奈落の底
ファントムウッズの北東部に位置する郊外、この場所には取り壊しを待つ旧刑務所が建てられていた。それは煉瓦と鉄骨を組んで作り上げた三棟だけの小さな外見だったが、天を突くほどに聳え立つ灰色の外壁と、地下深くに張り巡らされた迷宮が蟻の巣のように広がっていた。
この迷宮は、無数の通路が複雑に絡み合っており、どの道を進んでも明るい日差しに出会うことはなかった。入口は特別に狭く作られ、一度その門をくぐれば、希望の光は見えなくなる。百年間の現役稼働中、一人の脱獄者も生まれなかったその堅固さは、死者の国の入口のように感じられた。
だが、それも過去の話。その堂々たる外壁は既に一足先に撤去されており、監獄の入口としての役割を果たしていた煉瓦建築の建物も、近い将来、取り壊される運命となっていたのだ。
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「おかしいなぁ。取り壊しは、年度末の予定なんだけど……」
アレックスがその場所に辿り着いた時。普段はあるはずの物が見あたらずに目を丸くした。
「それに、誰もいないし……」
そこに存在するべきだった3棟の廃墟は、奇異な雰囲気を纏い、他者を寄せ付けない静寂を放っていた。それは一見すると不気味だが、そうした特性が盗賊野党にとっては理想的な隠れ家と化していた。
それゆえ、アレックスはこの廃墟を一刻も早く取り除くことを望んでいた。それなのに、本来聳え立つはずの二棟は崩れ果て、溢れんばかりの瓦礫で大きな山を築き上げている。そして、唯一残った一棟も、重要な支えを失ったのだろう、不安定な状態で傾き、今にも倒れ落ちそうな危険な雰囲気を漂わせていたのだ。
明らかな戦闘の後にも関わらず、周囲に人の気配は無い。
――メディエット!! トール!!
2人の名を心の中で叫びつつ、アレックスは瓦礫の山を登った。そして、その先に広がる光景に足を止める。少し高い位置から見渡すことで初めて気が付く異変。アレックスは崖のように急激に切り落とされた地面に、ポッカリと開いた巨大な穴の存在を確認したのだ。
「うそっ!! なんでこんなことになっているのさ。瓦礫の撤去だけでも、大変なのに……。大穴をふさぐ予算を新たに用意しないとダメじゃないか!!」
方向のない怒りを吐き出しながら、大穴の深さを確認するべく足を踏み出す。
――その刹那
重い衝撃がアレックスの身体を包みこんだ。
「――ッ!!」
それは、急襲という言葉がよく当てはまる。壊れかけの一棟から突如として吹き出した烈風が、アレックスの小さな身体を空高く押し上げたのだ。そして、瓦礫と共にクルクルと回り。瓦礫と共に降下する。グシャッリと鈍い音を立ててアレックスは赤煉瓦の海に背中を打ち付けた。何が起きたのか分からず苦悶んの表情を浮かべるアレックスの瞳に、巨大な鉄槌を抱えたトールの姿が映り込む。
「……のこのこと。……アレックス。機士でもないキサマが……。1人でこの場所まで来ようとはな……。」
「……ト……。ル……」
背中を打ちつけた影響で呼吸が苦しくなっていた。しかし、ただ空を見上げているだけでは無残に殺されるだけ。アレックスは残った全ての力を腕に集中させ、地面を突いて立ち上がった。
「ケッ、立ち上がるか……。もう少し大穴の近くにいれば、メディエットと同じ運命をたどれたものを」
「メディエットが……。そうか……。あいつは死んだのか……。後が怖そうだ……」
「……死んだだって? そのわりには悲しい表情を見せないじゃないか? おまえ……。笑っているのか?」
トールの言葉を聞いて、アレックスは含みのある表情を硬く引き締めた。確かに個人的な感情はなかった。むしろ不満や苛立ちを抱えている時間の方が長かった。しかし、メディエットの名前を聞いた瞬間、確かな悲しみが湧き上がっていた。
静かな怒りに揺らぐアレックスの心を打ち砕かんと、顔面に巻かれた包帯の帯を風に漂わせながらトールは容赦無く戦鎚を振り下ろした。
――ガチン
拳銃の撃鉄が落ちるような音は虚空を彷徨い、トールは前方のアレックスを睨みつける。
「トリガーを引いたのかい? トール、君らしくないじゃないか。盟友『クロンダイク』の使い方を知らないなんて」
アレックスは、蘇りつつある肺に息を吸い込み、前方の大男をまくし立てる。
「どうやら、今のキミじゃ『クロンダイク』のマジェスフィアは答えてくれないらしいね。いつもやっているじゃないか。ご自慢の障壁を作らないと、雷なんて落とせないよ――」
大きな掌が言葉を遮るように伸び、そのままアレックスの胸倉をつかむと、勢いよく小さな体を持ち上げる。突然に締めつけられた喉の感覚に、アレックスは咳き込みながら、足をジタバタさせて藻掻いた。
「雷で焼かなくったって良い……。お前もさっき見ただろう……そこの大穴を……。その大穴はなぁ……地下の独房まで続いている……。繋がるように砕いたんだ岩盤を。『ディ・アブロ』で作り出したジョーカーを管理する為になぁ……そして独房までは役十数メートルといったところだろう……。落ちれば唯では済まんぞ……」
アレックスを片手で持ち上げたままトールは鉄槌を引きずり、大穴目掛け歩いていく。その足音は堅く、そして重く、地面を揺らしながら確実に大穴までの距離を詰める。
「クッ……」
背後に迫る墓標を意識し、トールの分厚い腕を両手で掴むアレックスだったが尋常じゃない腕力になすすべはなかった。
――鋼かよこの腕は……。
トールの声が脅迫的に響く。その音色には隠しきれない興奮が混じっていた。アレックスが覗き込む先は、一見無限に続くかのような深淵、死を招く可能性を秘めた暗黒の断崖だった。無策で落ちれば無事では済まないだろう。
時間が刻々と迫り、その圧迫感の中で、アレックスは覚悟の表情を浮かべ、ふわりと両腕を落とした。
アレックスの余裕綽々な態度を見て、トールは疑問を隠さずにいられなかった。
「なんだぁ……。市長、もう諦めたのか?」
だがこの状況下で、今起きている事象を一番可笑しいと思ったのはアレックスの方だった。自身を殺そうと、トールを名乗るその男の声には、熱い吐息が漂っていた。それは、深い創傷から湧き出る熱が言葉を伴って吹き出ているかのようだった。覆面を剥げば、粗い呼吸の音まで聞こえてくるかもしれない。そんな相手を前に、アレックスは心の中で一抹の微笑を浮かべ、ズボンのポケットに手を滑り込ませた。そして、直下の大穴に落とさないよう慎重に、白いカードを引き抜き、見せつけた。
「なんだぁ……。そのカードは……。トランプのカードが今更何になるってんだ……。」
「……残念だなぁ、キミとボクの、思い出のカードだったのに。もう忘れちゃったのかい?」
内心の微笑がアレックスの全身を覆うように広がっていた。彼とトールは長い付き合いだ。自ずと、トールはこのトランプがマジェスフィアであることを知っている。だが、アレックスの前でトールを名乗る男は混乱した様子で、高価な鉱石で作られたトランプを不思議と見つめているのだ。
そして、その混乱は、悲しい一つの事実を物語っていた。本物のトールは既にこの世にいない。そんな事実に、アレックスは抑えきれない笑いを漏らし、次第にそれは大きな喜びへと変わっていった。
「フヒ! ハハッ! アッハッハッハッハッ――」
「何が可笑しい……? 死の間際でトチ狂ったとでもいうのか?」
「いやぁ。何が可笑しいって。それはさあ。一番の悩み事が解消されたらどんな人だって笑うだろ? 僕を掴んで奈落に叩き落そうとしているトールさんは、すでに死んでいて、傀儡にされているんだから」
「……!?」
「さっきから、クセの悪い口調で喋っているキミは、いったい誰なんだい」
そう言いながら、不気味に微笑むアレックスは、一瞬その笑みを止めるとトールの顔面を覆う包帯めがけ平手を押し込んだ。そして、包帯をその手に掴むと、力の許す限り引っ張る。ビリビリと音を立て赤黒い包帯は次第に裂け、やがて見えた髭の残る下顎、切り裂かれ左頬の傷は本来面皮に覆われているはずの奥歯を剥きだしにし、瞼からは死者特有の白い目がギラギラと光ていた。
目を背けたくなるような損傷だったが、アレックスはどこか安堵した表情を浮かべながら、トールの腹を力任せに蹴り飛ばした。その衝撃で巨体が揺れ、握りしめていた強靭な手がアレックスの襟元から離れた。
もはや支えるものはなく、アレックスは大穴へと落ちていった。
落ちていくさなか、アレックスは死してなお動く事を止めないトールの白い目を見つめた。狂気に踊る死者の眼を……。
大穴の底から、不気味な風がアレックスを包み込んでいた。
――結局メディエットには会えなかった。
アレックスは、地底に背中を向けていた体を翻す、そして何か捕まるものを求めた。だが、掴む場所を探しているうちに、地面迫ってくる。必死に視線を巡らせるアレックスは、地面がすぐそこまで迫ったところで壁から突き出る突起物を見つけた。しめたと思った、だが、同時にある程度の痛み覚悟した。
円と直線を組み合わせたような奇妙な形の突起物、落下するさ中、無理な姿勢から掴んだものの、アレックスの握力は彼自身の体重を支えきれず、肘の激痛と共に背中から地面へ着地した。
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