決戦

 二度とその手を握れぬと知って、だが、よろめく足は確実に市街の外を目指していた。一縷の希望だけが、深傷を負ったベイカーの足を動かしていた。裂けた傷口は猛熱を生み、朦朧とした意識の中でベイカーは考えた。後数百歩でこの街の外に出られるだろう。後数千歩で鉄道のある駅に辿り着けるだろうか。死者が致命を避けた傷だが、炎症を起こす傷口に、脳を焼く高熱に、いずれは自身の命を奪うだろう。だがそれほどまでにこの男にとって家族という存在は掛け替えのないものだったのだ。


 城下町の名残から、ベイカーの進行方向には城門が現れる。大きな鉄の門だ。綺麗に積み上げられた石の塔がアーチを描く鉄門を挟み聳え立っている。昔は敵襲を察知するために使われた城門塔だが、今はその役目を終え、見張りに付く者はいない。鉄門は六時の鐘の音と共に閉じる。だが、ベイカーにとって、鋼鉄の門など障壁になりえなかった。真の障壁は、今は地中の底に眠る小娘だけだ。


 ベイカーは思う。今頃地中深くの独房から夜空の星を見ているころか。確かメルティも綺麗な金色の髪をしていた。躊躇いなどとうにないものと思っていたのに、やはり思い出してしまう。早く会いたい、もう一度この手で抱きしめてやりたい。


「おいベイカー、もう日が沈む。大陸横断鉄道の駅に着いたって、列車に乗れるのは翌日だ。今日はこの街で過ごそうじゃないか?」

 それは突如として、ベイカーの耳に響いた。少女の声だ。

 驚きにベイカーは声の方へ振り返る。少女!! そこには確かに魔鉱機士の少女が立っていた。あの独房からどうやって、いやっ、なぜ機士はいつも俺の邪魔ばかりするのか。ベイカーの顔が怒りで赤く塗りつぶされていく。

「どうしたベイカー、顔が赤くなっているぞ? 熱でもあるんじゃないのか?」

 メディエットの挑発するような口調でベイカーに歩み寄り、傷口を抑えるにベイカーの腕を抑えた。

「悪い事は言わない、このままだと死んでしまうぞ。病院へ戻ったらどうだ? 何をそんなに焦ることがある?」

「病院だって? 自分にいってるんですか機士さん。あんただって体中包帯まみれじゃないか」

「いうねぇ……」

「それに、考えてもみてください。この街に残るのが安全とは限らないですよ、何度襲われたか分からない、これ以上この街に残っていたら今度こそ死んじまいます。だから故郷に帰るんです、機士さんそこを退いて、お願いです! 俺を故郷に帰してください!」

 ベイカーの切望、噎び泣くように。突如、家屋の屋根から落ちてきた巨体が、通りの灰色の煉瓦道を粉々にし、砂埃を舞い上げる。

 ――やはり来たのか、『トール・デュオクルス』

 ベイカーはその巨体、大男を見た瞬間、胸の痛みを押し殺しながら顔色を失い、メディエットの方へ急激に駆け寄った。それは、メディエットが手にするマジェスフィアを信頼するというより、この混乱を利用して街から逃れようという打算からだった。

 巨大な存在が二人を見下ろし、一切の迷いを見せずに鋼色の鉄槌は高く掲げられた。しかし、メディエットは腰からホルスターを外し、翼剣を引き抜こうとはしなかった。その代わり、今しがた自分のすぐ横を通り過ぎたベイカーの服、襟首を左手でしっかりと掴んだ。

「これはどういう偶然だろう、ベイカー。まるで我々が初めて出会った日のようじゃないか?」

「ひぇぇっ!」

 メディエットの予想外の行動に対し、ベイカーは驚愕の声を上げる。だが、メディエットはベイカーの反応に一切躊躇することなく、掴んだ襟首を引き絞ると、鉄槌を振り上げるトールの足元に容赦なく放り投げた。

 一度、二度と地面に身体を叩きつけられ、巨体の足元で苦痛の表情を浮かべるベイカー。まさに挽肉にされようという時、振り下ろされた鉄槌が頭上でピタリと止まった。

「トール。術者は殺せないよなぁ、そりゃあ。まさか、ベイカー。お前が術者だったとはな」

 その声を聴いて、大男の足元でベイカーは不気味な笑い声をあげた。その笑い声は悪魔の囁きのように恐ろしく、まるで闇夜に響き渡る狂気のようだった。

そして、立ち上がる男の表情には、さきほどま苦痛にのたうち回る男の表情は消えていた。

「クックックッ。ご名答! だが、なぜわかった小娘」

「病院へ行って可笑しいと思ったんだ。そこら中、蠢く死者だらけだ。1体、2体と倒してようやく看護師を捕まえて、なんとかお前のことを聞けたよ」

 メディエットは、その瞳から鋭い刃物のような異様な眼光が放ちながら、言葉を選びながら続ける。

「命を削る重傷のお前が死者が動きまわる前に、退院していた。まるでそうなることがわかっていたみたいじゃないか。そして、辞表を提出したタイミングも重なれば怪しさは倍増する。まるで今日この日に街を抜け出す決意をしていたみたいだ。だが、それだけだ。他に確証を掴んだわけではない」

 ベイカーはメディエットの言葉を受け、諦めるようにゆっくりと目を閉じた。そして、いままで沈黙を守っていたトールが口を開き始める。トールの口元は質素な布切れに隠されていたが、もう死者であるという事実を隠す気はないらしい。トールの顔面の皮膚が死んだように青ざめ、その冷たさは、特に目の周辺で強調されていた。

「おい、小娘、やってくれたなッ!!」

 声を轟かせる巨体をみて、メディエットは驚きの表情をつくる。

「なるほどな。そうやってトールを操っていたのか。それが『ディ・アブロ』の力ってやつか――」

 メディエットが言葉を続けようとした瞬間、ベイカーがその声を断ち切った。

「――俺が、術者じゃなかった時のことは考えなかったのかッ!!」

「さあね。術者じゃなかったなら、即座に回収したさ。それにベイカー、自分が安全な場所に逃げるまで、トールに攻撃させようとはしなかっただろ? その巨体は明らかに躊躇していた。そのまま飛び降りた勢いで『クロンダイク』を振り下ろせば我々を始末できたというのにな」

 無慈悲なメディエットの言葉を聞いて、大熊のような男にもたれかかりながら、ベイカーは陰鬱な笑みを浮かべる。

「クックックッ、ハッハッハッ。俺は、どうやら、機士という生き物が心底嫌いらしい。金色の髪に娘の面影を見たが、それもお終いだ。小娘。キサマをここで殺す。必ずだッ!!」

「できると思っているのか? もう種は明かされた」

「ヒヒッ。手品の種が分かったからなんだっていうんだ。俺は『ジョーカー』この街の生ける伝説だ。トール一人倒せないキサマに何ができるっていうんだ。今度こそ、その顔面を挽肉にしてやる」

 その言葉を合図に、静かに立っていたトールの巨体が動き出した。まるで操り糸で引かれるように、彼はゆっくりとベイカーの前へと進む。衰弱しているベイカーを庇うかのように、両手で戦鎚をしっかりと構え、一振りして威嚇した。

「おっと、挽肉になるのはごめんだね」

 そう呟きながらも、メディエットはしっかりとトールの動きを両眼に捉えていた。そして、一瞬の沈黙の後、メディエットは鉄槌を構えるトールを背にして、全力で走り出す。

「がっかりだなぁ。今し方の威勢はどうしたぁ?」

「追って来い! でくの坊! 私を確実に殺すんだろッ!!」

 言葉の応酬、挑発の応酬。双方の言葉は鋭く交錯するが、物理的な距離だけは広がっていく。

 メディエットがトールに背中を向けて逃走する理由は、細かく計算されていた。彼らがいる通りの周囲には、民家が連なっている。通り自体には人の気配は無いが、トールの『クロンダイク』が放つ災禍が民家に及ぶことを懸念したのだ。もしもその災禍が家屋に届けば、昼間の惨劇が再び繰り返されてしまう。それゆえに、メディエットは戦闘の舞台を、民家が少ない城門の付近と決め走っていた。

 そして、予想通りの展開。トールがその後を急ぎ足で追ってきたのを確認。さらにその後ろでは、ベイカーがやや遅れながらもトールを追って歩いている姿が見えた。ベイカーの目的はこの街から抜け出すこと。二人の思惑は奇妙に一致していた。

 メディエットは、この流れが自分にとって最適だと感じ、思わず微笑んだ。


「我らを外まで案内してくれくれているのかな」

「まさかな」


 城門の壮麗な壁が近づき、その堂々とした鉄の門がすぐ目の前まで来る中、メディエットはついにホルスターから自らの特別な武器を取り出した。

 1枚の鳥の羽根のように折りたたまれた剣、その幅広の長剣は、空気を裂くような勢いで引き抜かれると、接点から微かな火花を散らして、一つの雄大な翼へと変わる。

「一本だけしか持っていないのか?」

「いまのキサマを倒すのは、この、片翼だけで充分だ」


 片手にだけに剣を持つメディエットに、ベイカーは疑念の眼差しを向けた。ベイカーの認識では、メディエットは明らかにトールよりも劣る存在。それなのに、なぜメディエットは完全な状態で戦いに挑まないのか。そういえば、監獄にぶち込んだとき、彼女は剣をもっていなかった。おそらく戦闘中に紛失したか、破壊されたか。どちらでもよい。剣が一本、加えてケガ人だ。不完全な相手、躊躇する理由はない。ここで、『クロンダイク』を起動して、確実に仕留めればよいのだ。トールの魂じみたものが消えてから、あの子供市長にバカにされてから、いろいろと起動方法を模索して突き止めたのだ。この『クロンダイク』といわれるマジェスフィアには安全装置のようなものが取り付けられていることを。今度はしくじらない。


 ベイカーの意のままに動くトールは、ジリジリとメディエットとの距離を詰める。静かな緊張感がメディエットを包み込む。その手に翼剣をぴたりと握り、目にはしっかりとした闘志が宿っていた。対峙する二人の間で空気は凍りつき、そこに立つ者たちの意志がぶつかり合う。一触即発の瞬間、全てが詰まった刹那。トールの指が、両手に持つ『クロンダイク』の起動装置に触れる。

 昼間の戦闘の際、その動きはさまざまな音に消されていた。しかし、今は違う。沈黙の中で、『クロンダイク』の鉄色の頭部から機械的な駆動音が、はっきりと聞こえてくる。それはまるで、トールの闘志が音となって周囲に広がっているかのようだった。


「灰塵に帰せッ!! 小娘ッ!!」

「ソレを待っていた。半魔法防壁、だが、この投石は弾けまいッ」


 放物線を描くことなく、メディエットの剛腕から放たれた岩石はベイカーを目掛けて突き進んだ。だがその一瞬、トールがその進路を阻むように巨大な鉄槌を振り下ろす。岩石は『クロンダイク』の鉄頭に直撃し、飛び散る火花と共に、粉々に砕け散った。


「小癪な真似を……。なにッ!?」

 ベイカーの意識は、『ディ・アブロ』の魔力により、トールの視界と一体化していた。この特異な能力によって、トールの動きや視界を完璧にコントロールしていたのだ。そして、ベイカーの意識の中で、メディエットの一挙一動を的確に追いかけていた。


 しかし、岩石が『クロンダイク』の頑強な鉄頭に衝突し砕け散る瞬間、ある異変にベイカーは気付く。メディエットの姿が、トールの視界から突如として消えてしまったのだ。一瞬の出来事に、おののき、ベイカーは反射的に両目を開ける。


「本命はこっちだ!」


 その声の主、メディエットはまるで影のようにトールの背後から姿を現わした。メディエットはもはやトールの死角におり、腕を伸ばせばその背中を剣で突き刺せるほどの距離に迫っている。完全にベイカーの隙を付いた一撃。夜の闇を裂くような、冷徹な剣閃が煌めく。しかし…。痛みを覚えたのはメディエットの方だった。

 その感覚はメディエットの腹部を突き刺す刃のように鋭く、それは彼女の意識まで波及し、目前に虚ろな閃光を投げかけた。


「カフッ――」


 鉄槌の柄頭が、メディエットの腹部を突き刺していた。これは、トールの巨体がメディエットの突進に対応し、鉄槌の頭部を地面に打ち下ろした結果だった。その重厚な頭部が地を突くと、柄はシーソーの如く振り上げられ、突如としてメディエットに襲い掛かったのだ。柄の先端は丸く、特別な特徴は持たないが、突進の勢いと組み合わさると、恐ろしい破壊力を放つ。このシンプルな形状でありながら、肉を裂くことは難しくても、骨を砕くことは容易いのだ。


「あぶねぇなあ。助かったぜ。抜け殻と言っても、もとは機士の肉体か、トールが反応してくれたおかげで命拾いだ」

 ベイカーにとっての幸運、それはメディエットの剣が自身に届かなかったことだった。彼女がもう一度投石の道を選んでいたなら、その岩石がベイカーの頭蓋骨を容易に打ち砕いていたであろう。トールという巨体の脅威を軽んじ、ベイカーへ向かう覚悟があったなら、待ち受ける結末は全く異なっていたかもしれない。彼女が全快で万全だったならば、その翼剣でトールの胴体を無慈悲に引き裂くことも可能だった。


 だが、今のメディエットにはその勇気を現実にすることが困難だったのだ。深手を負っていた彼女には、動くことさえも新たな痛みが走り、巨体の背後へと忍び寄るのが精一杯だった。それゆえ、メディエットはベイカーという災厄の元凶よりも、目下の脅威であるトールの無力化を選んだのだ。だが、彼女の戦略の選択が逆に仇となり、メディエットを窮地に落としえる結果となった。


「冥途の土産に教えてやるぜ。この『ディ・アブロ』には、二つの特異な能力がある。一つ目は、目を閉じることで死者とシンクロする能力だ。その死者の感覚、見ている光景すらも俺のものになる。まるで、その死者が俺自身であるかのように動かすことが可能だ。二つ目の能力は、瞳を開いているときに発揮される。精密な動作の指示は効かないが、死者は俺の思惑通りに動いてくれるぜ。そして、そうなっている状態の死者の力量ってやつは、どうやら、生前の運動能力に依存するみたいだ。この意味が分かるか?」

 虫の息と化したメディエットに対し、ベイカーは霊安室で行った探求の成果を得意げに語り始める。その言葉には隠された意味が織り交ぜられ、彼の口元には不気味な笑みが浮かぶ。その指先は、メディエットを指し示し、メディエットの運命を暗示するかのように揺れ動いた。

「つまり、さっきの一撃は偶然ではないということだ。長年肉体に刻まれた記憶がトールを動かしているのさ。どうあがいたって、格下である、お前が、勝てる見込はないんだよッ!!」

 そして、ベイカーはより一層語気を強め言い放つ。

「トールッ!! 雷撃だ。その目障りな小娘の肉体もろとも『クロンダイク』で吹き飛ばしてしまえッ!!」

「悪魔……。めぇっ……」

 力なく声を出すメディエットの前方で、『クロンダイク』の鉄頭が地面を叩く。迷いは無い。

 ガチンという地面を穿つ金属音が周囲に響き渡り、灰色の煉瓦が熱で赤く変色した。そして、地下から吹き上がる暖かい風が白煙を引き起こす。その瞬間、雷が雨のように降り注いだ。左右に振られながらも、雷は確実にメディエットの方へと突き進んでいく。


 城壁を背に倒れ伏せたメディエットは、血反吐を吐き出しながらも必死に立ち上がろうとしていた。「何の為に……」「もう終わるんだ」絶望と闘いつつ、両足で地を踏みしめようとした。骨の折れた右腕の痛みにさえ、目もくれない。冷静に、死という現実を受け止めていた。しかし、このまま終わりたくはない、全ては自分の失態だったからだ。だからこそ、この身を捨ててでも最後の悪あがきをしたかった。

 気がつけばあの時と同じだった。三年前のグリードリバー遠征の日、同じように窮地に陥ったことがあった。だが、その時は『ジョーカー』に助けられた。だから、心の奥底で『ジョーカー』の存在をひそかに待ち望んでいたのかもしれない。


「メディエェェェット!」

「ジョー……カー……」


 ぼやける視界に小柄なシルエットが写り込む。メディエットの知る『ジョーカー』とは似ても似付かないシルエット、だが三年前と重なる状況が彼女にそう認識させたようだった。そして、すぐにメディエットは言葉を改める。

「アレックス! なぜ……」

 無謀とも思える行動だった。自分から雷撃の渦中へ突き進むとは。しかしその様子にも揺らぐことなく、アレックスはメディエットがかつて振るっていた翼剣の片割れを両手で堅く握り、迫り来る雷を切り裂くように振り上げた。

 アレックスの目には決意の光が宿っていた。この剣で雷を受け止めようとする姿勢、その無謀と勇気の狭間で動く少年の様子に、メディエットは思わず叫ぶ。

「無茶だ!」

「無茶かなんてやってみなきゃわからないだろ。この剣は何なんだよ。何でも切れる特別な剣だって言ってたじゃないか。なら、こんな落雷くらい切れなきゃおかしいじゃないかッ!!」

 迫り来る雷の光がアレックスの目を閃かせた。アレックスの両手に握られた翼剣が青い光を放ち始め、空気にほのかなひびきを立てる。雷を切り裂く。そのためだけに。

 アレックスの腕に宿る力、翼剣が発する閃光、それは天と地を裂く力があると確信していた。

 次の瞬間、空から突き落とされる雷轟と、アレックスの構える翼剣が激突する。両者の力のぶつかり合いに、空気は震え、地面は揺れ動く。剣の先端から放たれる閃光が雷轟と交錯し、一瞬のうちに空間を青白い光で満たした。

 そんな中で、アレックスの腕は雷の重圧で押しつぶされそうになりながらも、決して挫けることなく受け止めると、翼剣を力強く振り下ろしたのだ。

 やがて、視界の隅に黒い影と茶色いコートを着たベイカーが現れたとき、アレックスは『クロンダイク』の雷に打ち勝ったのだと理解した。

「断ち切ったのか……。雷を……。そんな……。離れ業」

「……ハハッ、本当に……。切れちゃっちゃよ……」

 身体を貫く衝撃に、アレックスは一瞬、錯乱する感覚に捉われた。自身の目の前で起きた出来事の壮絶さに、理解が追いつかなかったのだ。それを静かに見守っていたメディエットは、両膝を地につけ、目を丸くする。喜びはあった。アレックスが無事で、偉業を成し遂げたことへの喜び。だが同時に、安堵と疲労が彼女の心に押し寄せる。生き延びた。いまはそれだけで十分だった。

 心が一瞬虚ろになったメディエットに対し、アレックスはゆっくりと振り返る。彼女の震える瞳にやさしく目を合わせ、そっと頬に掌を置く。その触れ合いは言葉以上のものを伝えていた。

「血を吐いて大丈夫かい? 言っておくけど。キミをこうやって助けるの。二度目だからね」

「どういうことだ、アレックス?」

「何が?」

「お前が言った言葉だろ。私はお前に助けられたことなんてない。それに私は強い。人を助けることはあっても、助けられたことなんて……」

 そこまでいって、メディエットは目を見開いた。そんなバカな。ありえない。

「グリードリバーでみた『ジョーカー』、お前だったのか!!。いやっ、ありえない。私が見た『ジョーカー』は……そうだ! どっちらかというとトールの方が当てはまる。だってそうだろ、お前は機士じゃないんだから、あの場所に居ること事態、可笑しいんだ。それに体格だって全然違う……じゃ……ないか……」

 ここまで打ちのめされている中で、驚くほど口が回るメディエット。アレックスは彼女の姿に一瞬の関心を抱きながら、ほんのりと溜息をついた。そして、彼女の頬に触れていた掌の中で親指だけをゆっくりと動かし、口紅のように微細に付着した鮮血を、優雅な仕草でそっと拭き取った。

「いいよ、見せてあげる。僕の怒りも有頂天だ」

 アレックスはズボンのポケットからトランプのカードを1枚取り出した。それは白く輝く道化師のカードで、神秘的な光沢を放っている。再度取り出す子供の玩具に、遠くの方から不気味な笑い声が響き渡る。だが、アレックスがその声を気にする様子はない。何か神聖な儀式を執り行うかのように真剣な眼差しで、親指に付着したメディエットの鮮血をカードに滑らかに走らせた。

「ハッハッハッ、この街に来た時は市長が成人も迎えないガキだと驚いたがよお! やはり中身もガキじゃねぇか、まるで危機感が無い。今更トランプ遊びかぁ、気にくわねぇ」

「ベイカー、キミをタロットの絵柄で表したなら、きっと『フール』がよく似合う。今教えてあげるよ、危機感を持つべきはどちらかを」

「何おっ!!」

 アレックスが持つカードが燃え盛る炎のように紅く変わり始めた。鮮血で彩られた純白のカード。その中でも、道化師の部分だけがメディエットの深紅の血に埋もれていた。直後、血は紙面を燃やすように走り、淡い輝きを放ち始める。そして、ジュワジュワと音を立てながら絵柄を変貌させていく。

 全てがほんの一瞬の出来事だった。

「絵柄が変わった……」

「僕のマジェスフィアは一人じゃ使えないんだよ。道化師は二枚じゃないと、切り札にならないからね」

 おどけるようなアレックスの言葉と共に、二人はカードの絵柄に視線を移した。

 道化師の絵柄は、火炎に巻かれるようにゆっくりと消え、代わりに鮮やかな紅のハートが現れた。ハートの中心部には金色の髪を持つ少女の微細な絵が浮き上がり、二つの角にはローマ数字の「Ⅱ」が雅やかに印字されていた。

「それは、マジェスフィアだったのかッ」

 アレックスの前方で、ベイカーが驚愕の声を漏らす。

「ベイカー見せてあげるよ。本物の『ジョーカー』がどんな力を持っているのかを。僕の街を壊した報いは受けてもらうよ」

「本物の『ジョーカー』だとッ!?」

「スート・オブ・ライフ 『Ⅱ』 ファンタズム・ジェミニ」

 市長アレックスの宣言。淡い光に塗り替えられた道化師のように、突如としてアレックスの身体を地面から吹き上がる炎が包み込む。そして、竜巻のように猛り狂った大火は夜空に向かって飛び立ち、一瞬にして消え去った。紅き炎の熱すら感じる間もない出来事だったが、メディエットの目に映る光景は相当に異なっていた。

「どうなって……いるんだ……。体格が変わったのか……。アレックス……」

 驚愕と混乱が入り交じり、メディエットは言葉を詰まらせた。最初の疑問は、自身の姿がカードに映り込んでいた事だった。それを超えて、アレックスの身長が自分と同程度に伸びていたことに対する驚きが彼女を支配した。アレックスは子供用の紳士服を着ていたはずなのに、服も伸びた身体にぴったりと合っていた。まるで手品師が舞台で見せる一瞬の奇跡のように、服のサイズも彼の成長に合わせて変わったのだ。

「今の僕はメディエットと同じ身体能力を持っている。ベイカーこの意味がキミにわかるかい?」

 アレックスのその言葉と共に周囲は静まりかえった。メディエットは苦悩し。ベイカーは呆れ果てた表情を浮かべる。

「なんだ、本物というから焦ったが、ものまねだと。ちんけな能力じゃないか。本物の『ジョーカー』の能力がその程度とはがっかりだ」

 言葉の毒を吐きつつ、呆れの色をさらに濃くするベイカーは、口元に歪な笑みを浮かばせる。その笑顔は次第に狂気じみて展開し、周囲を満たすような高笑いを吹き上げた。

「フハッハハッ! 何が『ジョーカー』だ。市長わかってるのか? 何度も、何度も、何度も、俺らに挑んで来た小娘は、今そのザマなんだぜぇ」

 ベイカーのからかうような言葉に、アレックスの目は細くなった。その中には明確な不快感が宿り、特に傲慢に響く「俺ら」という一言が、アレックスの心に深い刺激を与えた。その怒りにも似た感情を抑え、冷静に、しかし目には隠し切れない闘志を帯びながら、アレックスはメディエットに問いかける。

「ねぇ、メディエット。大丈夫?」

「あぁ、なんとか。凄く痛いが、意識は保っているよ」

「活路を切り開くよ。だから、さぁ、メディエット。僕が合図したらやってもらいことがあるんだ」

 そいって、トールに立ち向かおうと一歩踏み出すアレックスをメディエットが呼び止める。

「まて、アレックス。ベイカーが言っていたことは事実だ。お前の『マジェスフィア』の能力は確かに凄い。だが、私を真似ただけじゃ勝てないんだ」

 自虐に染まる言葉がメディエットの顔に深い影を落とし、その瞳からは、悔しさの涙をためていた。

「私は未熟だ。三年前のあの日から。見習うべき背中を失って、機士になっても亡霊に囚われていた。それでも私はガムシャラに頑張ったんだ。でも、どれだけ努力しても、結局トールのように強くはなれなかったんだ。奴の死体にだって、勝てなかったじゃないかッ――」

 彼女の声が震えると、ついに涙が溢れ、片手で地面を激しく叩いた。

「活路っていうならさぁ、おまえ……。その力を使って、支部長のランディスを呼んできてくれたらいいのに」

 そんなメディエットの打ちひしがれる様子に一瞥をくれ、アレックスは少し言葉を失いつつも、深く考えた後、ポリポリと頭をかいた。

「こんなことを言うと、不気味がられるから言わないんだけどさ。この能力はもう一つ受け継ぐものがあるんだよ」

「なんだって?」

「身体能力と記憶。それがこの『マジェスフィア』の力さ。僕は一度、グリードリバーで、トールになったからわかるんだ。彼は戦闘に癖がある。それにトールの持つ『クロンダイク』は連続して雷を落とせないんだ。そんなことをすれば、鉄頭に蓄積された膨大な熱量のせいでマジェスフィアが壊れちゃうからね。だからトールを倒すなら今しかない」

 メディエットはアレックスの言葉を聞いて、深く息を吸い込んだ。アレックスの言っていることが全て事実ならば、もしや、トールを倒すチャンスが本当にあるのではないか。メディエットの心の中で、ほんのりとした希望の灯が灯り始めた。

 そんなメディエットの姿をみて、アレックスは彼女の耳にそっと片手を置き、静かに耳打ちをした。何か重要な言葉を伝え終わると、片手にしっかりと翼剣を構えると、痛みで地に伏せたメディエットに向けて、ゆっくりと手を振った。

「時間なくなっちゃうからそろそろ行くけどいいね。きっと向こうも僕たちが攻め込まないことを好都合と思っているはずだから」


「遺言は伝え終わったのか。市長ッ!!」

 いよいよ、攻め込んでくると知ってベイカーはアレックスを挑発するような言葉を投げかける。

「遺言?道化師はそんなもの残さないよ。なぜなら、その『死』すらも舞台の一幕にすぎないからだ」

 アレックスは飛ぶように大地を蹴った。子供を模した殻を破り、力に溢れる両腕を左右に振り、翼剣のグリップを右手で握りしめると、羽が生えたような軽やかさで進んだ。一瞬の迷いが死につながるこの戦いで、僅かな沈滞が勝利と敗北の境界となる。かつて共に戦った友であろうと、市民の安全を脅かす者は許されない。筋肉が引き締まり、身体の中を巡る血脈がアレックスに他を圧倒する勇気と決意を纏わせていた。

「バカなっ、メディエットを模しただけのキサマが、なぜそれほどまで――」

「――わからないか。メディエットは手負いだったんだ」

 迫りくる凶刃にベイカーは危機感を覚え、人差し指を振るって、支持を促した、自分の身を守るために、アレックスを倒すために。

 今のトールに必殺となり得る雷の力はない。ただ柄のついた鉄塊を握りしめ、相手の動きに合わせて振るうのみ。朽ちた肉体から発せられる死の冷気が周囲に漂い、否応ない殺気を放つ。彼の戦いはもはや感情ではなく、純粋な闘志と本能で動かされていた。機能を停止した頭で、朽ちた心臓に宿る本能で、トールは勝利の秒数を口ずさむ。

「そんな時間を数えたって無駄さ、トール。キミが次に雷撃を放つことはない」

 ――ガチン!

 金属の衝突が鳴り響き、周囲の大気まで震わせる。

 アレックスは目の前に迫る『クロンダイク』の鉄頭に翼剣のナックルガードをぶつけ、打ち上げる。その動きは一瞬のうちに行われた。そして、アレックスは腹を地に押し付けるほど低い姿勢で、機敏にトールの足下へと潜り込む。

 だが、トールの本能はその動作を見越していたように、突き出した足を即座に半歩ずらし、重心を内側に移した。数多の戦いで研ぎ澄まされた感覚がそうさせたのだ。やがて、自然に動かされるその体は、ナックルガードで打ち上げられた鉄塊の勢いを巧みに逆手に取り、アレックスの盛り上がる襟首へ柄頭を滑り込ませたのだ。

「わわっ――わっ――!?」

 そして、トールは振り上げる力を利用し、アレックスを着ている服ごと持ち上げた。

 急に浮き上がる胴体、肌を伝う金属の冷気。地面から足が離れる感覚に驚き、アレックスは思わず右手の力を緩めてしまった。翼剣はこぼれ落ちるように地面へ落下し、カラカラと転がる音を鳴らす。

 駆逐する対象から力を削ぎ取っても、トールの躍進は止まらなかった。彼の足元に転がる翼剣の刀身へ、踏みつけるように足を下ろすと、ぶら下がるアレックスの胸ぐらを片手で掴んで灰色の地面に叩きつけた。アレックスはその衝撃で鈍い声を漏らし、メディエットは青年となったアレックスの予想以上の早い帰還に驚き、一瞬戸惑いの色をみせた。

「アレックス!」

「大丈夫だよ……。メディエット」

「ハッハッハッ、やはりトールの方が一枚上手だったか。コイツは強いぜ。おれの勝ちだッ。ちょうど秒数を数えるトールの口も止まった、『クロンダイク』のクールダウンは終わったみたいだ。二人仲良くあの世に送ってやるぜ」

 ベイカーは自分の勝利を確信していた。負傷した機士に、地面にへばりついて動けない市長の姿がベイカーの眼前に広がっていた。今まで以上に口元を緩め、大袈裟な高笑いが空間を満たした。

 そんな中でもアレックスは冷静だった。冷静にトールが未だ踏みつけて離さない翼剣を指さした。アレックスとトールは長い付き合いだ、かれの戦闘の運びはすべて熟知した、それゆえに、こうなることもすべて予測済みだった。そして、アレックスはメディエットに言葉で合図を送る。

「ねっ、僕の言った通りになったでしょ」

 メディエットは理解していた。地面に伏せたアレックスのその言葉を聞いて、アレックスが耳打ちで自身に伝えた算段通りになっていることを。だからこそ、メディエットは『クロンダイク』のトリガーに指をかけるトールが、その鉄槌で地面を打つよりも素早く、『ダブル・ダウン』のグリップに力を込めた。蒼刃の輝きは届かず、しかし、翼剣の片割れは呼応するように、トールの足元で同じ青色に変わったのだ。

「ハッハッハッ、奇跡が二度起きるかとはないぞっ――!!」

 ベイカーの高笑いが途中で途切れ、歪な衝撃音と共に、トールは地面に片膝を突いた。

「トールの本能がそうさせるのかな。彼は慎重だから。僕の落とした翼剣を回収されまいと、ずっと踏んでいたでしょ? それが仇になったね」

 メディエットの『ダブル・ダウン』には二つの特別な能力が備わっている。一つは、あらゆるものを切り裂く圧倒的な破壊力。そしてもう一つは、旧刑務所で見せた、片翼からもう片翼へ力を伝える「遠隔操作能力」である。この時、メディエットが起動した『ダブル・ダウン』は、地面に横たわっていたもう片方の剣に力を送り込んだ。トールは気づかずその刀身を踏んでいたが、それが彼の運命の瞬間となる。完全に予期せぬ一撃、急に青白く発光する刀身がトールの足首を精確に捉え、一瞬にして吹き飛ばしたのだ。

「ばかなッ――」

 目の前で広がる悪夢のような光景に、ベイカーはおののいた。だが、ベイカーの操るトールはまだ攻撃を諦めていないようだった。『クロンダイク』のトリガーに指をかけるトールは、バランスを崩し地面に倒れ込みながらも確かに鉄槌で地面を叩こうとしている。その光景を目の当たりにし、メディエットが叫ぶ。

「アレックス、まだだっ、トールはまだあきらめていないッ!! ハンマーが地面を突いたらおしまいだ!!」

 そのメディエットの悲鳴にもにた叫びを聞いて、アレックスは一足飛びでトールの巨体へせまり、時を切り裂くような速さでハンマーの重い柄を掴み、受け止めた。だが、トールは巨体だ。その大きさは比べようがなく、青年の身体とメディエットの身体能力を受け継いだアレックスにとっても、その重さは言葉に尽くせないほどだった。アレックスの身体は、徐々に地面に押し込まれ、筋肉が凝縮し、骨がうめきをあげる。それはまさに地面とのせめぎ合いだ。

「メディェェェェェット!!」

 悲鳴にも似た声で、アレックスがメディエットの名前を叫ぶ。その声は重厚な波のようにメディエットの心に突き刺さった。

「アレェェェェックス!!」

 一瞬のためらいもなくメディエットは立ち上がり、傷の痛みを忍びつつも、足早に駆け出した。彼女の目の前には、不動の巨大なトールが侵攻を続けている。アレックスが必死でその鉄槌を受け止め、地面へと押し付けられつつある姿が目に入った。顔には苦痛の表情が滲んでおり、このままではトールに屈する危機が明確に感じられた。

「メディエット! もう、もたない」

 再びアレックスが低く、迫る声で叫ぶ。その言葉は、どれほどの距離があっても、メディエットには鮮明に届いていた。

 メディエットは、この戦いの初めからずっと握りしめていた翼剣構え、地を蹴り、空を裂くようにジャンプする。

 巨体のトールは、ふとした瞬間、彼女の動きに気づいたようだった。しかし、すでに手遅れだった。アレックスが全力で槌を拘束している間隙に、メディエットはトールの胴体に水晶壁の刀身を突き入れたのだ。


 その直後、トールは熊のような巨大な咆哮を上げる。その声はその巨体から溢れ出るエネルギーの全てを解放するかのように、夕暮れの街路に力強く響き渡った。

「あんたとはこんな形じゃなく、もっとちゃんとした形で戦ってみたかった。ありがとう……先輩、だから……。ゆっくりと休んでくれ……」

「メディエット……」

「アレックス!! 裂くぞ! トールを悪魔の呪縛から解放する!」

「あぁ、頼んだよ」

 その言葉の直後、メディエットは翼剣のグリップに力を込め、刀身が闇夜に溶け込むように青い光を纏った。すると一筋の閃光が飛び交い、無音で巨体を二つに引き裂いた。言葉を失った男の遺体に対し、憐れみを込めて冷たい風が吹き抜ける。地面に重く落ちる肉塊の前で、『クロンダイク』もまた、主の側に静かに横たわっていた。


 勝負はついた。アレクとメディエットの勝利により決着したのだ。

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