第3話

 七月に入ったあたりから、故郷の風景を何度も思い出し、胸騒ぎに近い不快感がざわざわと全身を駆け巡るようになった。

 緑に輝く夏の田畑。育ったいねの葉が誘うように風に揺れている。梅雨の時期になるとよく氾濫する、竜の背中のような太い川。一時間に一本しか来ない電車。

 どこの家も先祖の写真をずらりと壁に飾り、狭く濃密な人間関係故に、誰が何をしているのかすべて筒抜けの閉じた故郷。隠しごとをするのは至難に等しい。

 

『藍ちゃん』


 声が聞こえる。木村のばーさんの声だ。声に導かれるまま、私の意識は、ばーさんのいる木村食堂に飛ぶ。

 村役場の近くにある小さな食堂だ。切り盛りしているのは洸一の母である花奈。旦那は従業員の一人で、フライパンをもくもくと動かしている。

 私が目指すのは食堂二階の住居スペース。

 そこにばーさんが住んでいる。


『藍ちゃんは、かわいいねぇ』


 意識が扉をすり抜けて、仏壇のある和室の部屋にでた。赤い座布団を敷いて、木村のばーさんが幼い私に絵本の読み聞かせをしていた。

 キッチンのある隣の部屋のテーブルで、もくもくとそら豆の皮をむいているのは幼い洸一だ。洸一はみんなで遊ぶよりも、一人で没頭できる遊びが好きな、おとなしい子供だった。


『木村食堂は私の青春なの。洸一が継いでくれたらいいんだけど』


 ばーさんの言葉に、大人の私は微妙な気分になる。洸一が黙々とフライパンを動かす姿は想像できるが、ばーさんや、洸一の母のように、店を切り盛りする姿を想像することが出来ない。

 それが分かっているから、洸一を見るばーさんの表情かおは切ない。


『食堂では、お客さんに嫌な想いをさせないように、いろいろと言い回しを考えているのよ。【ゴキブリが出た】は注文番号T。だけど、どこかでバレて、言い回しを変えるんだけど、それがまたおもしろいの』


 絵本の読み聞かせが終わり、時間が余ったことでばーさんは私に昔話を始めた。

 幼い私は絵本よりも、ばーさんの昔話の方が好きだった。絵本にはない、ほの苦いものを感じさせる話が多く、話の大半はやはり木村食堂であり、嬉々と語るばーさんが私は好きだった。

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