悪魔の噂

ファントムウッズ北部警察署の廊下を静かに歩いていたベイカー。周囲には照明の下で輝く白い壁と、遠くで鳴り響く電話の音、同僚たちの低い声が広がっていた。彼の足元は磨かれた床を踏みしめ、その先には心に重い石を抱えた男の目的地、上官の部屋が見えていた。

 ベイカーは妻と娘の墓参りに帰るため、有給休暇を申請しようとしていたのだ。しかし、彼の手が上官の部屋のドアをノックする寸前、部屋の中から男女の話声が聞こえてきた。

「どうも最近機士協会の連中があわただしくってね。明後日、相当危険なマジェスフィアを協会本部に送るらしい」

「え~、怖い。ほらグリードリバーで紛争起きたじゃない、彼らまだ懲りないんですね。あれも強力なマジェスフィアの奪い合いって話じゃないですか」

「ランディスとトールの会話を小耳にはさんだんだけどさ、どうやら『ディ・アブロ』ってい代物で、その鈴を鳴らせば死者を蘇らせることができるっていうんだ」

「えっ、それ本当ですか? もしかしてこの街で噂されている『ジョーカー』って――」

 気が付けばベイカーの手はドアを叩かず固まっていた。死者が蘇る、その言葉は彼の耳を通り過ぎて、心の奥深くに突き刺さった。なぜなら、ベイカーがこの街に来た理由、それは死別した妻と娘に再会するためだったからだ。


 ベイカーは部屋の中から漏れてくる会話に耳を傾けた。それは部屋の中の男が若い女性に対する語り口で、自身が責任を持つ重要な機密について語っているようだった。

「まぁ、キミだから教えちゃうんだけどさ。偽装工作をすることになったのよ。大陸横断鉄道まで危険物資の輸送となれば何があるかわからないからね。商人の馬車に化けて運ぼうってわけさ」

「それって、何か意味があるの?」

「やることに意味なんてないさ。魔鉱機士のトールが強引に運べばいい。あんな暴走機関車に近づく盗賊野党なんざ、いないさ」

「えっ、じゃあなんで?」

「ただ、我々警察部隊としては、部外者の機士協会に好き勝手してもらいたくないわけよ。それで上層部が動いてさ、偽装工作って運びになったわけ。まぁ、ああれだね。メンツってやつ。治安維持の本体は我々なんだっていう所を市政に見せつけたいのよ」

「へぇ……」

「たださぁ、中間で動いている俺としては困っちゃうよね。上は急に決めるんだから。人員をかき集めないといけない。まぁ、大半は馬車の積み荷なんだけどね」

 ベイカーはそこまで会話を聞き終えると、扉をノックした。

「あっ、誰か来たみたいよ」

 部屋の中から甲高い女性の声が廊下に響く。

「入れ」

 ベイカーは男の声を聴き終えると、先ほどノックしたドアを押して、部屋の中へ入った。部屋の中には、赤いドレスを着た女性がいた。一瞬ベイカーは女性に目を移し、そして前方の机に座す男の方を向いた。

「マシュー刑事部長殿。この度はお願いがあってまいりました」

「すまないね、ベイカー君。ちょっと取り調べをしていたんだ。でも大丈夫だ、丁度終わったところだからさ」

 そう言って、マシュー刑事部長は魅力的な笑みを浮かべた。


 マシュー刑事部長はナンパな男だった。彼のオフィスはいつも女性の香りが漂っており、時折、彼の部屋を訪れる女性たちがその香りの主だった。彼の髪はいつも完璧に整っており、そのスーツは洗練された風味を醸し出していた。およそ、警察幹部とは思えない身なり。だが、彼の口調は滑らかで、その笑顔は誰もが心を奪われるものだった。この魅力的な笑顔が、業務時間内にオフィスへ女性を呼び込む要因となっていた。


 そんな自堕落な男マシューは、部下であるベイカーを部屋に招き入れた時から、スイッチを入れ替えた電球のように急に鋭い表情に変えると、傍らに立つ赤いドレスの女性に向かって手で合図を送る。女性はマシューの合図を見て、何も言わず足早に部屋を静かに出て行った。

 ベイカーの背中の向こうで、部屋のドアが静かに閉まる音が響く。

「さて、私の取り調べを邪魔するほどの願いとは何だね、ベイカー君」

 有給の申請書類を後ろ手に隠し、握りしめる。ベイカーはマシューを前に迷っていた。慎重にそして、確実にことを進めなければならない。

 そして、思考を巡らせた結果、でた言葉は、当初の予定とは真逆な言葉だった。

「折り入って、お願いがあってまいりました。みんな噂しております」

「何の噂だ?」

「名前まではわかりませんが、危険なマジェスフィアの運搬作業の話であります」

 ベイカーは、あくまでも噂を聞いたという体裁を保つため、『ディ・アブロ』の名前を伏せてそう言った。

 マシューは、ベイカーのその言葉を聞いて、一瞬驚いたような表情を見せた。自身の軽口がこれほどまで、噂を広げていたとは。

「その運搬作業、私も参加させていただけないでしょうか?」

「ベイカー君、いいのかい? マジェスフィアはとっても危険なものだ。それこそ、機士を見れば襲ってくる輩も少なくない。マジェスフィアを手にいれればこの世の天下、そう考えているんだろう。この仕事が安全なものとはかぎらないよ?」

「危険は承知の上であります」

「まぁ、魔鉱機士と親睦を深めるいい機会だ。明日の朝7時に北部の倉庫街へ来るといい」

 マシューはそう言って、悪魔のような笑みを浮かべた

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