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もしかして私は、逃げられない現実に絶望して気が触れたのかもしれない。
なにせ英伸を殺して自由になる度胸もなく、自分で自分の命を絶つ覚悟もない私――
現実逃避の延長線みたいなものであるが、この行き詰った状況を打破するには、気力も体力も知力も圧倒的に足りなかった。
あぁ、だけど我ながらひどい。
こんなことしか、思いつかなくて自分自身が情けなくて泣けてくる。
「あー、やっぱり、これは夢なのかなぁ」
露出している肌は白く、英伸がつけた痣が一つもない。
確かめるように顔に触れると、殴られて腫れていた筈の頬も元に戻っていて、両の耳がちゃんと音を拾っている。
「え~」
情けない声と一緒に涙がだらだらと溢れて決壊した。
全身にどうしようもない脱力感がかかり、私はその場で体育座りになって
さぁっと聞こえる波の音、楽し気な笑い声に、のびのびとした海鳥の鳴き声。
ここには私を傷つける者がいない――そんな直観に、信じられない気持ちと、どうすればいいのか分からない恐怖があった。
「あら?
不意に、その場から動けない私に、聞き覚えのある声が鼓膜を叩いた。
「どうしたの? 体のどこかが痛い?」
問いかける声は優しくて心地よく、先ほどまで『再生』されていた声と寸分もたがわない。
『女のためのひと夏の思い出企画。女性限定、南国リゾート貸し切りで疲れた心を癒やそうツアーっを開催! みんなで……』
ある可能性に鳥肌が立った。もしも、私に声をかけた人物が【あの人】だった場合、あの人はもう10年前に死んでいるからだ。
「あ、あなたは、もしかして、
恐る恐る顔をあげると、青い海をバックにその人はいた。
ぱっと見は、私と同年代ぐらいの外見。
パーマのかかった長い髪を緩く結わえて、黒いビキニが似合う伸びやかなグラマラスボディーに、黒ぶちメガネが似合う知的な顔立ち。
右耳の脇に赤いハイビスカスをさして、手には水滴が浮いたグラスが握られている。
「えぇ、そうよ。貴女はツアーの参加者みたいね。お近づきのしるしにどうぞ」
にっこりと笑って肯定する月嶋先生は、私にグラスを差し出してくる。
グラスになみなみと注がれているオレンジの液体は、とろりと波打ち、立ち上るかぐわしい香りから、様々なフルーツをふんだんに使っていることを理解する。
浅ましいかもしれないが、値段を想像して反射的に唾液が湧いた。
私はグラスを受け取ってジュースを嚥下すると、舌の上で様々なフルーツの味が主張を初めて輪になって踊っている。
まったりとしたバナナに、すっきりとしたオレンジ、濃厚なマンゴーに、かぐわしいラフランス、味を引き締めるレモン、みずみずしい桃に、パインの食感、他にも様々な知らない味が舌で踊っているのだが……。
「……トマトも入っていますね」
私の嫌いな青臭い独特の酸味、トマトの味が存在していた。
「そうよ。イヤだったかしら?」
「いえ、思ったよりおいしいです。ありがとうございます」
そうなのだ。トマトの青臭さと味が他のフルーツの味を引きたてて、味に深みを与えている。
あまり好きではないトマトの酸味が、良い余韻となって舌に残る感覚がなんとも奇妙だ。
もう一杯欲しくなる。
「ごちそうさまでした」
「はい。お粗末さまでした」
にこりと上品に笑う先生は、空のグラスを私の手から受けとり無邪気に口元に手を当てる。
「ゴーヤも入っているんだけど、気づいたかしら」
「え、本当ですか」
そう言われると、身近な味な分、気になってしまう。
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