ファントム

 地平線に消えゆく背中を見詰め、リリーは不安に駆られずにはいられなかった。猛火に飛び込む主の後を追えぬ不甲斐なさ。補佐するという役目を背負っているのにも関わらず、いざとなれば脆き少女の身体が邪魔をする。だが足の怪我が無ければアレックスは付いてこいと言っただろうか。過保護すぎるだけかもしれない。静まりつつある大通りの喧騒でさえ今のリリーにとっては心を縛る重厚な鉄の鎖と同じだった。


 アレックスが大通りを離れてから数十分後。

 僅か数十分。時計の針が示す時間としては些細なものだ。だが、方向を見失い混乱するリリーにとっては、それは数時間、あるいは数十時間とも感じられるほどの苦痛となっていた。

 倒壊を間逃れた家屋の玄関口、小さく数段だけ与えられた階段に腰を掛け、担架に乗せられた市民を見詰める。彼が生きているのかさえ分からない。ダラリと力なく腕を垂らす市民が運ばれて行くたびに、リリーは胸の締め付けられる思いに苦しんだ。

 暗く沈む表情を見てだろう。ランディスは重厚な足音を響かせてリリーの側に近づいた。

「リリー、ベイカー氏を病院へ送っていた馬車がやっと戻ってきたようだ。少し時間はかかったが、大丈夫かね?」

「はい……。お気遣いありがとうございます。ですがよろしいのですか? 私なんかより優先すべき方たちがいるのでは?」

 健気な言葉だった。

「問題は無いだろう。事件が発生してからもう大分立つ。深い傷を負った者たちは、みんな病院へ行った。沈静化に向かっているよ」

 ランディスはとても寂しい表情でそう言った。沈静化していると。

 戦慄の一振りは市街に甚大な損傷を与えた。だが、マジェスフィアの力を持ってすれば数日、数週間としない内に大通りは何時もの活気を取り戻すだろう。そう考えれば確かにトールが残した傷跡は消え始めている。だが人の死という傷が形を変える事はあっても癒える事は決してないのだ。命故に戻らないのだから。

 寂しく響く老人の声を聞いて、リリーには少し気になる事があった。

 むしろ聞き出す機会を伺っていたのだ。まだ、誰もランディスの見解を伺っていない。ランディスといえばトール直属の上司に当たる人物だ、だがどういう事かトール本人に触れようとはしない。市民に愛されて居たはずの心優しき英雄。やはりランディスも他の者達同様、トールが犯人である事に虚脱感を抱いているのだろうか。

「あのっ。ランディスさん。ずっと聞きたかったんです。ランディスさんも、トールさんが犯人だと思っているんですか?」

「ふむ……。愚問だな。私はアレックス以上に彼に関わった時間が長い。だから彼がどういう人間なのかも一番良く理解している」

「どんな人物ですか……?」

「彼は純粋無垢で、単純明快な思考の持ち主だった。もし君が犯人の事を聞きたいのなら。私にでは無く、君の後ろにいる彼に聞いてみるのが一番だと、思うがね」

「後ろ……ですか……?」

 ランディスはリリーへ杖の先端を向けた。黒い宝玉は陽射に照らされ一度だけ白く輝いた。指し示す対象、自分では無い誰かに戸惑いの表情を浮かべながら、リリーは杖の行く先を追うように後ろへ振り向いた。

 直後、暗く沈んでいた表情は青さを増した。

 ――いつから!

「君がアレックスからカードを受け取った時から、一時も離れずにその場で立っておった。我々に何かを、重要な何かを伝えようとしているのだろう。死して尚機士としての本分を忘れない彼を、私は誇りに思っているさ」

 自身の背後に佇む大男の顔をその瞳に移し、リリーは真珠のような大粒の涙をポロポロと流しはじめた。

 ――ずっと、ずっと心配してたんだ……。トールさんがそんな……犯人なんて、絶対に違うと信じていたの。だって、トールさんの魂は、いまここに居るもの……。

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