ポーカー
この街には伝説が息づいている。「死者と踊る道化師」の伝説だ。私は一度だけ、奴の姿を目撃したことがある。彼が私を覚えているかどうかは分からないが、私の記憶の奥底にはその時の光景が今も深く焼き付いている。
渦巻く青い炎が形成する獄舎、体を蝕む熱波からくすんだ白い煙が薄霧のように立ち込め、その朦朧とした中で一人の大男が私の前に立ちはだかった。そして、彼は迫り来る爆炎から私を保護したのだ。彼が何をしたのか詳しくは分からないが、炎は少しずつその熱を失い、代わりに炎に飲まれ消えたはずの者たちが、まるで魔法でも使われたかのように私の前に再び現れた。そして、生前と同じ色彩を持つ彼らが私に微笑みかけたのだ。
それは、深い霧の中をさまようような不思議な情景だった。あの光景を一度でも見たら、決して忘れることはできないだろう。私は絶対に忘れない。私の命を救った恩人を、『ジョーカー』と呼ばれた怪人を――。
ファントムウッズの隠れ家的酒場。店前の看板に「挑戦者歓迎」と大々的に書かれ、店内に一歩足を踏み入れると、橙色の照明が店内全体を包み込む。その内装は、完璧に行き届いた掃除から清潔感を漂わせ、だがいくつも設置された円卓には、さほど客は座っていなかった。
客入りが悪いわけではない。まだ酒を楽しむには早い時間なのだ。
一台の円卓を占拠し、トランプ遊びに興じるゴロツキをのぞけば、カウンター席に客人の姿は二人だけ、都市の街酒場といえど出だしはこんなものだろう。
「マスター、トランプはお好きですか?」
フードマントを身に纏い、その深さに頭を隠した謎の客人が、カウンター席から問いかける。その声は、マスターが丁寧に磨き上げるファッショングラスに反響し、静かな店内にこだまする。
「ほう、あんたもかい。やめておいた方がいい、何たって俺は強いからな」
「やけに自信があるんだな。まだ遊ぶゲームだって決めてないのに」
「ゲームを楽しむだって? そんなの悪知恵を働かせる奴のセリフだ。そうやって代金を踏み倒そうとする客人の相手はさんざっぱらやらされて来たからな。今ではどんなゲームにだって対応できるようになったぜ」
完璧に磨き上げたグラスを手元に持ちながら、マスターと呼ばれた男は、電灯の明かりを反射させ、その輝きを瞳の奥に宿しながらグラスをカウンターテーブルの隅に置いた。テーブルの隅には、何段にも重ねられたグラスが美しい塔を築き、その上で整然と並べられたグラスの騎兵隊が待機している。
「それで何にするんだ? ブラックジャックか? 大富豪だって相手になってやるぞ」
「ブラックジャックはディラーが有利だ。大富豪なんて二人でやるようなものじゃない……」
「それはそうだ、両方とも二人でやるようなものじゃない、おれと戦いたいなら、もっと大勢つれてきな」
「その必要はない。私ひとりで十分だ」
マスターは客人の得意げな声を聴くや、満面の笑みを浮かべ、口髭をくねらせながら、トランプデッキをテーブルに置いた。
そして、そのトランプデッキを目の前に置かれた客人は、自分の後ろを親指で示した。
その指示の方向には、円卓を囲んでトランプを散乱させている男女四人組の姿が見える。皆、確かに5枚のカードをしっかりと握りしめている。
「マスター、ポーカーだ。ポーカーで勝負をしよう」
「いいだろう、ベット無しの『ファイブカード・ドロー』勝てば食事の代金は免除してやるが、負ければ二倍払ってもらう。そして……代金を払えなかった時はどうなるかわかっているんだろうな」
「……かまわないさ、その時は好きにすればいい」
客人の言葉が合図となり、マスターはトランプを手際良くシャッフルする。その速度は目を見張るもので、マスターの手元から飛び出すカードが酒場のざわめきを掻き消す。まもなくカードは交互に配られ、カウンターの上で整然と並んだ。その洗練された配り方だけでも、マスターが一流のプレイヤーであることを客人に示すには十分だった。
「フフッ……さっきの言葉はどうやら嘘じゃないらしい」
「嘘をつく事にメリットを見いだせないのでな。あまり歳はとりたくないものだな、私も君くらいの頃は街頭で大風呂敷を広げていたよ――」
言葉を途中で止めると、マスターは自分の手元に置かれたカードに目を落とし、にっこりと微笑んだ。
「ふふっ。マスター口元がゆるんでいるぞ。表情を隠せない奴はポーカーでは勝てない。常識だ」
「そんな事はないさ、現実に勝ってきた。強運でな!!」
「運か。どうやら私は強運を呼ぶ道化師に見放されたみたいだ。2枚のカードを交換してくれ」
「役がブタなら助かるんだがね」
客人が手元のカードを二枚カウンターに放り投げると、直ぐに新たなカードがテーブルを滑り、手元に届いた。
「残念ながら、その願いは叶いそうに無い」
「ほぉ。準備が整ったようだな。一斉にオープンといこうじゃないか」
「望むところだ!!」
「「オープン!」」
「私の役はスペードの『フラッシュ』だ。君が勝つためには最低でもフルハウス以上の強力な役がなければ勝てないぞ!!」
「マスターの親切心に感謝するよ。だが、私の手は『エースのファイブカード』だ。これに勝る役はない」
「ナニィィィィィッ!!」
マスターは、客人の役を確認するや否や、驚きと共に一瞬で手中のカードをばら撒いた。その姿に気を良くしたのだろう、深々と被るフードの奥で今まで微動だにしなかった客人の口元が少しだけ綻んだ。
フードを被った客人の手元には、確かにきらめく3枚の絵柄があった。数字こそ同じだが、各カードに刻印された紋章は一致していなかった。だが、何よりもマスターを驚かせたのは2枚だけ数字の描かれていないカードが混じっていた事だった。羽飾りの先に奇っ怪な球体をぶらさげた帽子を被る道化師の絵札。明らかに異才を放つジョーカーの姿にマスターは驚愕していたのだった。
白髪を鷲掴みにし無念そうにうずくまるマスターの隣で、先刻の取り決め通りに、代金も置かずに、客人は席を立つと、人の疎らな店内を出口へ向け歩き始めた。
無銭飲食に鼻歌を重ねて。
「待ちなよ――」
カウンター席から響き渡る声が客人を呼び止める。豪快なフードマントが客人の顔を巧妙に隠しており、その表情を窺い知ることはできなかった。だが、唐突な声に反応し、客人のマントが一瞬、幅広く揺れた。その揺れは、不快な声によって一時的に立ち止まった客人の感情を如実に物語っていた。
「――おいおい。何を言うんだ? 私がイカサマをしたって言うのかい?」
「あぁ、イカサマだ!!」
客人を呼び止める声。だがマスターの声とは違う。どうやらその声は、カウンター席に座る内の誰かが発したものだった
「非礼な奴だな。おまえ。イカサマってんならその場で捕まえなければ証拠なんて残らないのに。後々勝敗にケチをつける事なんて誰にだって出来る。そう思わないのか?」
客人は両腕を広げ、驚くほど横暴な言葉を吐く輩を睨みつけるために、ゆっくりと身を翻した。そして、視線の先の男へと研ぎ澄まされた眼光を向けた。
男は、ワイングラスに細長いストローを突っ込み、赤い液体を気取って吸い込んでいた。客人がその飲み物が純粋な葡萄酒だと思わなかったのは、その男が明らかに未成年にしか見えなかったからだ。さらに、その少年の服装は、旅行者たちが集まるこの街酒場で一際異彩を放っていた。
少年は皺ひとつないスラックスを履いており、純白のYシャツに羽織る黒いベスト、彼の左胸には一匹の黒猫が踊るかのように描かれた金枠のブローチが光る。
その小さな体躯は、先ほど円卓を囲んでい "ゴロツキ" にでも絡まれたら、たちまち捻じ伏せられてしまいそうだ。
来るところを間違えてるんじゃないのか? 酒場に入った客人は、この少年が浮き立って見えて、何かがおかしいんじゃないかと思い始めた。
でも少年は、そんな客人の予想をばっさりと切り捨てて話し始める。
「勝敗もなにも、あんたの役じゃ勝負が成立しないんだ」
「ハァッ? ふざけているのか?」
「だってさぁ、オズワルドさん。この街のトランプデッキにジョーカーなんて1枚も入っていないんだから」
少年はマスターをオズワルドと親しげに呼ぶと、少年の後ろに立つ初老の男は小さく相づちを返した。
「それでも、役を見せられた直後にそれを確認しないのはマスターの責任だろう? ゲームのルールを確認せずに進めるのは店の責任じゃないのか!!」
「君は旅人だろ? なら初めにその街のルールを確認するべきじゃないかな?」
少年は軽くそう言って、席を立った。
そして、怒りに震える客人の隣まで歩み寄り、客人の揺れ動くマントに手を伸ばした。
その瞬間――
「――ヤバイぞ!! ジョーカーだ!! 『ジョーカー』が現れた!! 市街地で暴れまわっているぞ!!」
「「――!?」」
突如酒場を満たす外からの叫び声。
だが、少年は酒場の中へ入る外界の喧騒に耳を傾けるよりも、ポーカーでイカサマをした客人のマントを掴む事を優先した。純粋なる正義感から来る行動に、つぶらな瞳を輝かせて。そんな、少年の行動をうっとうしいと客人が思ったのは、当事者であるはずのマスターが黙り込んでいるからに他ならなかった。
「手を離せ……」
その細い声と同時に、客人のフードがふわりと揺れた。その隙間から、透き通るような金色の髪と、星のように輝く青い瞳が見えた。
「……えっ?」
酒場の出入り口へと一度だけ大きく身体をねじった客人。しかし、未だにマントから抜け切らない子供の体重にすぐさま向きを戻し、今度は大きく声を響かせた。
「離せと言っているんだ!! 聞こえないのかッ!!」
少年の表情が驚きに変わった。
客人は、少年の反応を意に返さず、フードマントの切れ目から白い足を伸ばし、少年の足元に強く踏み込んだ。そして、振り上げた足は稲を刈るように少年の片足を床から引き剥がすと、流れる動作を止めることなく、マントを掴む腕を払いのけ、バランスを崩した少年の胸部に強烈に肘を打ちつけた。
「――ッ!」
思わず軽く、そして勢い良く中を舞う少年の肉体。
少年は自身が何をされているのかもわからず、気が付いた時には既に胴体を背中から、酒場のカウンターに打ち付けていた。。
思わず意識が飛びそうになる中、少年はブーツの踵が木の床に打ちつけられる音を耳にした。
「――ッ……タイッ!!」
「おいアレク。アレックス。怪我をしていないか?」
「痛い!! 痛いって!! 背中を机の角にぶつけたんだよ!! ケガしてないわけないってッ!!」
「そうか? 案外大丈夫そうだがな……」
「うそっ! 本当は背中に机の角が刺さったままで、傷が深すぎるから痛みを感じないとか……」
アレックスと呼ばれる少年は、背中を両手で押さえる素振りこそ大袈裟だったものの、オズワルドの言葉通り怪我はしていないようだった。
「それよりオズワルドさん!! 見たんだよ!! あのフードの下に隠れていた真っ白な顔を!! あいつ女だったんだ!!」
「なんだ、おまえ声で気が付かなかったのか、アレク?」
「えっ?」
自分より先に事実を把握していたオズワルドに、アレックスは驚きの目を見せる。
「わからんものだな、すり替えるうまさに言葉を無くしてしまった」
「だからって不正にかわりないですよ。なんで止めようとしなかったんです?」
「腰に物騒なものををぶら下げていた。あれは剣の『マジェスフィア』か。おまえは運が良いな、一歩間違えれば細切れだったぞ」
渇いた声でオズワルドは言葉を続ける。
「それに今回は私も運がいい。なんたって、都合よくお前がこの場所にいて、しかもイカサマ女を取り押さえようとしてくれたんだからな」
飲食代を踏み倒されているのに、オズワルドはニッコリと微笑んでいた。その微笑みを見て、アレックスはぞっとするような感覚を覚えた。
「さて、どうやら『ジョーカー』が街を荒らしているらしいからさぁ、ちょっと僕も見てくるよ」
「アレク、待ちな。店を出る前にお代をきちんと払ってから行ってくれ」
「……ずるいよ。旅人の『マジェスフィア』なんかに怯えちゃってさ。僕だって『マジェスフィア』持ってるのに」
「おまえが一人じゃ何も出来ない事を俺は知っている」
オズワルドの言葉に促され、アレックスは財布を取り出すと、一枚の紙幣を引き抜き、カウンターテーブルの上にそっと置いた。
「はいっ、葡萄ジュースの代金」
「足りないなぁ」
「えぇっ! いつ値上げしたのさ!」
オズワルドの言葉に、アレックスは眉をひそめる。
「お前の分は一枚で十分だがな、逃げて行った旅人の分を入れると、もう十枚必要だ」
「なんで僕が……」
「被害届は役所に提出すればいいか? 無駄な仕事が増える分、今払った方が良いと思うがね」
それは理不尽な話だった。
「ってか高すぎでしょ? あの女どんだけ酒飲んだんだよ!! あげくの果てに酔っぱらってイカサマってさぁ!!」
「それは少し誤解があるぞ」
「そうだ、そうだ、僕が払うなんてやっぱりおかしい!!」
「――あの女。大食漢だったんだ。酒の代わりに高いパスタをがっつりと食べていきやがった」
「って、そっちですか!」
「あぁ、こっちの話だ。酒は一滴も飲んでいかなかったよ。お前と同じ未成年なんだろう、飲み物はミルクしか飲んでない。初めから踏み倒す目的で賭博の効く俺の酒場を選んだんだろうよ」
オズワルドの言葉に、アレックスは少し頬を膨らませた。
「だけどオズワルドさん。僕、お小遣いが少ないんだよ」
オズワルドは一瞬、驚いた顔を見せた後、大笑いを始める。
「ハハハハッ。 何を言っているんだアレク。お前はこの街の市長だろ? 市長がそんな素寒貧なわけないじゃないか」
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