荷積み
朝焼けが照らし出すファントムウッズ北部のとある倉庫。建物の内部はまだ冷たい空気に覆われていた。木製の大扉が開け放たれ、そこから一縷の日光が差し込んできた。倉庫の中はさまざまな物資が無秩序に積み上げられ、その中を私服を着た人たちが忙しく動き回っていた。
むろんベイカーもその中に居た。
周囲の仲間達に気を配りながら、慎重い作業に従事する。彼の目的、それは『ディ・アブロ』の存在をこの目で確かめることだった。
そんなベイカーの目が前方の大男を捉える。倉庫の中に居る人々の中でも一際目立つ存在がトールだった。
彼は大柄な体躯を持つ男で、周りの警官たちと比べても頭一つ分ほど背が高く、肩幅も広かった。本来ならばその体躯をさらに巨大に見せる銀色の甲冑を身にまとっているが、この日は周りの警官同様に身分を隠さなければならないため、私服を着ていたのだ。彼の私服はいたってシンプルだった。黒のコートにダークブラウンのズボン、そしてコートの奥に着た白いシャツの上には皮の胸当てが隠されていた。
トールは度々壁掛け時計に目をやっていた。無理もない。たとえ機士の要請といえども、大陸横断鉄道の発車時刻は変わらないのだ。そんな中、ぼやくような声がベイカーの耳へと届く。
「ランディスの心配性にも困ったものだ…。偽装などせずに、我が直接運べばよいのだ……」
トールは純粋で豪胆な男だ。彼の言葉一つ一つが、彼の強さと自信を如実に表していた。
いったいどれだけの死線を潜り抜ければあんな性格でいられるようになるのだろうか。それとも元々の性格がそうさせたのか……。
ベイカーはトールという男を分析しながら、自身が肩に担ぐ木箱を荷馬車へと積み込んだ。
『ディ・アブロ』はこの荷台に積まれている。その話は本当だろうか?
そもそも、この輸送作戦事態がおとり作業なのではないか、ベイカーの頭の中を一抹の不安がよぎった時だった。ベイカーの目が一つの特異な木箱に留まったのだ。倉庫の中には大きな木箱がほとんどで、その多くは重さを感じさせる大きさだったが、その中に一つだけ小さい木箱が積み込まれていたのだ。
そして、木箱に焼き印が施されていた。
「あれっ、なんだこれは。ソフィアのチョコレート工房? チョコレートか?」
ベイカーは単純な好奇心でその木箱へ手を伸ばし、軽く持ち上げた。その瞬間、微かながらも鈴の音が箱の中から聞こえてきたのだ。それは、寂静な森の中で聞こえてくる一筋の風の音のように、周囲の雑音とは一線を画すほど、心地よい音色だった。
「おい、その箱に触るな!」
すぐさま、トールの厳しい声が響き渡った。その言葉にベイカーは一瞬戸惑った。しかし、その鈴の音を聞いた瞬間、思い出したのだ。マシューが『ディ・アブロ』は鈴だと語っていたことを。あの木箱の中に『ディ・アブロ』が入っているに違いない。
それからのベイカーの行動は、彼がこれまで培ってきた勤勉で公平な警官としての立場を根底から覆すものだった。彼の視界はその小さな木箱と、その中から鳴り響く微細な鈴の音に完全に奪われ、周囲の人々や作業の進行、そして時計の針の進む音すらも彼には聞こえなくなっていた。
――どんな方法を使ってでも、この『ディ・アブロ』を手に入れてやる。
ベイカーがそう決意してから、時間はそう立たなかった。
馬車に最後の荷物が積み込まれたのだ。その瞬間から、人々の足音が一段と速くなり、周囲の空気は緊張感に包まれた。
「トールさん、全ての準備が整いました。いつでも出発できます」
車夫に扮した警官の一人がトールに声をかけると、その報告を受けて、トールは深くうなずいた。
「うむ、わかった。駅で迎えの機士が待機しているゆえ、すぐにでも出発だ」
トールは力強くそう言い放つと、自分の巨体を馬車に乗せ、馬の手綱を握りしめた。車夫に扮しているとはいえ、まるで馬車がミニチュアのようだったが、そんなことを気にする者はいない。そして、馬車は倉庫の開け放たれた扉の方へゆっくりと動き出した。
しかし、その出発も束の間、地面と金属が擦れるような音と共に、馬車の荷台が崩れ落ちてしまったのだ。突然の出来事に驚いた馬が暴れ始め、馬車は激しく揺れ動いた。このままでは倉庫に居る人々に危険が及ぶと感じたのだろう、トールは馬車の馬を制するために自身の剛腕を振るった。
馬はトールの力によって静まり、トールは崩れ落ちた荷台の方へと目をやった。そこには、四本ある車輪の内の一本が地面に転がり落ちていた。トールはすぐさま馬車から飛び降りると、ズンズンと崩れ落ちた荷台の方へ駆け寄り、荷台の傍に佇む警官へ声をかける。ベイカーへと。
「これは、いったい何事か」
ベイカーは周囲の混乱を内心で満足げに眺めていた。この事態を予見していたからだ。だが、自らの企みを隠すために、とぼけた表情を浮かべてトールへと答を返す。
「あちゃー、荷物を積み込み過ぎたんですかね。積載量オーバーじゃないですか」
その答えを聞いたトールの目には、明らかな怒りが広がっていた。
「こんなふざけた茶番などもう辞めだ。我が直接『ディ・アブロ』を持っていってくれるわ」
猛獣のような怒号が倉庫の中で響き渡った。そんな怒号の背後から、靴音が迫る。トールはその靴音に気が付き、ゆっくりと振り返った。そこには、マシュー刑事部長の冷ややかな姿があった。マシューは鋭い視線でトールを見つめ、静かに口を開く。
「勝手なことをされては困りますよトール殿。これは市とマジェスフィア協会との取り決めです。トール殿はランディス支部長の顔に泥を塗るつもりかな」
「……ぬん」
その言葉に、トールは一瞬言葉を失ったが、しかし、彼の目は依然として怒りに満ちていた。そして、トールは力強くマシューを問い詰める。
「いつだ?」
トールの語気に押されて、マシューは壊れた馬車の方へ視線を移した。だが、壊れた馬車を見つめるだけでマシューは何も答えなかった。トールは待ちきれなくなり、さらに声を張り上げてマシューを問い詰める。
「何時だと聞いておるのだ!!」
その言葉を聞いて、マシューは深いため息をつくと、ゆっくりと口を開いた。
「残念ながら、1日は待っていただかなければ」
「なぜだ!!」
「トール殿、時計を見ていただきたい。代わりの馬車を用意するのに半日。ですが、この辺境の地に止まる機関車は日に一本なのです」
マシューの言葉に、トールの表情が一変した。その巨大な体が一瞬だけ硬直し、その後に続いたのは足元から地響きを起こすような音だった。彼の怒りが地面に伝わり、倉庫の中にまで響いていた。それはまるで、大地に雷鳴が落ちたかのような、重厚で力強い音だった。トールが地団太を踏んでいたのだ。
「ならば明日まで駅で待機だ――」
「――急ぐ気持ちはわかりますが、偽装なのですよね。そんな大荷物を持って駅で待機するのですか? 光に吸い寄せられる羽虫の如く野党が群がってきますよ。あなたもご存じですよね? 浮浪者ばかりが集まるこの都市の惨状を。そんなことをしてしまっては、偽装の意味がないのでは?」
マシューのその言葉を聞いて、トールは観念したのだろう。切り倒された巨木のように、その場に腰を落とし、地面に胡坐をかいた。彼の大きな手が地面につき、その頭はニガニガしい表情とともに、下を向いていた。
「1日だ。1日だけ待ってやる」
トールのその言葉を聴いて、ベイカーは必死に笑いをこらえていた。不気味な笑みを手で隠す。だが、ベイカーの逆の手には、太いボルトが握られていた。それは、馬車の車輪と荷台とを接続するためのボルトに他ならなかった。
ベイカーは荷積みのさい、気が付かれぬよう荷物で自身の体を隠し、車輪を接続するためのボルトを素早く1本取り外していたのだ。
この時からだろう。ベイカーは既に悪魔の鳴らす甘美な音色に魅了されていたのだ。
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