死者の烙印

 アレックスは、不服そうに首を傾げ地面を見つめるベイカーに鋭い眼差しを向けた。ベイカーの顔は無表情で、崩れ去る肉塊をじっと見詰めていた。その瞳からは哀れみも悲しみも読み取ることができず、まるで自分が何を見ているのかも分からないかのようだった。守護者の敗北に対する現実の厳しさが、ベイカーの心を追い詰めていたのだろう。

「おいっ……動けよ木偶の坊……、なに寝そべってやがるんだ……。さっさと起き上がって戦えよ……」

「ベイカー、守護者は倒れた。素直に投降しろ……これ以上のあがきはキサマの命に関わるぞ」

 メディエットが冷たく言葉を浴びせる。だが、ベイカーは誰かと喋るようにブツブツと小言を重ねていた。

「……だった、……お前は、最初っから最後まで使えないやつだったな! 結局負けてるじゃねえか! このクズやろうガアァァァァァァッ!」

「キサマァッ! 死者を愚弄するのはいい加減にいしろッ!」

「黙れよ! 機士なんかがいたせいで、俺はひとりぼっちだ! テメェらさえ俺の村に来さえしなければ、俺は……俺はなぁぁぁッ」

「あぁん?」

 戦いにより傷んだ背中を押さえながら、今までの静観から一転、アレックスは何か心に引っかかる言葉を探すかのように、声を挟んだ。

「ベイカー……貴方は失った家族を生き返らせたかったんですよね?」

「家族ぅ?」

 メディエットは眉間に皺を寄せ、信じられないといった表情を浮かべた。アレックスの言葉に対する驚きと疑惑が隠せなかった。

 彼女の納得のいかない様子に対し、アレックスはズボンのポケットから小さく折りたたまれた紙切れを取り出し手渡した。本来、大きな書巻として保存されていたグリードリバーの死亡者リストだったが、彼が渡したのはそれを丁寧に折り畳んだ形跡のある一部分だった。

「そんな、くそぅ……。俺は……。俺はッ……。こんなはずではっ……」

 絶望に打ちひしがれ、挙動不審に頭をかきむしるベイカーの横で、メディエットは折りたたまれた紙切れを広げた。達筆に書き写された名前の羅列が目に飛び込んできたが、その中でも一部分だけ赤枠で囲まれている。

「これは、いったいなんのリストなんだ?」

「それは、グリードリバーの地域に在籍していた人のリストですよ」

 そして、枠の中にある名前をメディエットが目でなぞった時、彼女の表情はさらに驚きで張りついた。

「『ベイカー・ホープキンス』、『クローディア』、『メルティ』、死亡……」

「ベイカーはグリードリバーの出身者だ、不慮の事故で家族を失っている」

「巻き込まれたのか……戦争に」

 同情にも似た声でメディエットは呟いた。

「事故だと……ハァ、……ハァ。ふざけるなよ」

 ベイカーの悔しさと絶望の息遣いが二人の耳に届く。だが、同情の余地などないのだ。この男が起こした身勝手な行いは決して許されることではないのだから。メディエットはベイカーの手を掴む。

「アレックス、ベイカーを連行したい。場所を移そう」

「君は病院に行くんだよ? 後は僕とランディスが引き継ぐから」

 アレックスはメディエットに優しく語りかける。メディエットの傷ついた身体を気遣っての行動だった。メディエットの利き腕の骨には確かな亀裂が入り、肺を支えるあばら骨は砕け、その一部が肺を傷つけている。立っていることさえ不思議な状況だが、メディエットは機士の誇りからなのだろう、最後まで職務を全うしようとしていたのだ。だが、それ以上の職務は死を招く恐れがある。アレックスはそう思いメディエットに語り掛け、彼女の手を優しくベイカーからどけたのだ。

 しかし、その一瞬の隙間が、ベイカーにとって、最後の機会を与える。

 突如、ベイカーは、羽織るコートから紫色のハンドベルを取り出した。それは『ディ・アブロ』と呼ばれる、狂気を秘めた危険なマジェスフィア。ベイカーの最後の切り札だった。

「くそぅ……、俺は帰るんだッ! グリードリバーへッ!!」

 絶望と怒りが交錯する声で叫ぶベイカー。彼の手がマジェスフィアを振り下ろし、アレックスの頭に衝撃を与えた。

「――ッ!」

 突然の衝撃によってアレックスの頭は揺れ動いた。アレックスの手が痛みを押さえようと額に触れる、その一方で、メディエットは一度ホルスターに納めた翼剣を、緊迫した状況の中で再び引き抜いたのだ。

「往生際が悪いぞベイカー」

「往生するのはお前らだ」

 狂気が歌い、殺意が舞う。ベイカーが振る鈴状のマジェスフィア『ディ・アブロ』が鳴り響いた。その中心に取り付けられた紫色の透き通った鉱石が、周囲の金属にぶつかるたび。甲高い音は不気味に響き渡り、空間を満たしていく。それは異界の歌のように、頭の中を直接揺さぶり、人々の恐怖を増幅させていく。

「……アレックス市長、今日一日で何人死んだか覚えておりますかな?」

 ――五十……? アレックスの頭の中で数字が駆け巡ったが、実際はもっと少ないだろう。動けるほどの軽微な損傷の死体ならば三十前後か。

 脅すような口調で答えを待たず、ベイカーは言葉を巧みに紡いでいった。

「『ディ・アブロ』の音色が死者を目覚めさせる。彼らは自らの欲望に従い生肉を求め動き回るぞ。さぁ市長、決断の時だ。荒野で私と『追い鬼』をするか、数十人の死者と舞踏するか」

 残虐なる狂気が空間を支配する中で、メディエットの心に沸騰する怒りが頂点に達した。今ここでベイカーを切り裂いたとして、動き出した死者が止まるかは分からない。だが、メディエットは翼剣を離すことが出来なかった。

 その怒りは、理性を飲み込み、感情が手元を支配する。一閃、刀身が閃光のように振り下ろされる。しかし、その一撃は空しく、突如として現れた蠢く死者の異様な動きによって、斬撃は弾かれてしまった。

「……ッ」

 気がつけば、路地裏へ続く暗く陰鬱な通りから、引き寄せられるように死者たちが現れた。四、五人の無表情な顔、ゆっくりとした足取りが一列に並び、確実に二人の方へと向かってくる。

「ハッハッハッ、小娘。せいぜい、アレックス市長に守ってもらうんだなあッ」

ベイカーが逃げるために街の出口へと急いで走り出した瞬間だった。今まで黙っていたアレックスが口を開いた。

「逃がさないよッ!!」

 彼の声は地を撫でるような低さで、その音色には唯ならぬ冷気が漂っていた。それは単なる寒さではなく、深い悲しみと失望が絡み合い、彼の心の奥底から湧き上がる哀れみの叫びのようだった。その声は、空間さえ支配する重みを持ち、ベイカーの背中へと突き刺さる。

「何を言っているか分からない。市長は、市民を見捨てるって言ってるのか? テメェ一人で街に蠢く数十の死者を倒さないといけねのに、それを放棄するってぇのか?」

「市民も守る。メディエットも守る。……でも残念だ。ベイカー……君の安否を保証できない」

「何わけわからないことを言っていやがる。テメェはッ、現実が見えていないんじゃないのか。いま追い詰められているのはテメェの方なんだよッ!!」

 ベイカーの怒号へ応えるように、アレックスの左手には黒いカードが握られていた。その中でも道化師の絵柄が一際目立ち、彼の失意の眼差しと共に向き合っていた。

 直後、カードは深い青の輝きを放ち、道化師の絵柄が炎に包まれるようにゆっくりと消える。そして、代わりに現れたのは、中央に大きく描かれた車輪。その車輪は天と地を繋ぐ枢軸として描かれ、回りを巡る光の輪が絶え間なく動き、時の流れの変転を象徴しているようだった。その、カードの左右片側の角には、ギリシャ数字の『X』が、この絵柄の重みと意味を一層強調するように刻印されていた。

「『ジョーカー・ザ・ワイルド』、これが僕のマジェスフィアの名だッ!! 二人の道化師は術者の生気を喰らい目を覚ます――」

「『ジョーカー・ザ・ワイルド』だと。マジェスフィアの名前だったのかッ!」

「――駄目なんだ僕一人の力じゃ。どうしても気ままな道化師を従えることはとてもできない。道化師にお願いするなら、厳めしい機士の力を借りないと、まともに動いてくれないんだよ。このマジェスフィアは」

 凍りつくようなベイカーの視線を捉え、アレックスはカードを二本の指でつまみ、絵柄の書かれた面をベイカーの方へ向け、宣言する。

「死者の烙印(スート・オブ・ネクロ) 『X』 ロンド・リザレクション」

「おまえ、何を――。ッ――」

 喋るために開けた口が突如現れた拳によって下顎を砕かれ、閉ざされた。鼻の奥で高まる熱を感じ、ベイカーは衝撃と痛みに両手で口を塞いだ。

「何をやったかだって? ベイカー。 キミの望みを叶えてあげたんだ。死者と踊りたかったんだろ? なら歓迎しよう。ようこそ、死者の踊る街『ファントムウッズ』へ」

 メディエットは目の前で展開される不可解な現象に理解が追いつかなかった。しかし、これは二度目の光景だった。三年前のグリードリバーで見た来事が、走馬灯のように彼女の心の中を駆け巡り、今と重なっていく。

「この現象は、いったい何が起きている? ベイカーの呼び寄せた死者共が勝手に吹っ飛んだぞ。いやっ……。おかしい……。通りにこんなに人がいたか……?」

「人じゃないよ、みんな死んでいるさ。簡単に言えば魂っていうのかな。『スート・オブ・ネクロ』の能力は死者と生者の境界を取り払うから……。彷徨う魂達は、はっきりと具象化するのさ……」

 空気中の微細な水分が集まり、雲を形作るかのように、かつて何も存在しなかった空間に突如として人々が現れ始めた。湧き出る泉のように、風に舞う木の葉のように、そして揺らめく炎のように。彼らの顔つきは険しく、瞳には隠れた恨みがギラついていた。彼らは暴徒のように一人の男を取り囲み、ただ一点を凝視していた。その眼差しは釘付けで、その存在は一瞬にして場の雰囲気を一変させ、緊張感を高めていた。


「なぜだ! なぜ俺のジョーカー達は俺を守らない」

 動く事を止めた屍へ向けベイカーは喚くような声を鳴らす。

「なぜかって? 君が数十の死者を動かすっていうのなら、僕は数百の死者でねじ伏せるだけだ。みんな死んでるから動く死肉を怖がったりしないのさ。相手が自分の抜け殻だって、残された家族を守る為なら容赦しないさ」

 目を血走らせ、奥歯を噛み締める音がギリギリと響くベイカーの背後に、突如一人の男が現れた。その男は、瞬きもせずに力強い蹴りをベイカーの背中に放った。背後からの意図せぬ衝撃に、ベイカーの身体は前へと押し倒された。倒れる運命のほんの一瞬先、アレックスとメディエットの視界に紺色の警察帽と同色の制服が映り込む。

「あの警官は何だ? 凄い剣幕だぞ……」

「きっとベイカーの同僚だったんですよ」

「ご名答! あのものは、我と共に護送の任務に就いていた者だ! ベイカーの不意打ちを喰らい、死者に首の骨を折られ絶命したのだ。哀れな奴め、最近、花嫁を迎え、家庭の礎を築いたばかりであったのに…」

「「トールッ!!」」

 それは当然のことであった。アレックスが使用したマジェスフィアの能力には例外がないのだ。地を揺るがすような巨大な体を持つトールが、ゆっくりと動き始め、メディエットの後ろからその姿を現わしたのだ。

「小娘。貴公がボロ雑巾になるまで稽古をつけてやりたい所だが、今はベイカーに恨みを晴らす方が先だぁッ!」

「もしかして、怒っているのか?」

 トールは答えなかった。怒りで我を忘れているようだ。

「メディエット、彼の死体を見なよ。片足を吹っ飛ばされたうえに、体が真っ二つに分離してるんだよ。怒ってないわけないじゃん」

「お前も一緒だったではないか……」

ズンズンと靴音を鳴らし、前方の大衆へと進むトールは、真っ二つに裂けた自分の抜け殻を一瞥し、『クロンダイク』を拾い上げた。その巨大な鉄槌は地面に引きずられ、大熊のように迫り来るトールの姿に、驚いた実体化した魂たちは慌てて道を空けた。だが、大通りで自らの手に握られた『クロンダイク』が冥界へ送ったであろう者たちに対して、トールの表情が変わることはなかった。

 彼の怒りはその程度では収まらなかったのだ。


 そしてベイカーは、身体を引き裂く痛みと心を抉る不安から逃れようと、未だ守護者が助けに来たのだと信じ、混乱の中でトールに泣きすがった。その哀れな姿からは『ディ・アブロ』を巧みに響かせていた傲慢さを完全に消し去っていた。しかし、迫り来るトールの目には、ただ一つの目的が焼き付いており、ベイカーの悲鳴や混乱を封じ込めるように、彼はただひたすらに前へと進んでいたのだ。

「トール! たっ……助けてくれよ! なっ! なっ! さっきは悪かったって……」

 ベイカーの声は震え、涙が頬を伝い落ちる。だが、トールは自身の足元にしがみつくベイカーの姿を冷徹に見下ろし、その巨大な瞳をゆっくりと動かす。

「貴公……。虫唾が走るぞ。貴公から漂う腐敗臭はなんだ。それは、朽ち果てた心の臭いか。この臭いは人ではない。人を辞めた貴公の嘆きは罪だ、懺悔の言葉すらも罪。今こそ、貴公が選んだ運命の鎮魂の時だ」

 冷徹な言葉を静かに吐きつつ、その言葉を言い終えると、トールはベイカーの服の襟首を掴み、吊るし上げるように力強く持ち上げた。彼の眼には怒りの炎が燃えており、その手からは絶対的な力が伝わってくる。そして、周囲の家屋へ向け、力任せにベイカーを投げ飛ばした。


 ベイカーは平らな壁面に背中を打ち付け、恐怖と絶望に顔を歪め、未曾有の恐怖に震えながら壁にその身を沈み込ませていった。

「我が盟友『クロンダイク』よッ!! 貴公も下劣な振る舞いに、頭に来ているのだろう。ならば我と共に敵を討ち、名誉を取り戻そうではないか!」

 ――やめてぇっ!

 盟友は何も言わない。代わりに激昂するトールを少し遠くから見つめる二人の間に、突如、止めようとする誰かの心からの叫びが聞こえたようだった。

「アレックス! トールを止めなくて良いのか?」

「僕にはできない。死んでいった彼らの無念は小さな僕の声を聴いてくれないだろう。ジョーカーの力で出現した死者を僕はコントロールできない。彼らの思いにゆだねるしかないんだ」

「そんなことってッ!! おい、アレックスッ!! トールが『クロンダイク』のトリガーに指をかけているぞ。あいつ雷撃を放つ気だッ、このままじゃ民家にも被害が出る」

目の前で慌てるメディエットの姿を見詰め、アレックスは悲しげに溜息を吐いた。

「だから、僕は。この力を使いたくなかったんだ」

 『ジョーカー・ザ・ワイルド』の黒きカード。『スート・オブ・ネクロ』の力は、霊魂に肉体の形を与える。だが、アレックスには、実体化した死者を制御する能力はない。それは彼の力と『ディ・アブロ』との根本的な違いであった。それゆえ、アレックスは力を行使すれば、ベイカーに殺された者たちが私怨を果たすべく集まることを予見していた。ベイカーを擁護する者など、この場に居ないのだ。

「止められるわけないじゃないか、……ベイカーに殺された者たちは、この瞬間を待っていたんだ……。それをどう阻止できるっていうんだ? 恨みに燃える心の火っていうのは、周囲も焦がすものなんだ」

「だからってなぁアレックス! トールを止めなかったら民家を巻き込んで、また被害がでるんだぞ!」

 アレックスを、メディエットの甲高い声が、稲光のような圧力と共に襲い掛かった。顔を歪めながらも、悔しそうに拳を握りしめるアレックス。彼には自らが止めなければならないという理性があったが、心の奥底では深い迷宮の中で抜け出せずにいた。ベイカーに無残に命を奪われた者たちの意向、それは人を殺すこと。霊魂達の望むことを身勝手に止めてしまってよいのか。その問いが彼の心を苛み続けていた。

 そんな時だった。切なる思考の渦中で苦渋の決断を迫られている二人の真横を、小さな身体が恐れを知らずに走り去った。その足音は、瞬く間にトールとの距離を縮めた。

 メディエットはその小さな存在に目を奪われ、驚きの中で視線を移した。その小さな存在はトールの内腿へとめいっぱい蹴りを振り上げる。

「私のパパになにするのさぁ。このクマやろぅっ!」

「ぬぁ……」

 トールは不意な衝撃に、声を漏らし、目を見開いた。

「どうなっているアレックス」

 アレックスはベイカーを「パパ」と呼ぶ少女には視線を向けず、その少女が走ってきた方向へ静かに指を差し伸べた。

「メディエット、あの子、あのちっちゃい女の子。僕たちの後ろから走って来たよね。向こうに居る人、いったい誰だろう?」

「んっ……? 婦人? あれもお前の力で実態を得た魂なのか?」

「ああ、そうだと思うよ」

 アレックスの指し示す先には、一人の女性が立っており、トールの元へ走り去った少女を見つめる彼女の瞳には深い悲しみが宿っていた。

「もしかしてベイカーの妻なのか……?」

 メディエットが婦人と呼んだ女性の顔を覆う深い悲しみは、夫と慕った男の罪に対する無念さから湧き出ていたのだろう。取り返しの付かない過ちを犯した夫を前に、彼女の心は途方に暮れ、空虚な表情を浮かべていた。その一方で、娘はまだ幼く、罪の意識さえ芽生えていないようだった。少女の眼には、鉄槌を振り上げる大男が父親を虐める悪党に映ったのだ。純粋な心に宿る幼い正義感は燃え、その小さな身体で憤怒の前に立ちはだかる。

「メルティ……? 本当にメルティなのか? 何年も探し求めたんだ……。こんな場所で……」

 ベイカーは何年も切ない時間を隔て再び娘の姿を目の当たりにした。

「くるな、メルティ……」

 突っぱねる言葉とは裏腹に、ベイカーの手は娘の魂へと自然に伸び、彼女をしっかりと抱きしめた。その腕は恐怖に震え、崩れ去った父親の威厳も感じさせない痛々しい表情で、後悔の涙を隠し切れずに流した。長い間、この街で探し追い求めた娘の姿が、突如として目の前に現れたのだ。無理もない。

「こんな簡単に……。こんな簡単に会えたのなら……。何年も探し続けたんだ……。俺は……。俺は……」

「パパは、私が守る。だから、泣かないでッ!!」

「ごめんよ、メルティ……ごめん、父さんは間違ってたんだ。だから、許してくれ……良いんだ。俺が守らなきゃいけなかったのに……」

 ベイカーの言葉は震え、涙に濡れた顔は痛々しく歪んでいた。彼の心の中では、過ちと愛情がせめぎ合いっていた。


 ――もし、家族を思うその優しさを、少しだけ他人にも向けられたなら。こんな悲しい結末にはならなかったのかもしれない


 我が子へ泣きすがるベイカーを見下ろし、トールは胸中にそんな思いを抱きながら、やり場のなくなった怒りを放出するように空を仰ぎ見た。その大男の背中からは虚しさが滲み出ていた。

「アレックス……。トールが『クロンダイク』を振り上げたまま固まっているぞ。あいつ、迷っているぞ。いまならなんとかなるんじゃないか?」

「トールさん、子供に弱いからね。ちょっと説得してくるよ」

 アレックスは白いカードの魔力で一層成長した身体を頼りに、風格ある足取りでトールの側へと歩み寄った。

「ねぇ、いつまでそうやって、ご自慢の鉄槌を振り上げているの? いい加減『クロンダイク』を収めたって、良いんじゃない? みんな怖がってる。ここに集まっている人達の中には、『クロンダイク』によって命を奪われた人たちも居るんだよ」

 トールの声は積み重なった憤りによって重く濁り、その言葉の中に隠された感情がほんのりと漂った。

「本当に殺しちゃって良いの? 困ることになるよ」

「うむ……」

 アレックスは『クロンダイク』を振り降ろすべきか迷うトールの表情を見つめ、今がその時だとばかりに、力強く言葉を連ね立てた。

「君が今ここでベイカーを殺せば、この街でまた一緒に過ごすことになるんだ。死者の街でベイカーを見つけるたびに殴り飛ばすの?  そんなことで本当に気が済むの?  その場の激情に身を任せて、他の大勢を巻き込むのは許されることなの?  もしそうだとしたら、君は足下のベイカーと一緒になってしまう。魔鉱機士である君が、本当にそれで良いと思うの? マジェスフィアは何のための道具なの?  弱い者たちを助けるための道具じゃないの? 君の盟友『 クロンダイク』がそんなことを本当に望んでいると思うの? 君がさっきそう言ったんだよ、忘れたのかい? 復讐は下劣な振る舞いじゃないのかい?」

「はぁ……っ……」

 風船から空気が抜けるような大きな溜息が漏れ、鉄槌はゆっくりと地面へ下ろされた。全身から力が抜け、肩を落とすトールの姿からは、かつて全てをなぎ払うほどの力の気配が消えていた。

「まったく……かなわんなぁ……。アレックス。我のちっこい主よ」

 アレックスは、心をくすぐる言葉に少し照れたように微笑んだ。

「トール。俺のことを……。許してくれるのか」

「貴公の事は許さん」

「なら……なぜ……」

「貴公の事は許すことはできない。怒りに任せた行動が誤りだと知っているだけのことだ。どうやら、我が盟友もそれを望んでいないらしい。そして、貴公の顔は二度と見たくないのだ」

 トールの言葉に、ベイカーは深く頭を下げた。

 遅れながらに深い自責の念が彼の心を突き刺していたのだろう。

 地面に額を押し付けながら、聞こえない声で無残にも命を奪った者たちへの謝罪の言葉を繰り返している。その様子は、後悔と悲しみに満ち、哀れな男の姿となっていた。

 そんなベイカーの頭を、小さな娘の温かい手が何度も優しく撫でた。

「貴公たち、何をぼんやりしているのだ? 他に会いに行くべき者がいるのだろう? この機会を逃したら、次はいつになることやら。三年後か、五年後か。あぁもったいない」

 トールは、力強い意志に満ちた顔で片腕を挙げ、愉快そうに笑った。その豪快な声に従うように、数人の死者が蟻の大群のように整然と列をなし、英雄の一声に従った。その影響力は圧倒的で、恨みに歪んだ心情さえも、その強大な覇気の前には無意味になった。ベイカーに殺された者たちは、悲しみに暮れながらも、各々の家族や友人の元へ、長い別れを告げに向かう。

 そんな彼らの背中を見送るように、トールは足を止め、深い思索にふける。彼の目には、ただの霊魂ではなく、それぞれに物語と願いを持つ人々が映っていた。

「アレックス、もとはと言えば我の慢心が招いた災厄、本当にすまないと思う」

「いいんだ、気にしてないよ。でもさぁ、これからどうするつもりなの? 」

「巻き込んでしまった者たちには、堂々と面と向かって謝罪するつもりだ。だが、それで許してもらえるとは、思っていないがな」

「そんなことないと思うよ、トールさん。みんなキミの強さと誠実さを知っている。キミの声に従った彼らなら、真実を知っても受け止めてくれるんじゃないかな」

「ならよいのだが」

 そう言って、トールは地面にへたり込むメディエットに視線をうつした。被害者と言えば彼女もそうなのだ。

「あの小娘が我の後任か。落ち着いたら伝えておいてくれ。いい蹴りだったと」

「えっ、蹴り……、なんのこと?」

「我を『ディ・アブロ』の呪縛から解き放った一撃の事が。内心、助かった」

 そういって、トールは旧刑務所での死闘を自慢げに語り始めた。自身が操られていたにも関わらず、メディエットに勝利したこと、彼の言葉は興奮に満ちていた。

 そんな二人の愉快な会話を目の前に、メディエットは半ばあきれながら見つめていた。そんな静かな瞬間が流れる中で、彼女の傍に靴音が忍び寄った。その音は少し年配の人物が発する弱々しい響きであったが、どことなく気品と温かみを帯びていた。

「ふぅ、ようやっと『ディ・アブロ』を回収できそうだな。アレックスにネクロの能力まで使わせてしまうとは」

「ランディス支部長!」

 メディエットは驚きの表情を浮かべ振り返る。

 自身の背後には、影のようにランディスが佇んでいたのだ。

「よく……。ここが分かりましたね……」

「あぁ簡単なことだ、死者が湧き出る方へ進めば良い」

「はぁ……」

 要領の良さに呆然としながらも、メディエットは言葉を慎重に選びながら応じた。

「ランディス支部長は『ジョーカー』がアレックスだって知っておられたのですか?」

「あぁ、知っていたとも。彼に、あの『マジェスフィア』を渡したのは、この私に他ならない」

「なぜお教えいただけなかったのでしょうか?」

 疲弊しきった体を押して、メディエットは張りのある声を響かせる。

 がランディスは、その問いに対して口を開かなかった。代わりに、短杖を片手で前方のベイカーに対して構え、意味深な眼差しでメディエットの瞳を捉えた。その視線には、言葉では伝えられない何かを訴えかけているようだった。その所作、意図を汲み取れず、メディエットは眉間に皺を寄せる。

「……わからんか? 犯人は『ジョーカー』の存在を知らなかった。それは同時に術者がこの街の住人じゃない事を意味していた。我が支部の魔鉱機士は、見習いも含めてみな、アレックスが『ジョーカー』であると知っているからの」

「つまり、どういうことですか?」

「簡単な事だ。術者の候補にはメディエット。お主も含まれていたということじゃ」

 ランディスの渋い声が響くと、メディエットはその言葉の意味に気付き、顔を青ざめさせた。

「だが、今思えばそれは愚かな事だったのだと、君に謝らねばならない。被害が拡大したのも全て私とアレックスの判断ミスだったのだから。もし、もっと早くアレックスの持つマジェスフィアの能力を君に教えてさえいれば、こんな大惨事を招く事もなかったのだろう」

 ランディスは深い後悔をその言葉にこめつつ、地面に転がる、紫色のハンドベルをゆっくりと手に取り、ベイカーの方へ向けて歩き始めた。そして、歩きながら自身の後ろにいるメディエットへ、さらなる言葉をかけた。

「君は早く病院へ行くとよい。今にも死んでしまいそうな顔をしておるぞ」

「ですが、まだ蠢く死者が市中に――」

「――そんなことなら心配いらない。ここへ来る途中、グリードリバーで命を落とした英雄達に会った。彼らの力量であれば、十数分とせず、全て殲滅するだろう。あとの事態は私が引き継ごう」

 ランディスの言葉に安堵を感じたメディエットは、自分の身体をじっと見つめた。酷い傷を負っているはずなのに、不思議と痛みは感じられず、むしろ何処か心地よい温かさに包まれていた。しかし、その愉悦は刻々と不安へと変わり始めた。瞼が次第に重くなり、心の中で鉛のように重い感覚が広がり、言うことを聞かなくなる両膝が地面に突き刺さった。

 全身から力が抜け、身体を蝕む疲労感に思考が停滞し始める。その瞬間、永遠に眠りにつけるかのような感覚に襲われた。

「アレックス! この馬鹿騒ぎはいつまで続くんだ! 大通りが真昼のように賑わっておるぞ」

 ランディスは、アレックスへ向け、大きな声を響かせて言った。

「そんなこと僕にわかるわけないでしょ。『ジョーカー』に聞いてよ。でも、この感じだと夜明けまではつづくんじゃないかな」

「トールの時よりも長いな。まあ良い、あとは我々に任せて、お主は、メディエットの傷を見てやってくれ。この騒ぎの一員になりかねない」

 ランディスが冷静に指示を出すと、アレックスはすぐにメディエットの傍へと駆け寄った。アレックスの視線が彼女の傷ついた姿に留まり、一陣の風がランディスの側面を交差する。その支持のあと、ランディスはベイカーの方へ進み始める。ベイカーの前にはトールが立っており、トールの表情は、先ほどとは一変し、何かを考え込んでいるようだった。そして、ランディスがそこへ着いたとき、トールがランディスへと語りかけた。

「ランディス殿、頼みがあるのですが……」

「あぁ、何かねトール君」

「夜明けまでに、辞表を提出しに行きますので、受け取っていただきたい」

「そうか。先に行ってしまうのだな。本当なら受け取りたくないのだが、仕方あるまいな。今まで本当にご苦労だった」

 哀傷を謳いながらランディスは膝を折り、トールの横でベイカーをじっと見つめた。

「さて……」

 ランディスの目の前で座り込むベイカーの姿は異様だった。彼の顔には人間らしさが失われ、得体の知れない怨霊に取り憑かれているかのような表情を浮かべていた。口からは言葉らしきものが漏れるものの、それは空気を吐くような無音の独言で、具体的な意味を読み取ることはできなかった。

「クロウディア・ホープキンスはおるかね?」

 ランディスはベイカーの妻の名前を意図的に口にした。ベイカーの小さな娘が彼を連行するのに邪魔になると思ったからだ。その声に反応して、今まで遠くからベイカーの姿をじっと見つめていた婦人が、ベイカーの側へと足を進めた。ベイカーはランディスの目的に直ぐさま気づいたようで、理解とともに狂気が彼の心を満たし始める。その瞬間、彼は狂ったように声を発し始めた。

「まってください! どうか! 今夜だけでも! 今夜だけでも! 時間をください!」

「なぁベイカーよ、被害者と加害者が対等の恩恵を受けられるのでは示しがつかんのだよ。罪を犯したものは必ず罰を受けなければならない。そうでなければ秩序など守れるわけもないと思わんか?」

 ランディスの言葉が沈黙に消えた直後、婦人の手が娘に触れた。その凍りつくような表情には、変わり果てた夫の姿への恐怖が滲んでいた。

「まって! まってくれ! 連れて行かないで! 俺を……。おれを一人にしないでくれぇぇぇっッ!!」

 ランディスは男の境遇に対し、深い哀れみさえ感じながら、昼間に自身が吐いた言葉を思い返した。もし、この男が『ディ・アブロ』の噂を耳にしなかったなら、失った家族に見捨てられることはなかったのかもしれない。もし、この男があと数十年この街で静かに暮らしていたならば、永別したはずの家族と、せめてもの充実した時間を過ごせたかもしれない。ランディスの胸中には悲壮感が湧き上がり、その感情が彼の手を重くさせた。それでも、彼は冷静にベイカーの両手に鉄の鎖を巻き付けた。運命の酷薄さと人々の選択が織り成す悲劇を、ランディスは老齢な瞳で何度も見てきた。今回おきたベイカーの災禍も、その一幕にすぎないのだ。


**


「メディエット!」

 アレックスの声が大慌てで響き渡り、彼は地べたに座るメディエットの側に急いで駆け寄った。

 アレックスの手がメディエットの左肩を掴むと、その感触は血が通っていないかと錯覚するほどに冷たく、同時に彼女の体力が限界に達していることを告げていた。

「済まない、アレックス……。とても眠いんだ……」

 焦点の定まらない瞳で、自身と似た姿をその瞳に映し出しながら、メディエットは弱々しくそう言った。

「メディエット、寝ちゃだめだ。戻ってこれなくなるよッ!! どうして、こんなになるまで頑張っちゃったんだよッ!!」

「おまえ……。私の記憶……もってるんだろ……。だったら……その記憶を……だどってみろ……。」

 彼女の声は砕かれた骨の痛みと命を蝕む疲労によって、泣き叫ぶ気力すら失われていた。そして、メディエットは深遠に沈み行く意識の中で、その身を信頼する雇い主に委ね、ゆっくりと瞼を閉じた。

「……ほんとうにすまない。……あとは頼んだぞ」

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