黒き道化師のカード
市長公邸の客間で、リリーにしか見えない友人が一人佇んでいた。公邸の四角い窓から夕日が赤く室内を染め上げる。そして、魂となったトールの透明な姿が窓の先の草木を静かに眺めていた。美しい静寂を漂わせる庭園に向けられたその大きくも空虚な眼差しは、中身を失い身勝手に市街を歩き回る自身の肉体への憂いを感じさせた。もし、この口で声を出せたのならば。もし、物体に触れる事ができたのならば。彼は、死してなお機士の職務を果たそうとしていた。
――否、これは復讐だ。自身の命と肉体を奪った者への、いや、我が盟友『クロンダイク』を悪行に使用したベイカーへの復讐に他ならない。
復讐の業火を胸の奥で燃やすトールの背後で、扉が開く音がなった。そして、少しぎこちない足音が室内に響き渡る。
「トールさん! すみません、結構遅くなっちゃいました。酷いんですよ、資料保管庫が雪崩みたいに崩れちゃって……」
柔和な笑顔を浮かべながらリリーはトールへと語りかけた。トールは振り向き、リリーに視線をやると、そこにはいつもと変わらぬ無邪気な表情を浮かべる少女の姿があった。そして、リリーは若干埃まみれで、片手には変色した書巻を持っていた。
トールは無色透明な風船のように飛んでおり、ふわふわとリリーの元へと近づいた。
「トールさん。考え事ですか? お怖い顔をして」
トールの憤怒で塗り固められた鬼のような表情をみて、リリーが呟く
「あっ、私長く待たせちゃっていましたか? 退屈でしたよね? 今の時間はカラスさんくらいしか泣かないから外を眺めていても。面白くないですよね」
リリーは戯れるように言ったが、トールは相変わらずの険しい表情で、ゆっくりと人差し指を動かしリリーの手に持たれる書巻を指示した。
「これですか! グリードリバーの戦死者リストです! 旦那様に頼まれたんですよ」
両手で書巻を開き、リリーは中に書かれた内容を見せた。その瞬間、トールの表情に険しさが増した。
「私、何かやっちゃいましたか?」
リリーは慎重な声で言った。トールはそんな少女の表情を見て、首を左右に振り、黙って否定した。
「この書類に何かあるんですか?」
トールは今度は首を縦に振った。
「わかった!! このリストの中に手掛かりがあるんですね!!」
リリーの黒く澄んだ瞳がいつも以上に輝いていた。
――これで旦那様が帰ってくれば!
心を高ぶらせ戦死者リストを抱きしめる少女の耳元に、庭園から物音がした。野犬の猛進を思わせるほど騒々しい音。リリーの目の前でトールは庭園を見つめ、四角いガラス窓に直ぐさま張り付いた。
「……どうされたんですか? トールさん」
不安に滲む少女の声。事件の早期解決を望む二人の期待を裏切るように、不気味な人影が視界に移り込んだのだ。緑色の葉っぱと赤色の夕陽に染まる花々が交わる庭園。その中を蠢く人影。一切の潜む気配を感じさせず、ガサガサと雑な音を響かせて公邸の客間へ近づいて来た。リリーの強張る表情とトールの一瞬の動揺は、この不気味な人影に対する直感的な恐怖を反映していたのだ。
「……なんで、こんなところに死者が」
後ろで脅え固まる少女の存在など無視するかのように、トールは透き通る四角窓を強く拳で打った。拳はガラスにぶつかり、霧散する。そして、トカゲのしっぽのように根本から生えてくる腕を見詰め、親指で四角窓を指し示す。トールはリリーに開けてくれとサインを送ったのだ。
「駄目です……。トールさん……。今のあなたには実態が無いんです! ここは大人しく隠れましょう……。ねっ……! ねっ!」
リリーの声はパニックに近かった。その刹那。
――ガッシャーン
窓ガラスが割れる音と共に、室内に死白色の人影が入り込んできた。窓を突き破った死者は、身体に突き刺さるガラス片など気にも留めず、ゆっくりと身体を起こすと、幼気な少女を白く濁った瞳で睨み付け、ズカズカと壁際に追い詰めた。
「駄目っ……。来ないで……。来ないでッ!!」
リリーの戸惑いは既に脅えに変わっていた。そんな危機の迫る少女を見て、トールは死者の進路を塞ぐようにリリーの前に勇躍し、腕を振り払った。逃げ場を失っていたリリーは、トールの頑な戦う意志を感じ取り、胸の奥に迫る恐怖を押し殺して口を開いた。
「どうしましょう。トールさん」
トールは言葉を発することができない。その代わり、全身を使ってリリーに指示を送る。彼の透明な体がフワフワと揺れる中、丸太を思わせる力強い腕を天井に掲げる。そして、その腕を正面に振り下ろし、手の甲を死者に突き出した。切迫した状況の中、この連なるジェスチャーの意味を、リリーは即座に理解すると、小さな袋の中からとっさにあるものを取り出した。
それはアレックスから緊急時のためにと渡されていた黒い道化師のカードだった。
「私の力じゃ、数秒しか持ちませんよ。トールさん。準備はいいですね」
リリーの声に振り向きトールは静かに頷いた。
「黒く道化師よ!! 死者と戯れるジョーカーよ!! 私に力を貸してください。『――スート・オブ・ネクロ Ⅲ インスタントリザレクション――』」
リリーの細い手が黒いカードを二本の指で摘むように持ち上げ、彼女の声が甲高く部屋に響いた。力強い言葉とともに、リリーは迫り来る死者にカードの絵柄を向ける。
道化師の描かれたカードの表面に赤々とした火が走り始め、狂おしい速さで絵柄を変化させていく。火の舞う軌跡が織りなす新しい絵柄は、一瞬のうちにカードの全体を覆いつくした。
そして、その神秘的な光景に同調するかのように、トールの透き通った身体が徐々に色を取り戻し始めた。トールが部屋の空気を震わし実態を持って現われたのだ。
血肉に飢えた死者は、突如として現れた障害物に混乱し、首を不自然に傾げる。しかし、トールはそんな相手に対して一切の躊躇や迷いを見せず、苦悩に傾く首をへし折る勢いで死者の胸部に巨大な拳を突き入れたのだ。
その一撃は、大気を潰すような轟音と共に炸裂し、その唸りは猛り狂う炎のように荒々しく、過ぎ去る旋風のように鋭かった。吹き荒れる憤怒が死者の細い体躯を突き飛ばし、部屋の壁に激突させる。その威力はあまりにも凄まじく、石灰色の壁に無数の亀裂を作っていた。
「今一度の生還に、礼を言うぞリリー」
「流石ですトールさん。相変わらず豪胆なんですね」
「ガッ、ハッハッ。人の性など、死しても治らぬわッ!!」
生き返った。だがこれは、あくまでもマジェスフィアの能力だ、本当に肉体を取り戻したわけではない。この力は使った直後に消え去る、一瞬の奇跡に過ぎないのだ。その事を二人は痛いほど理解している。この一瞬、この一秒にすべてを賭け、トールはリリーの呼び込んだ奇跡に応えるべく壁に横たわるジョーカー目掛けて獰猛な突進を開始した。
蠢く死者もまた、倒れているばかりではない。荒れ狂う巨体の追撃を躱すべく、死者は直ぐさま飛び起き、真横へ飛ぶ。だがその逃げる姿を冷徹な視線で見詰め、トールはほくそ笑んだ。
「フン。魂のない抜け殻というものはこうもつまらぬものか!! 動きが単調だな。貴公はッ!!」
トールの怒声に呼応するように、死者の膝がガクンと崩れた。猛獣のような突進、振り下ろした蹴りの一撃が膝の砕き、蠢く死者は両膝をついて頭を下げた。降伏する戦士のような、無防備な姿勢、完全なる不可抗力、だがそれは、二人にとって圧倒的な好機だった。
トールは跪く死者を見下ろし、もう一度、ニヤリと獰猛な微笑みを浮かべると、冷酷に、残忍に、自身の片足を振り上げる。そして、熊の前足を思わせるほどの巨大な爪先が死者の胴体に突き刺さった直後、木製の厚板をカチ割るような痛烈な破壊音と共に、蠢く死者はふんわりとした放物線を描いて、入ってきた窓から外へと突き抜けた。
そんな死者の姿をみて、リリーは胸に手をあて、安堵する。
「あぁ、良かった。一時はどうなるかと思いました」
「ヌン。案ずるにはまだ早いぞリリー。あの死者、まだ動いておるわ」
「えっ!! ならッ――」
――止めを打って!!
リリーが口にしようとした言葉は、トールの姿が微かに色を失い始めるのを見て、急に途切れた。
「数秒という時間の何とも短い事か。あの世で仲間達が呼んでおるのだ。帰らねばならない。だが忘れるな! ちっこい主に呼ばれたならばまた顔を見せよう――」
色が徐々に褪せていく自身の身体をぼんやりと眺めながら、トールは最後にほんのりと微笑み、小さく手を振った。その姿は、朝の霧が晴れていくかのように、次第に透明になり、消えていった。リリーはその光景に目を奪われ、心の中でふと湧き上がる孤独感に打たれた。かつて力強く存在していたトールの姿が、今はもう、どこにも見えないのだ。
「トールさん。ごめんなさい、私に……。力がないばっかりに……」
自分自身を責めるような言葉をつぶやきながら、リリーは客室の床にへたり込んだ。何よりも信頼していた友人トールがもうこの世にはいないという事実は幼い少女にとって深いショックを与えていた。黒き『ジョーカー』のカードは魂を具現化する。そのカードを使ったことでトールの死を否応なく受け入れざるを得なかったのだ。
心臓は不安で早鐘を打ち、乱れる呼吸に苦しみつつも、リリーは壁に手をついて立ち上がった。
――まだ終わっていない。終わりじゃない。あの死者を放っておいたら、他の誰かに危害が及ぶかもしれない。
リリーは、そう心の中で呟きながら、自分を奮い立たせた。
トールの放った猛攻は、蠢く死者に確かにダメージを与えていた。マジェスフィアにより強化された死者に止めを刺すには今しかない。
蠢く死者を追い詰めようとする意志とは裏腹に、自身が逆に追い詰められている恐怖に心の奥底で震えながら、リリーは四角窓へと一歩一歩、確かに近づいていった。窓枠から突き出たガラス片の中で、一際鋭く輝く一片がリリーの眼に映り込む。リリーは恐怖と緊張を押しのけ、その一片を掴むと、力強く引き抜いた。
次に、視線を庭園に向けたリリー。直後、這うように地面にへばりついて蠢く死者の姿が視界に飛び込んだ。折れ曲がった腕をぎこちなく動かし、公邸を目指して迫っている。無数のガラスが乱杭のように突き刺さり、靱帯の切れた足を地面に突き刺して転ぶ様子は陸で跳ねる魚のようだった。凄惨という言葉が似合う光景だが、新鮮な血肉を求める執念からか、死者は導火線を進む火のようにジリジリと確実に距離を縮めていた。
リリーは思わず「酷い」と呟いてしまった。迫り来る不吉から視線をそらしたかったが、それは同時に死を意味する。だから、リリーは死者にガラス片を突き立てる覚悟を固めようとしていた。だが、覚悟はきまらず、錯乱と重圧、そして何よりも思うように身体が動かない焦燥感が彼女を苛んだ。
青ざめた表情で、リリーは窓から数歩、靴を擦るように後ずさりした。そのとき、血の気のない白い腕が鞭のようにしなり、窓のヘリを掴んだ。死者の目の前に立つリリーの心臓は、恐怖と緊張で高鳴りを増していった。
「いやッ……。いや、来ないで……。お願い、お願いだから……」
蛇のように身体をくねらせ、四角窓を登り始める死者。窓に残るガラス片で死白色の身体を切り裂くが、その傷に気を留める様子は一切ない。死者が身体を半分窓に乗り上げた瞬間、それは起こった。
一閃。蒼天の輝きが死者の胴体に反射し、一度だけ美しいアーチを描いて静かに消えた。次の瞬間、死者は操り糸が切れた傀儡のように動きを止め、上半身が客間の床に転げ落ちる。そしてもう半身はズルリと庭園に崩れ落ちた。
目の前で真っ二つになる死体に寒気を覚えつつも、リリーは混乱する思考の中で起きたことを理解しようとした。しかし、リリーが「助かった」という答えを導き出すよりも早く、死者を真っ二つにした張本人が四角窓に顔を現し、ケロッとした表情でリリーに声をかけたのだ。
「大丈夫? リリー!」
「だっ……。旦那さまっ……」
「『ディ・アブロ』に操られた死者がこんな所にまで来てるとは思わなかったよ」
「だっ……だんりゃしゃま……わらぁしっ……」
「……!!」
――ドタン
リリーはアレックスの顔を見つけ安心したのだろう、頭のてっぺんから湯気をだしそうなくらい顔を赤くし、ヘロヘロになる言葉と共に床に倒れてしまった。
**
そこは、猫のぬいぐるみが並ぶ小さな部屋だった。
色の無いステンドグラスの窓、木製のベッド、そして丸いテーブルに椅子一式。特徴のない内装の室内で、毛布にくるまりうなされるリリーの側で、アレックスは心配そうに彼女の様子を窺った。
「旦那様……。ここは……?」
「キミの部屋だよ。」
ベッドに横たわるリリーを見詰め、アレックスは少し恥ずかしそうに答える。
「トールさん……。犯人じゃなかったですよ」
「うん」
「私。せっかくリストを見つけたのに、トールさんを……。引き留めることが出来なくって……。ごめんなさい……。トールさんがいれば犯人が誰かすぐわかったのに。こんなんじゃ……。意味ないのに……」
「そんなことはないよ。キミが探し出してくれたリストのおかげでだれが犯人か、だいたいの目星がついたから」
「えっ……!?」
アレックスの言葉にリリーが驚く。しかし、アレックスはリリーの額に手を置き彼女のぬくもりを感じ取ると、それ以上の言葉を追加しなかった。極度の緊張に加えて疲労が重なり、リリーが高熱を出していることがわかったからだ。だからアレックスは、これ以上の説明はリリーにとって酷だろうと感じたのだ。
「キミは早く身体を治しなよ。僕が夜明けを取り戻してくるから」
アレックスの声は淡泊だったが、その震える拳に握られた二枚のカードは、固い鉱石で作られていなければ握りつぶされていたことだろう。その手の中に宿る力強い意志が、リリーの心にも伝わっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます