双翼の機士
「ジョーカーだぁぁあッ、みんな逃げろぉぉぉッ。早く逃げるんだぁぁぁァツ!!」
この悲鳴にも似た叫びは、制服を纏った警官が全力で街を駆け抜けながら放ったものだった。市民達を差し迫った危険から遠ざけ、同時に仲間に救援を求めるための声だ。
警官の声が市街に響き渡ったあと、数分で大通りから人々の気配が消えた。漆黒の電柱からぶら下がる電灯は、不気味に石畳の道を照らしだしている。警官は、その灯りの下で頭を左右に振り、再び市街が人気の無いことを確認すると、任務の達成を期待するような気持ちが、彼の胸に広がっていた。
しかし、その期待は裏切られることとなる。
織物が風に靡く音とともに、1人分の硬質な足音とが背後から迫ってきたのだ。
「おい! おまえ! ジョーカーを見たのか? 何処に居た――」
呼び止められる声に振り向くも、自分の思惑とは違う相手の出現に警官はあからさまに戸惑いの色を浮かべた。顔は歪み、そして強ばった表情には微かな余裕も感じられない。
「――へっ! あっ……。ええっ……旅人か? まだこんな所をほっつき歩いてる奴が……」
自分を呼び止めた相手がマントを羽織る旅人ではなく。屈強な体躯の警官だったのならどんなに良かった事か。
しかし、警官の思惑とは裏腹に、その旅人は警官に対してゆっくりと言葉を投げかけた。
「おまえは一人なのか? 仲間はどうした?」
「……食われたんだよ! みんな食われちまった……あんただって、早く逃げた方が良い」
終末を告げるかのように、恐怖に満ちた声が響く。
そんな声から警官の深い恐怖心を察知したのか、旅人は警官の肩に穏やかに手を置き、安心させようと優しい言葉を掛けた。
「怯えるな、私は君の見方だ」
「えっ……? あんたぁ……いったい?」
「私は『メディエット・ダナン』だ。マジェスフィア協会の要請でこの街にやってきた」
警官が素性を追求するよりも早く、旅人は自身の名を名乗る。
「マジェスフィア協会だって!! それじゃぁアンタ!! まさかッ!!」
「運が良かったな君は。私は魔鉱機士だ」
月明かりの下、ゴシック様式の建築物が佇む街路が、ぼんやりと照らし出されていた。街灯の微弱な光は、彫刻のように美しく複雑な形状を持つ窓枠や高くそびえる尖塔を引き立てている。建物たちは異なる形状と特色を持ちつつも、何とも調和の取れた一体感を保ち、まるで黒いシルエットのように静寂に包まれていた。深い闇が支配する中、それぞれの建物が幾重にも重なり合う影は、美しさとともにどこか不気味さも醸し出していた。
石畳の通りには警官とメディエットの二人以外には誰もおらず、夜の静けさを更に深める。しかし、その静寂は突如として破られた。それは遠くの屋根を蹴る何かの音だった。
――ガツン ガツン ガツン
―― ガッ ガッ ガツン
夜間の静まり返った街路に突如として響き渡る荒々しい衝撃音。薄明かりの下、二人の姿はまさに格好の獲物と見えたに違いない。空から突如として姿を現したのは、警官が恐怖の名で呼んだ、『ジョーカー』に他ならなかった。
そして、ジョーカーはゴシック様式の屋根の鉄柱を片手に掴むと、勢いよく跳躍し、二人のすぐ目の前に着地する。その重厚な着地の力は地面の煉瓦を無慈悲に粉砕した。その衝撃により、黄土が渦巻き、砂埃が乱舞する中、『ジョーカー』の姿をぼんやりと覆い隠す。
「――ツッ」
危険を察知したメディエットは、直感に従って警官を抱き寄せ、後方へと跳び退いた。
しかし、重力の無くなる異常な感覚に警官は驚き、身を捩じるように暴れる。メディエットは地面に着地すると同時に、腕の中で動き回る警官に耐えきれなくなり、警官を後方に投げ出した。
「――グフッ」
背中を冷たい地面に打ち付ける警官。ぼんやりと立ち上がり、メディエットを見つめる。理解しきれない状況に目を見開きつつ、警官の視界を再びマントが覆った。直ぐに振り払う警官の視線に、街灯に照らされる金色の髪が飛び込んできた。
「へあっ。女?」
警官は驚きを隠せなかった。目の前の少女、メディエットの力強い豪腕と落ち着いた口調、そして幼い体格は彼の理解を超えていた。袖の無い特異な上着から覗くは細く美しい肌、短い白いズボンと警官でも敬遠するほど頑丈なブーツを身に纏った姿は、戦闘に出向く者のそれではなかった。しかし、彼女の腰にぶら下がる2つの丸いホルスターを目にした瞬間、警官の心は冷静さを取り戻した。彼女が言っていた通り、魔鉱機士であるなら、ホルスターに収められているものは間違いなくマジェスフィアだ。
「警官、名前は何という?」
「……おっ。俺はベイカーです。階級は巡査で……あります」
ベイカーは制服の袖で汗ばむ額を拭きながら、声を震わせて自己紹介した。
「なるほど、ベイカー巡査。下がっていてくれ。これからマジェスフィアを使う」
「マジェスフィア! 何を考えてるんだ、ここは市街地だぞ! 戦争兵器なんて使うんじゃない!」
「おい、ベイカー。目の前の男もマジェスフィアを使っているのだろ? じゃなければ卓越した身体能力の説明が付かないからな」
金色に輝く髪を夜風になびかせながら、メディエットは前方に立ちはだかる男を指し示した。
「それに、安心しろ。私のマジェスフィアはあんな奴のものより百倍おとなしい」
そう言って、彼女は自慢げに微笑んだ。
マジェスフィアとは対物兵器の一種、強固な要塞や鉄壁を一瞬にして破壊し制圧するための魔法工学兵器である。形状は多種多様だが、純粋なる破壊を目的とする兵器は全て『マジェスフィア』と呼ばれていた。その動力の中核となる魔鉱石は主に武器のグリップに内蔵され、トリガーを引くことで不可思議な魔力が全てを焼き尽くす破壊の力となる。その強大な威力ゆえに、『マジェスフィア』は多くの者が憧れ、また恐れられてきた。
対人戦に『マジェスフィア』を用いることは禁じられているが、一つだけ例外がある。それは、相手も同じ『マジェスフィア』を携えているときだ。この特例が適用される時のみ、魔鉱機士は市街地での『マジェスフィア』使用が認められるのだ。
「おい、おまえ。命乞いをするのなら今の内だぞ。私は『マジェスフィア』は手加減がきかないんだ」
「命乞いってあんたわかってるのか……。ジョーカーはもう死んでいるだ!」
「なんだとッ? ふふっ……。そういう事か……」
激動の情緒が湧き上がりながらも、メディエットは控えめな微笑を優雅に浮かべた。その純真無垢な微笑みに惹かれ、ジョーカーと名付けられた男は不気味に立ち上がった。
その異形の存在は、彼女がこれまで余裕綽々と漂わせていた雰囲気に、微かな緊張感を打ち込んだ。
黒いコートを纏った、平凡な男。疲弊した両腕を力無く垂らし、猫背に構える。体格は、長身で細身。そして、不自然に曲がった首を除けば、何も目立つ特徴はない。動き回るたびに色あせた茶色いズボンには傷が際立ち、コートの奥から見える青白い肌には、漆黒の血がこびりついていた。
人を喰らう死者。『ジョーカー』。メディエットはそんな事を思いながら、視線を男の顔面へ移す。縮れた前髪は垂れ下がり、血の気無く蒼白の顔面。威を張る口元には二本の牙がむき出しになっている。そして、メディエットが男の両眼を見詰めたとき、ソレが既に人間ではない事を確信した。彼女は見たのだ、生気を無くし、尚、睨め付ける白い瞳を。
「死者が踊る街『ファントムウッズ』か。グレゴリー本部長も良いところに私を送り込んだものだな」
「終わりだ――。もうおしまいだ――。俺も他の奴らと同じように喰われてしまうんだ――」
「だらしない! 警官だろうが! 市民を守るのが任務なんだろ! 落ち着け!」
「……そんなこと言ったって、どうすればいいんだ! 銃弾を撃ち込んでも倒れない、剣で斬りつけても怯まない、そんな相手とどうやって戦えって言うんですか!!」
「私には、これがある」
世界の終焉さえも塗り替えるかのような、深みに満ちた声でメディエットは警官に告げると、肉厚な革製のホルスターから二本の武器を抜き取った。
「それは、剣? それが、あんたの『マジェスフィア』なのか?」
「水晶の双翼剣だッ!!」
狂気を振るう死者とは全く異なる『マジェスフィア』の形状。彼女の腕と同じ長さほどの刀身は、トンボの羽のように透き通っていた。
しかし、その幅広い水晶壁は鳥の翼のように美しい弧を描き、そして、満月のような真円を描くナックルガードの先からは、細く繊細な線が刀身へと深く潜り込んでいる。
「――グルルッグルルルルルッ」
飢えた犬のように、死者は喉を震わせた。
メディエットは双翼剣のグリップを両手でしっかりと握りしめ、体勢を低くして構えた。今まで月明かりに映し出されていた刀身は、その体から青白い輝きを放ち始める。
力強くも美しいその輝きに、彼女自身の美しさを映し出すように、先ほどまで恐怖に震えていたベイカーも、思わず見とれてしまっていた。
その刹那――
ジョーカーと呼ばれる男の白い拳がメディエットめがけ振り下ろされた。
しかし、その猛攻は彼女の敏捷な動きの前には無力で、彼女の避けたその拳は空虚に振り下ろされ、力任せの攻撃はただ地面を粉砕しただけだった。
超人的な怪力と畏怖を一切顧みない破壊力により、地面は蜘蛛の巣のように無数の割れ目を生んだ。攻撃が空振りに終わったことに動揺する様子もなく、死者は感情の色を帯びない面持ちで地面から腕を引き抜き、再度破壊の槌と化した拳を振り上げた。
「おやっ。どうやら術者はほかにいるようだ。おまえが死人でホッとしているぞ。生身相手に私の武器を使用すれば後で始末書を求められるからな……」
メディエットはわかっていたのだ、死者が誰かに操られているという事実に――
凶器を見せてもなお怯む事の無い姿勢、微塵も揺るがぬ冷徹な表情、そして大げさな予備動作。全てが彼女に反撃のチャンスを与えた。
これは死者だからこその行動なのか、それとも生前からの男の癖なのか。メディエットは死者の拳が自分に向けて振り下ろされるよりも早く、死者の胴体に双翼剣の刃を突き立てたのだ。
「翼刃よ切り裂けぇ――ッ!!」
メディエットの叫びと共に、突き立てた剣を強く振り払う。その刃は立ち上る濃霧を掻き分けるように、肉塊を引き裂くことなく、スーッと死者の胴体を抜けていった。
「えっ、あんた何をしだんで? あのトールとかいう騎士とは大違いだ。 おれ無事だよ……ハハッ」
ディエットの背後で、恐怖に打ち震えながらも微かな好奇心に身を任せてベイカーは口を開いた。
「マジェスフィアの名は『両断する翼状剣』。二刀一対から放たれる刃は、触れるもの全てを両断する」
短い金髪が夜風に舞い、その低い声はメディエットの悲しみを伝えていた。死してなお人に利用される、その苦しみを彼女は共感し、一撃で死者を、その胴体を躊躇なく切り裂いた。
夜空の星々のように微かに灯る街灯の下、風が死者を撫でる。その直後、ズルリとずれ落ちた死者の胴体は地面に落ち、そして二度と動くことはなかった。
「せめて、安らかに眠るがいい」
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