逆転のフーガ 1

 ライオネルが温室を出て行った後で、エイミーは溢れそうな涙をごしごしと袖口でぬぐうと、大きく息を吸い込んだ。


(これでよかったのよね……)


 ライオネルとは、今日が最後にしようとエイミーは決めた。

 だがそれは、もちろんライオネルが嫌いになったからではない。

 本当ならずっとずっとライオネルのそばにいたい。このまま婚約者で居続けて、予定通り結婚して、彼とずっと一緒にいたい。


 でも――


(殿下はわたしが嫌いで、そして、シンシアが言う通りわたしのせいで殿下が危ない目にあったりしたら大変だもの……)


 嫌いな女と結婚させられるだけではなく、さらに危険な目に遭ったりなんかしたら、ライオネルが可哀想すぎる。

 ライオネルが好きだというエイミーの感情を押し付けて、エイミーに縛り付けるのは――自分の欲を優先して彼を縛り付けるのは、ダメだ。

 いつか振り向いてくれるかもしれないなんて、確証のない身勝手な願望は、いい加減捨てなければならない。


(……誰がわたしの頭の上にいろんなものを落としているのかは知らないけど、うん、これはいいきっかけになったわ。あれがなかったら、わたし、決心がつかなかったと思うもの)


 これでいのだ。

 これで、いい。


 涙が止まると、エイミーは自分の唇を指先で撫でる。

 ライオネルはどうしてキスをしてくれたのだろうか。

 最後の誕生日プレゼントのつもりだったのだろうか。

 いつもいつもキスしてほしいと追いかけまわしておきながら、いざキスされたら、急に深くなった口づけに怖くなって彼を突き飛ばしてしまった。


(殿下、怒っちゃったよね……)


 きっとライオネルはたくさんたくさん譲歩してキスしてくれたはずなのに、失礼な態度を取ってしまった。

 でも、あのキスは怖くて――そしてすごく悲しかったのだ。


 ああ、これで終わりなんだなって。

 きっとこれは義務なんだろうなって。

 さよならのかわりなんだと思うと、頭の中がぐちゃぐちゃになってすごくすごく悲しくなった。


 ギィっと、ブランコを漕ぐ。

 誰もいない温室でブランコを揺らしながら、エイミーは感情が落ち着くのをひたすら待った。

 温室の中で何度も笑う練習をしてから、長く息を吐いて立ち上がる。

 いつまでも温室に一人でいたら、スージーが心配して探しに来るだろう。

 そろそろダイニングもお開きになっているはずなので、エイミーももう戻って、お風呂に入って寝なくてはいけない。明日も学校があるからだ。

 温室を出て、すぐ隣にある邸に入ると、ダイニングはすでにほとんどが片付けられていた。


「ああエイミー、殿下は?」

「さっきお帰りになりましたよ」

「そうなのか。お見送りできなかったな……」


 父が残念そうにそう言った後で、エイミーの頬に残る涙の後に気がついたのか、ぐっと眉を寄せた。


「エイミー、殿下と何かあったのかい?」

「何もないですよ。……何も」

「そう、なのか? だったらいいんだが……」


 父はまだ訝しんでいる様子だったが、苦笑すると、ポンとエイミーの頭に手を置いた。


「エイミーの誕生日パーティーが我が家で開けるのも来年で最後だな。来年はもっとにぎやかにしよう。改めて、誕生日おめでとう、エイミー」

「ありがとうございます、お父様」


 父は、エイミーがこのまま王家に嫁ぐことを疑っていない。

 まさか先ほどライオネルに別れを告げたなんて言えなくて、エイミーはにこりと微笑むと、就寝の挨拶をして二階に上がる。


(お父様にもきちんとお話しないといけないんだけど……殿下から、婚約解消の書類が届いてからでいいかしらね)


 誕生日の日にライオネルと別れることになったと言ったら、きっと父はひっくり返ってしまうだろう。

 エイミーが別れを告げたのだ。ライオネルは前から別れたがっていたので、急いで婚約解消の書類を整えて持ってくるに違いない。父への報告はそのときでも遅くないだろう。……驚かせてしまうのには変わりないが、今日よりはいいはずだ。

 自室に上がると、エイミーは山になっているプレゼントの箱を見て、そういえばプレゼントがあったんだったと今更ながらに思い出した。

 ライオネルに別れを告げることで頭がいっぱいで、すっかり忘れていた。


「お嬢様、お風呂の準備ができていますよ」


 ふらふらとプレゼントの山に近づいたエイミーだったが、バスルームから出てきたスージーにハッと振り返った。

 スージーはエイミーの顔を見て、ぐっと眉を寄せる。


「お嬢様、涙の跡が……。まさか殿下に泣かされたんですか?」


 怖い顔になったスージーに、エイミーは慌てて首を横に振った。


「違うのよ、スージー。ええっとこれは、笑いすぎちゃって、それで泣いちゃったのよ」

「それならいいんですが……。お嬢様、プレゼントの確認は後にしてお風呂にしましょう。お嬢様の好きな蜂蜜ローズの香りのシャボンですよ」

「うん、そうね」


 エイミーはライオネルが贈ってくれたピンクのバラが飾られているのをちらりと一瞥した後で、スージーの言う通りバスルームへ向かった。

 甘いローズの香りに満ちたバスルームで深呼吸をすると、ちょっとだけ気分が落ち着いてくる。

 スージーに整髪料とお化粧を落としてもらうと、途端に体が軽くなった気がした。

 入浴してさっぱりすると、髪を乾かした後で、エイミーは改めてプレゼントの山の前に立った。

 夜も遅いので、これを全部あける時間はないだろうが、明日以降プレゼントを開けてお礼のお手紙を書かなくてはいけない。


「お嬢様。殿下のプレゼントはこちらに置いてありますよ」


 スージーが、花瓶に生けられたピンクのバラの近くに置いてあった箱を持ってきてくれた。


「ありがとう」


 ライオネルのプレゼントだけ確認してから眠ろうと、エイミーは箱を持ってソファに腰を下ろす。

 リボンは、エイミーの瞳の色と同じ青い色をしていた。

 丁寧にリボンをほどいて箱を開けると、中から出てきたのは、サファイアがあしらわれた薔薇の形のネックレスだった。


「……これ」

「まあ、今年もとても綺麗ですね! さすが王家の宝物庫に納められているだけあります!」

「ええ……そうね」


 エイミーは曖昧に返事をしながら、心の中で「違う」とつぶやいた。

 これは――今年のこれは、城の宝物庫に入っている宝石ではない。

 エイミーだって、王家に嫁ぐためにたくさん勉強をしてきた。宝物庫の中身についても、王妃は覚えなくてはいけないからと、妃教育の一環で一覧を覚えさせられたのだ。その中に、このような青い薔薇のネックレスはなかった。


(……どうして)


 ライオネルは、いつも宝物庫の中からプレゼントを選んでいたはずだ。

 なのに、今年に限っていつもと違うものを贈って来た。

 そしてこのネックレスを、エイミーは知っている。


 これは――いや、この元になったのはおそらく、王都でちょっとしたブームになっている、青い薔薇のネックレスだ。ただし、王都で流行している青い薔薇のネックレスはガラスで作られたもので、サファイアではない。

 それは、去年の終わりから、「幸せになれる青い薔薇」として、若い女性の間で人気になっているものだった。


 結婚式の日につけると幸せになれると誰かが言っていたのを聞いて、まだ学園に入学する前に、エイミーはライオネルにねだったのだ。結婚式の日のそのネックレスをつけたい、と。

 ライオネルはそのとき、「王族がガラスのネックレスなんて身につけられるか」と笑って却下した。確かにライオネルの言う通りだなと思ったから、エイミーもそれ以上は我儘を言わなかったけれど――


(なんで今、これをくれたりするの……)


 じわりと、引っ込んだはずの涙が再び目の表面を覆う。

 ここで泣いたらスージーを心配させてしまうからと、エイミーはネックレスと、それから花瓶に生けられている薔薇を花瓶ごと持って立ち上がった。


「明日も学校だし、わたし、そろそろ寝るわ」


 スージーの視線を避けるようにベッドへ向かい、ベッドサイドの棚の上に花瓶とネックレスを置くと、エイミーはベッドにもぐりこむ。


「おやすみなさい、お嬢様」


 どうやらスージーには気づかれなかったようだ。

 婚約者のプレゼントを喜んでいると思ったのか、微笑ましそうに目を細めてから、スージーは灯りを落として控え室に下がる。

 スージーが去ると、エイミーはごそごそと起き上がって、改めてペンダントを手に取った。

 金色のチェーンの先に咲く、綺麗な青い薔薇。


(殿下はわたしが嫌いなはずなのに……)


 どうしてこんなことをするのだろう。

 エイミーはきゅっと薔薇を握り締めて、反対の手で涙をぬぐいながら、ぽつんとつぶやいた。


「……わたし、殿下のことが全然わからないわ…………」



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