すり替え

 ベイカーは倉庫の扉をそっと開け、中を慎重に覗いた。まだ到着を待つ馬車の姿は見えず、搬入作業も始まっていなかった。倉庫の奥で、魔鉱機士であるトールが座り込み、壊れた荷車を無言で凝視していた。その骨太の体躯とは裏腹に、彼の顔には、想像もつかないような感傷的な表情が浮かんでいた。


 この表情には深い意味があった。荷車の壊れた車輪は、彼の任務への遅れを象徴し、彼のプロフェッショナルとしての誇りを深く傷つけていたのだ。一日の遅れは、彼にとっては大いなる失敗に等しく、その失敗がトールの心に突き刺さっていた。

 そんな、大男に近寄るものはなく、ベイカーの同僚たちは、倉庫のどこか隠れた場所で休憩しているらしい。微かだが、倉庫の中で響き渡るその声が、同僚たちの気配を伝えていた。


 ベイカーはトールの背後から、倉庫の中へと足を踏み入れる。倉庫の中は薄暗く、入り組んだ通路には光と影が交互に現れ、時折、窓から差し込む日光が奥行きを感じさせる。ベイカーの目的は、この場で『ソフィアのチョコレート工房』と書かれた木箱と『ディ・アブロ』が収められた木箱とのすり替え。しかしその作業は、トールの存在によって困難を極めていた。


 今この場で、荷車に近づけば、このお男は何をするかわからない。休憩による、持ち場の離脱、あるいはうたた寝を期待したが、もの後はそううまく運ぶわけはないのだ。ベイカーの胸の中で不安と焦りが交錯する中、彼は夜になるのを待つことも考え始めた。幸い、荷積みが完了しても、馬車は翌朝までこの倉庫で待機することになっている。この様子だと、トールはこのまま、この場所を離れないだろう。


 しかし、それでもトールは人間。いつかは寝るかもしれない。そうなれば、暗闇の中で、月明かりだけを頼りに作業を進めることも可能ではないか。そう期待するベイカーの瞳は、時折トールの方に向かい、彼の動きを探った。


と、そんな時だった。


 微かに聞こえてきた鈴の音が、ふと彼の耳に飛び込んできた。鋭く響くその音は、どこか驚々しい気配を感じさせ、ベイカーの心を掴んだ。彼の思考は、一瞬、その鈴の音に引きずり込まれ、時の流れを忘れさせた。しかし、その音に気を取られている間に、突如、離れた場所で聞こえていた会話が急に荒々しく変わったのだ。


 倉庫の隅で、いくつかの荷物が倒れ、ガラスが割れる音が響いた。声が高くなり、激しい非難の言葉が飛び交う。倉庫中に響き渡るその音に、トールの目は瞬く間に鋭くなり、彼は直ぐにその場から立ち上がると、倉庫内を揺るがせるように動いた。

「ぬぅ……。愚か者共が、異端審問など後にしろとあれほど言ったというのに。おいッ!! 貴公ッ!! この場の見張りは任せる。我は喧嘩の仲裁に向かう」

「はっ!? えっ!? 私に言っているのですか?」

「貴公以外に誰がいるというのだ」

「荷車を見張っていなくてよろしいのですか?」

「非常にむしゃくしゃしておるのだ。楽しみもなければやってられん。荷車に近づくものがいないかちゃんと見張っておるのだぞ。任せたからなッ」

 トールは、ベイカーが『ディ・アブロ』を狙う者だなどと、頭の片隅にもないようだ。喧嘩の仲裁に向かうトールの眼光こそ鋭かったが、その口元には、微かな綻びが見えた。この荷車の監視から逃れることができる、ほんの少しの自由時間を見つけたような顔だった。トールは大きな足取りで倉庫の奥へ進んでいき、入り組んだ通路を曲がると、ベイカーの視界から消えた。

 

 その姿を、視界に捉えていたベイカーは、しばらく呆然と立ち尽くした後、自分の胸の高鳴りを感じながら、荷車の方へと歩み始めた。とうとう訪れた好機。彼の手が震え、足取りもふらつくが、決意は揺るがなかった。

 彼の目の前に広がるのは、彼自身が仕掛けた罠によって壊れた荷車と、その上に乱雑に積み上げられた荷物の山だった。片方の車輪が砕け落ちた荷車の様子は、予想を遥かに超える混沌とした状態だったが、ベイカーの心には揺るぎない確信があった。目的の箱は、荷車の奥に置かれていたはずだ。


 ベイカーの手は静かに、しかし確実に荷物をあさり始めた。時折、耳を澄ませて周囲の気配を察しながら、彼は一つ一つの箱を退けていく。そして、ついに目的の箱を見つけた時、ベイカーの心臓は一瞬の静寂に包まれた。長い準備と計画の結果、夢にまで見たその箱を手に持っているのだ。

 ベイカーはすぐさま、木箱の蓋をそっとずらし、その中身を露わにすると、ベイカーの瞳は箱の中に静かに横たわっていた紫色のハンドベルに引き寄せられた。そのハンドベルには、蝙蝠のような羽を広げ、戦いの勢いを感じさせる雄牛の力強い彫刻が緻密に施されており、彫刻は細部にわたって精緻に作られ、その線は優雅に流れるように繋がっていた。その美しい造形が微かな陽光に照らされると、まるで生命を宿しているかのような神秘的な輝きを放ち、空間に柔らかな光と影を描いた。


 ――確か、マシュー刑事部長はディアブロが鈴と言っていたか。ならば、このハンドベルが『ディ・アブロ』で間違いないのだろう。


 ベイカーは悪魔を象る彫刻に一瞬、畏敬の念を感じたが、すぐさま冷静さを取り戻し、自身が用意した箱とすり替えようと動いた。気が付けば周囲は静まり返っており、彼の思考はより鮮明に澄み渡っていく。


 ――さっきまでの喧騒は何処へいったのだ


 そう思考が廻った直後、ベイカーの心は一瞬で警戒に切り替わった。倉庫の深い闇の中から微かに聞こえる笑い声、そしてずかずかと近づいてくる重厚な足音。それは、非常にまずい状況を告げていた。時間がない。この場所からすぐにでも離れなければ。

 そう考えながら、ベイカーは荷車から素早く一歩、二歩後ずさった。彼の心は高鳴りを隠せず、息も荒くなっていた。そのとき、倉庫の曲がり角から人々の影が現れた。先頭に立つトールの姿が目に入り、背後には大勢の人々が続いている。それは、トールがベイカーの同僚たちを引き連れて戻ってきたことの明確な証だった。

「貴公。見張りをお願いしたが、そんな近づいて見張らなくても良いのだぞ」

「ははっ、お早いお戻りで。さすがトール殿ともなれば、仲裁の手腕も見事なものですね」

「ふん……。この愚か者共か。我の顔が視界に入った途端に、争いごとをやめよって。興覚めだ」

「流石です。では私は。これで」

 そう言って、ベイカーはまた一歩、後ずさりをする。その正面では、トールが乱雑に積み上げられた荷物を見つめていた。

「しばし待たれよ」

 そう言って、トールは荷車の中から『ソフィアのチョコレート工房』と書かれた木箱をゆっくりと取り上げると、徐にその蓋を開けた。その動作の一つ一つが、ベイカーの心臓を強くたたきつけるようで、息を呑んで見守るしかなかった。

「むぅ、確かに『ディ・アブロ』だ。見張りご苦労だった」

 ベイカーの警戒心がピークに達し、この場でのすり替えを断念させたのだ。つまり、トールが握りしめている箱の中には、正真正銘の『ディ・アブロ』が眠っている。計画は振り出しに戻ったかに思えたが、ベイカーの耳にはとある予兆が届いていた。それは遠くから聞こえてくる馬の蹄鳴り、荷車を引く足音が、確実にこの倉庫へと向かってくる音だった。


 賭けに出るのなら、この瞬間しかない。そう感じたベイカーの目は、倉庫の入口に引き付けられた。開け放たれた入り口から、進みくる荷馬車が姿を現した時、ベイカーの同僚の一人が力を込めて声を張り上げた。

「荷積みだぁッ!!」

 その号令の後、男たちの声が一斉に響き渡り、壊れた荷車の荷物を軽快に動かし始めた。空気には何とも言えぬ安堵感が満ち、鬱屈とした緊張が解けるかのような一体感が生まれていた。

「あっ、トール殿、その箱は私が、あの荷車まで運んでいきますよ。トール殿はそのガタイに似合った、重たい荷物をお願いします」

 悪魔は巧妙に語りかける。人の心の隙間は、安堵感に満ちた時にこそ、最も大きく広がるものなのだ。

「あぁ、わかった。慎重に運ぶのだぞ」

 トールの巨大な手から、ベイカーに小さな木箱が渡された。その瞬間、ベイカーの心の奥でひそかな笑みが芽生えた。ベイカーはトールの視線を逸らすため、自然な動作で身をひねり、トールに背中を向けると、先ほど到着したばかりの荷馬車へと歩いていく。そんなベイカーの後ろ姿をトールはじっと見つめていた。トールはベイカーが同じ木箱を持っているなど夢にも思っていなかったのだろう。ベイカーの手元で巧妙にすり替えられた『ソフィアのチョコレート工房』と書かれた木箱は、代わりの馬車に積み込まれ、ベイカーは『ディ・アブロ』の入った木箱を服のたるみに巧みに隠すと、ゆっくりと息を整えた。


 ベイカーの目的は達成された。悪魔を手に入れるという目的は――

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