木箱

 太陽が西へと傾き始め、街の通りに長い影を投げかけていた。通りの両側には低い石造りの建物が並び、その隙間からはさらなる石畳の路地が入り組んでいた。ベイカーは息を整えながら、この複雑な迷路のような倉庫街を疾走していた。

 彼の革製のブーツが地面と激しく擦れる音が、午前から午後へと変わりつつある街の中で反響する。その足音を耳に留めつつも、ベイカーは一つの名称を魔法のように心の中で繰り返し唱えていた。「ソフィアのチョコレート工房」と。その名前は倉庫で目にした焼印から引き出したもので、同じ銘柄のチョコレートが入った木箱を見つけることができれば、『ディ・アブロ』を収めた箱と摺り替えることができるかもしれない。その考えだけが彼を走らせていた。


 あまりにも急な方針転換だったが、ベイカーは冷静さを保っていた。いくらマシュー刑事部長が代わりの馬車を手配したと言っても、時間は無限ではない。数時間後には馬車の荷物の整理が再開される。その前に『ディ・アブロ』が収められている箱と同じ外観の箱を見つけ出さなければならない。そうでなければ、計画は成立しなくなってしまう。


 だが、その木箱が問題だった。この街ではチョコレートが幻のような贅沢品だったからだ。遠い異国の港から船で運ばれるカカオ豆は、長い時間と高いコストがかかり、その貴重な素材がまずファントムウッズのような僻地に運び込まれることはない。港街からファントムウッズまでの距離も関係しているだろう、わざわざ貴重な素材を腐らせるような博打を商人は打たない。それなら加工して輸送するものだが、そんな高級菓子は、せいぜい大陸横断鉄道に乗せられて、数か月に十数箱のみ。それをこの広い市街で見つけ出さなければならないのだ。


 倉庫街の厳しい空気から解放され、ベイカーは商店街へと足を運んだ。警官としての職務で日々見回りを行っていたこの地域は、彼にとって慣れ親しんだ場所であった。


 商店街の石畳の道には、様々な店舗が並んでいた。食料品店、衣料品店、雑貨屋など、この僻地での生活に必要な品々が揃っていた。だが、ベイカーの求めているものは、この地で見つけるのが困難なものだった。『ソフィアのチョコレート工房』の木箱は、ここで見つかるだろうか。


 足を止める余裕もなく、店舗を片っ端からのぞき込むベイカー。彼はチョコレートのような高級品なら店内の目立つところに置いてあるため、外からでも確認できると思ったからだ。しかし、それでも見つからず、焦りが彼の心を支配し始めた。

 だが、そんな時だった。商店街の端に、ひときわ目を引くスイーツショップが現れたのだ。店先には、カラフルなケーキやキャンディ、美味しそうなプディングなど、様々な甘い香りが漂っていた。しかし、その中にも『ソフィアのチョコレート工房』の木箱は見当たらなかった。

 ベイカーは失望と焦りを押し殺し、足をスイーツショップに向けた。最後の店だ。ここで見つからなければ、計画は水泡に帰す。彼は外から店内を見つめると、一呼吸おいて、重い足取りで店の扉を開けた。

 スイーツショップに入った瞬間、ベイカーの鼻を甘い香りがくすぐり、期待感と高揚感が高った。ベイカーは店内に並べられたお菓子の美しさに目を奪われた、だが目的はこんなものではないのだ。ベイカーはすぐさま店のカウンターに向かい、スイーツショップの店員に声をかける。

「お尋ねしたのですが。もしかして、こちらに『ソフィアのチョコレート』を置いていたりしませんか?」

 ベイカーがその言葉を発した瞬間、店員の顔には驚きが浮かび、しばらくの沈黙が続いた。その後、彼女はベイカーに微笑みかけ、ゆっくりと頷いた。

「申し訳ありません。当店では輸入品は扱っていないのです。でもオズワルドさんの雑貨店ならあるかもしれませんね」

 ベイカーの心に一筋の光明が差し込んだ。

「ほら、この街の市長ってまだ幼いじゃないですか。オズワルドさんのお店には市長がよく訪れるから、珍しいお菓子とかを置いていたりするんですよ」

「そっ、それで、そのオズワルドさんという方のお店はどこにあるのですか?」

 期待と不安が交じり合うような声でベイカーは店員に尋ねた。


 店員の女性は購買意図のないベイカーに対しても、優しく微笑みながら店の外を指し示す。

「このお店の向かい側にある路地をまっすぐ行って、突き当りを左に曲がった先ですよ。隠れ家のような場所にありますから、少し見つけにくいかもしれませんね。二階に酒場の看板が掲げられているので目印にするといいですよ。その一階が雑貨店になりますから」


 ベイカーは店員に感謝の言葉を述べ、スイーツショップを後にした。それから、無我夢中で向かい側の路地に入り、店員の言葉を思い出しながら道を進んだ。突き当りを左に曲がると、確かに商店らしき建物が目に入った。

「こんな場所に、こんな店が…」ファントムウッズに来てから1年半。初めて目にするこの店に、ベイカーは驚きと興味を抱いた。

 確かに隠れ家のようなお店だ、二階の酒場の看板は目立っていたが、一階部分には看板らしいものが見当たらなかった。あらかじめ紹介されなければ、この半地下の隠れ家のような空間が雑貨店であるとは、容易には気づかないだろう。

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