 僕も笑う。

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雨の鱗 爽月柳史 @ryu_shi_so

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