第10話 雪と濃霧

 その日初めてアギエルの肉を食べた。


 初めは、オモトじゃなかった。

 ガーレが始めだった。

 無理に食わせたわけではない。

 あの日初めてアギエルを見つけて以来、オモトもガーレもやたらとそこに通うようになった。

 惹かれるものがあるのだろうか。アギエルはすべてのギラの産みの親と言ってもいい存在だ。

 ふと目を話したときに、ガーレが、アギエルの肉片を食べようとしていた。紫海の底からふわふわと漂い舞ってきたような小さな肉片だった。

止めようとしたが、遅かった。

 ガーレは既にそれを飲み込んでいた。数分間、なにか起こるか、と身構えたものの特に変化はない。

 アギエルの肉ともなるとギラの特徴も増幅されるはずだと予想していたが、間違いだったのか?

 その日はいつものように夕刻までだらだらと泳ぎ、相変わらずうんともすんとも言わないガーレを連れて島に帰った。


 オモトの仮説が間違いでなかったことは数日後わかった。

 ガーレの体に明確な変化が現れる。

 彼は進化した。

 そう、進化というのがもっともらしい表現だ。

 人の子が成長するようにガタイがよく、筋肉がついた。人でいうと年の頃は18くらいに見える。

 ガーレは依然喋らないものの、知能も上がっているように見受けられた。何か考えるように島を眺めていたり、おれの意図を汲んで、ギーラや他の子どもたちを助けたりするようになった。


 オモトも食べた。

 これは、熱い。脈打つままの心臓を食ったかのようだ。

 アギエルの感情まで喉を流れ込んでくる。

 強い酒を飲んだときのように、今肉が体のどこを通っているのかわかる。

 胃に達し、内燃したエネルギーが体中の細胞に語りかけてきた。

 この世界はこうも冷たく、貪欲で、苦しいのかと。

 すべてを理解できる。

 アギエルは埋められた瞬間から復讐を誓っていたんじゃないだろうか。

 この、かつての星の愛の墓標。今や人の権力の重みで傾きかけている塔。そしていつか彼女が崩す楼閣。

 いや、いつかじゃない。

 雪辱を果たすのは、今、これからだ。

 オモトも自信が進化の階段を一歩登ったことを感じた。そして、アギエルの遺恨を自分の体に住まわせることになったのも理解した。

 後悔は感じていない。オモトはアギエルの操り人形になったわけでは決してなかっ た。彼の中にもともとあった怒り、悲しみ、そして慈しみがアギエルの感情の残滓と 同調したのだ。

 そして理解した。


「わかったよ、アギエル。それに、オモト。お前のこともな」


 ギラとしての体の使い方も今までとは変わってくる。

 ガーレの例でわかってはいたが、肉体への影響度もやはりアギエルの肉は別格だった。

 摂食による他の生物との融合も今までとは段違いのスピードでできるようになった。

 アギエルの肉を口にしたあと、ある期待を持ってオモトは小鳥を食べた。

 普段は口にしない。骨ばっている色だけが鮮やかな鳥だ。ただもう一つの特徴として、この鳥は全長に占める翼の割合が大きく、自由に空を飛ぶ。

 そう、オモトは翼を手に入れるためにこの鳥を食べた。

 すぐには変化はなかった。いつもどおり、腕にちょこっと羽毛が生える程度で期待を裏切られた気分になった。

 しかしオモトは辛抱強くこの鳥を食べ続ける。

 そして目論見は成功した。背中がムズムズと痒くなったのが昨日。その段階からは速かった。

 今朝目が覚めると背中が重い。あの不味い鳥の鮮やかな翼がオモトに生えていた。


「しばらくは練習だな」


 これも人の一つの形なのか。と思うほどオモトの背中に翼はしっくりと馴染んだ。

 意思を集中させ、翼を動かしてみる。

 不思議な感覚だ、四肢が増えたような感覚に近い。

 これなら、と広い空を見上げたときに、やはり真黒い塔の影が光を遮っていた。


 オモトはギーラや他の子どもたちにもアギエルの肉を食べさせていった。

 皆、オモトやガーレと同様に進化を見せたが、言語能力はそこまで上がらないようだ。


「おもぉと」


 ギーラの発音は良くなった。

 ガーレとオモトも定期的にアギエルの肉を食べた。しかしオモトは特に慎重に、一度には少しづつ食べるようにした。

 心のどこかでアギエルに支配されるのではないかという恐れがあるのだろう。

「おれはおれだ。変わっちゃいない。おれでしかない」

 何度確かめても自分は自分でしかなかった。としか思えなかった。記憶も、考え方も、反応も、オモトだ。にもかかわらず、不安になるのは心が目に見えないからだろう。


 一抹の不安は払拭はできないことを腹に据えて、オモトはギラを増やしていった。

 アギエルの肉を食った直後ならば、生き物から直接ギラを生み出せることを知った。魚や鳥、獣に、血などギラの一部を与えることでギラとなる。四つ子より知能は劣るが、アギエルの肉を食わせれば指数的成長を見せる。

 四つ子やその他のギラもまた、次のギラを生み出し、島には爆発的にギラが増えた。


「島の名前を変えよう。ここは、ギラフェテリア」


 今や百は超えたギラの「家族」を見渡し、オモトは宣言した。


「ここが、俺の再出発点になる」


 自分に言い聞かせるように、呟く。


 この島には、オモトのお気に入りの場所があった。

 西向きの切り立った岬で、夕陽の沈む時間にははるか先にあるはずの燃える塊が静かな海を暖かにしているように見える。

 嫌いな塔は背後にある、その影すらも後方に吹き飛ばしてくれる赤い炎に照らされて人でいた事を思い出す。

 暖かさや冷たさ、そんな針でさすような刺激を感じる神経は死んでしまったものの、感情に火が灯ったときにはその虚像が揺らめく時がある。

 ユギィのやつを思い出すのはそんなときだ。

 ただ、オモトはその頃に戻りたいと思うわけではない。懐かしいと感じるということは、もう自分とは切り離れた過去なのだ。

 あの頃のオモトも、あの頃のユギィも、この星のどこを探しても見つからないのだ。

 悲しくもない、愛おしくもない、辛くもない、いじらしくもなく、もったいなくもない。ただ、懐かしいのだ。

 今やオモトの心に映し出される憎しみの形は、アギエルの血の水面に反射する自分の顔だった。

 そんな心の鑑賞をしたいときに限り、この場所に訪れるのだった。


 風が吹き、雲が流れてきた。

 感じないはずの寒さを感じて、オモトはその場を去った。



 ▲▲▲▲▲     ▲▲▲▲▲ 



 ハイトが雨を見たいと言った。

 確かに住んでいる階からは、雲の真っ白い海しか見えない。その下のことはハイトは生まれてこの方知らないのだ。

 食料貯蔵期でハイトの教師が長期休みに入り、宿題そっちのけにして連日プラモデル作成や機械分解に勤しんでいた彼も、月に一度の天体観測の嘘は先週ついたばかりだし、かといってリリー機械展はまだ先だということに気づいたのか、自然研究のレポートを書くためなどという明らかなお為ごかしをここぞと言わんばかりに切り出してきたのだろう。

 ユギィとは言えば、この時期に仕事はなく、代わりに彼はその義務はないのだが食料貯蔵のための芋栽培を手伝ったり、読み始めた長編の続きをメルムと図書館へ借りに行ったり、いつもの少し上の階のバーに行ったりと晴耕雨読と百薬の長で健康かつ文化的な穏やかな日々を過ごしていたものの、それも一月も続いてくるとすっかり年老いた気持ちになってきて刺激を求めていたところだ。

 そんなところにハイトのやつが棚からぼたもちを落とすのだから、


「いいだろう。その代わりレポートは見せてもらうからな」


 なんて父親の面子を保つ反面、飛びついてしまった。

 そのタイミングを狙っていってきているのなら悪知恵の働くやつだ。

 思えば僕のこの時の判断は父親として失格だった。雲の下に行くとなると、それなりに下の階層だ。もちろんそれだけダダと合う危険性も増える。

 最近は自分の目ではなくテレビジョンの画面越しにダダを見慣れてしまったから、 どこか遠くの存在のように思っていたのかもしれない。


 ともかく、僕らはまた父子で出かけた。名目は自然研究のレポートを書くこと(ここは嘘じゃない)、行き先は下層 (ここも嘘じゃない)の家畜階 (ここが嘘だ)ということになっている。

 雨を見れるとも限らなかったが、できるだけ雲の多い日を見計らって昼間に出かけた。

 雨を見るには塔の外に出るしかない。ハイエンタールでは下の階に行くほど窓は少ない。下界を見る事自体、この塔では忌み嫌われていた。

 戦闘機のガレージに向かい、ハイトが点検をする。操縦も、もう慣れたようだが主操縦はまださせない。

 塔外に飛び出す。いい天気だ。日はてっぺんよりもやや落ちかけて来ていた。

 眼下の白い絨毯ばりを目指す。さて、雨は降っているのか。


 雲に突っ込むとバタバタと機体に水滴がぶつかる音がうるさかった。

 ハイトは少し怖がっているようだ。やがて雲を抜ける。

 一変に辺りが静かになる。


「父さん……」


 ハイトが白い息を吐く。


「これが……雨?」

「そうだ。これが……雨か?」


 途中から自信をなくしてしまう。ユギィが知っている雨とは違っていた。

 ハイトが薄く遠くを凝らしていた目を開いてひらめいた。


「わかった!!こ れも、雨の一形態だよ。サイエンスの授業で習うよ。雪だ!」


 雪か、ユギィが駐屯兵でいた頃には、見たことがなかった。

 白い。

 白い雲の天井からゆらゆらと沈んでくる破片のようだった。

 ハイトは雪は結晶の形をしていること、他にもひょうみぞれがあること。雷や霧や竜巻といった気象現象について知りうる限りのことを話してくれた。


「珍しいよ! 父さんも見たことがないってことはこの星の寒冷化によるものなんじゃないかな」

「はー、そりゃあよかった。見れたな」


 きれいなものだった。地の底まで静かで満たして自分たち以外の存在を消してしまっているようだった。

 ユギィもハイトもいつやら声をなくしてゆっくりと寒さが侵食してくる機体の中から、しばらく初めての雪を眺めていた。


 いつの間にか雪は霧に変わっていた。前が見えない。さっきのハイトの授業で聞いたばかりの雨の散乱。


「雲の中みたいだ」


 ハイトの言うとおりだ。それでいて静か。

 この霧が晴れたときに、違う世界にいたとしても不思議ではないと思った。

 そのときにはハイトがただ唯一の僕の血縁となるのだ。今はただでさえ、長く伸びた樹形図の先端でユギィたちは生きていて、人類は塔ができる以前よりは些か狭い共同体になった。ヒトは皆似たような顔をしているのに、いやだからこそ些細な違いに刺激されて諍いが起こるのだろう。鏡についた、自分を見つめなおすのには問題にならないくらい小さな染みがどうしても気になるように。

 僕とハイトが、ただ二人で知らない世界に行ったとしたら、僕らがお互いの鑑となる。かつては僕にとってはそれがオモトだった。

 僕が彼の中に見ていたのは、自分の願望だったのかと今やっと気づいた。熱く、広く、溶けない想い。それが輝いて見えたのだろう。

 唐突に思い出したのは彼を焼いた時の青い空だった。いつも彼が見つめていた青。 僕も手を伸ばし、まだ掴めていない。

 代わりに手に飛び込んできたのがこの別の色彩を持つ生活だった。

 比べるものではないことはわかっている。でも考える。

 ハイトが、メルムが、僕の大切なヒト達がいなかったら、僕はどんなヒトになっていた?


 影がよぎった、気がした。


「ハイト、見えたか?」

「うーん、なんだろう、影が見えたような」


 霧はまだユギィたちの機体を包み込んでいる。

 鳥にしてはでかい。嫌な予感がする。


「機体を東に向ける。塔の壁に寄ろう。右旋回」

「了解。右旋回」


 コクピットの計器で方角を確かめる。そんなに塔からは離れていないからすぐに壁につくだろう。

 対物センサには先程反応はなかった。気のせいか、もしくは対象が素早いか。

 ユギィはあえて雲から上には出なかった。こちらも見えないが、向こうからも見えないほうが良い。


「ハイト」


 息子に呼びかける。目をやると、ハイトはごくりと生唾を飲み込む。


「わかってる。父さん、ダダかもしれない。」

「父さんがいるから大丈夫だ。静かに騒がず……」

「……大事なのは、正確さと、速さ。」


 ハイトは噛みしめるように呟く。


 静けさ。

 塔には近づいてきたはずだが、まだ壁を探知するレーダーには反応しない。

 前は見えない。音に耳を凝らす。

 静かだ。


「ハイト、そろそろ塔に」

「父さん!!」


 左後ろ、副操縦席側の窓に見覚えのある不定形。窓を突き破ろうとしいる。

 ユギィは判断が遅れた。なぜなら。ハイト。ダダがそんな近くに。


「父さん!!!」


 ハイトは自分で動いた。ユギィの射撃操縦桿を奪い、対象にスポットする。正確に、速い。


 ユギィにはやけに光景がゆっくりと見えた。ハイトの肩越しに、副左砲が火を吹くのが見えた。

 適切な選択だ。そして躊躇がない。

 火花がダダを爆ぜ、霧の中に消える。

 一撃。


「父さん……ったよ」


 ハイトが震える声で言う。

 ユギィはあっけにとられてしまった。自分が動けなかったこと以上に、息子が自分を超えることを確信したことに驚き、現実味をなくした。


 その日初めてハイトはダダを殺した。


続く

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