第9話 インセンス

 目の前に立つ女性は俺の元恋人。


柚鈴ゆずさん」


 彼女の名前は白川柚鈴しらかわゆず

 同じ大学で学部は違うけれど合同サークルの新入生歓迎会で知り合った。

 見た目は派手でもなく地味でもない。性格は明るいけど、目立つタイプではないがみんなの輪の中にはいて人気は常にあった。

 マットブランの髪色で少し肩にかかるくらいの長さ。くっきり二重でどちらかと言うと可愛い系だ。


 彼女と色々話してるうちに親しくなり付き合う事になった。だけど、三年生になったあたりからお互い忙しくなり会う回数も減った。俺の家とか泊まったりもしたけど気づけばフラれたって感じだ。


勇人はやとの家に行って来たんだけど」

「俺の家に?」

「うん・・これを返しに来たの」


 彼女は何かを取り出した。俺の家の合鍵だ。


「別に送ってくれたらよかったのに」

「そうもいかないでしよ?はい。」

「まあ、そうだけど」


 鍵を貰うと彼女はこう言う。


「勇人、雰囲気変わった?」

「へ?そうか?」

「うん・・何だろう、とても優しい感じがするんだけど」


 自分ではわからないもので、彼女はこちらを見ている。バイトまでまだ時間もある。いくら別れたとはいえ、わざわざここまで来てくれたんだ。


「駅まで送るよ。ありがとうな」

「・・うん」


 俺達は並んで歩き出した。


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 こうやって2人で歩くのも本当に久しぶりだ。付き合って間もない頃はよく、2人で買い物をしたものだ。駅に向かう道はとても楽しかった事が多かった。だけど、今日は違うんだろうな。何も話さない柚鈴さん。そうか・・時間は進んでいるんだと改めて感じる。


 駅に着き柚鈴さんとはここでお別れだ。


「それじゃ、気をつけて帰れよ」


 思えば彼氏らしい事してなかったのかも知れない。彼女は段々と俯いていく。


「柚鈴さん?」

「やっぱり、今までと違う感じだよ」


 どういう事なんだろうか、少し彼女が戸惑ってる気がする。


『それが魂として残る。人が人に伝える手段は言葉・・会話でしかないのだよ』


 抄湖しょうこさんの言葉が響く。柚鈴さんがそのような言葉を言うと言う事は言葉として伝えなかったんだな。


「何を考えてるか、わからない」

「え?」

「柚鈴さんにそう言う言葉を言わせてしまったんだなって今、改めてわかった。ごめん」

「勇人・・」


 きっと、色々考えたりしたんだと思う。自分の思考は相手も同じだと勘違いをする。それが少しずつズレが出てきてすれ違いが生まれたんだって思った。きっと、これは抄湖さんに出会えて感じた事なんだ。


「これからは自分の思う事、言葉にして伝えれるように柚鈴さんもなって欲しいと思う。何も言わなければわからないものだから。側にはいてやれないけど応援している」

「・・・」


 彼女との記憶はいい思い出ばかりではないけれど、一緒にいれた事はよかったと思う。

柚鈴さんは驚いている。

 それじゃと俺が微笑むと彼女は何か言いたそうな感じだったが


「うん・・送ってくれてありがとう」


 柚鈴さんは俺の背中をいつまでも見ていた。


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——次の日

 

 店内に流れる音楽は緩やかだ。マスターが蓄音機の前でレコードを選んでいる。コーヒーの香りとJAZZがマッチしていてこの空間はとても癒される。


So What——マイルス・デイヴィス


 マスターのセンスとてもいいんだよな。最近は深煎りばかりを飲んでいた為、今日は浅煎りをお願いする。マスターも今週のオススメは浅煎りコーヒーだから丁度良かったと言ってくれた。浅煎りはほのかに花の香りフルーティーの香りがする。


———パナマ産ゲイシャ


 中米の豆、ゲイシャ。なんといっても名実ともに世界一のコーヒー。希少価値ではなく、

純粋に豆の味で評価されていて高値で取引されるようになって突き抜けたフルーティさを持ってる豆だ。


「はい、勇人くんどうぞ」

「ありがとう。マスター」


 やっぱ、深煎りとは違い焙煎も難しい。最近はコーヒー専門店もある。コーヒーを味わってると扉が開く


———カランコロン


大志郎たいしろうウィンナーコーヒーを淹れてくれ・・おお・・勇人氏」

「ども!」


 抄湖さんがバタバタしながら店に入ってきた。髪にはプレゼントしたヘアクリップがついていた。やっぱ、似合う。


「今日はバイト行かなくていいのかい?」

「あ、それなんですが・・来年は就活ですしそろそろ準備も備えて今のバイトを辞めようかと

思ってるんです」


 切り詰めながら何とか学生生活を送ってるけど就活に向けて何とかやりくりしようか思ってるとマスターに伝える。


「今は少し抑えながらですけど、また、新しいバイト先を見つけようかと思ってるんですよ学業も大切なのでそれを踏まえてなんですけど」

「なら、ここでバイトしてみない?」

「え?ここで?」

「週一くらいならいいんじゃない?足りないなら増やせばいいし、それにゆっくりしたい時間もあるだろ?ここでの空間楽しんでくれてるだろ?」


 当たり前のように通い出して、マスターのお手伝いやら色々していたけど、考えもしなかった。腕を組んで考え込む。


「ははは、勇人くんが良ければだよ。君の焙煎選びとても参考になっていてね。コーヒーの淹れ方とかもそうだけど、君の日頃からのコーヒー愛に理にかなっていると思うよ?」

「左様、これから学業も忙しくなるであろうし

ここならある程度は都合もつくぞ?」


 抄湖さんもそう言ってくれる。


「いいんですか?時間を作るにはとても有り難い。たまにはここでのんびりもしたかったので

その形ならとても嬉しいです」

「こちらこそありがとう。詳しい話はまた、伝えるよ」

「はい!」


 学生にとっては有り難い事だ。ここでの知識や物作りも勉強したいと思ってたから、マスターに言われてとても有り難い。


「これから、卒論などに向けて動かねばならないだろう?」

 

 抄湖さんがレコードを手に持ち蓄音機に置く。流れる音は先程とは違い楽しい曲調だ。


——— One O’Clock Jump


 リズムを取る抄湖さんは可愛らしい。素の姿はこういう一面があるのかもしれない。


「勇人氏の学部ではここでの体験が生かされるのではないのか?」


 確かに学びとしての師はマスターだし、学業などは抄湖さんもいるわけだ。元々は父親の店を継ごうと決めたのだが・・。


「さて、こんな時間だ。行って来る」

「どこに?」 

「昨日のバイトだ」

「ウサギの着ぐるみ、またするの?」

「ウサギではない!」


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「クマだ!」


 仁王立ちする抄湖さん。確かめに来いと言われて行ったら誇らしげにしている。ウサギとかクマとかの問題か?


「おっ!」


 どこからか、音楽が流れ出して。抄湖さんは

小走りで走っていく。


———みんなー!クマさんと踊ろうねー!


 一緒にいたお姉さんと抄湖さんが音楽に合わせて踊り出す。


———クマクマクマ♪踊るよクマー♪


———リズムに合わせてクマクマクマ♪


 楽しそうに踊る抄湖さん。うん・・踊ってると思いたい。子供達が抄湖さんの周りに集まる


 本当、不思議な人だ。しばらく彼女を眺めていると、どこかで見たような男の子がいた。


「あの子って昨日の・・」


 少し、気になるのはクマ達が楽しそうにしてるのを見ているのに男の子は表情もなくただ、見つめているだけだ。


「どうした?みんなと踊らないのか?」


 俺は男の子に声をかける。男の子は俺を見るが俯いてそのまま走っていく。


「あ・・おい」


 寂しそうな表情、そう言えば親とか見かけないな?辺りを見てもそれらしき人はいない。


———クマクマクマ♪


「うわっ!?びっくりした!」


 クマが踊らながらやって来た。中の人は知ってるだけあってなんともおかしい。

 これってあれだよな?昔とかを思い出す。嬉しくてよくこうしたもんだな。クマを抱きしめる


「・・・」


 それと同時にクマの動きが止まる。微動だにしない。あれ?


———アタフタ


———バタバタ


「うおっ!抄湖さん!?」


 クマがいや、抄湖さんが暴れ出し、走り出す。


「わぁ!クマさんが走ってるー!」

「ついて行こうぜ!」


 子供達が嬉しそうに後をついていく。


「やべぇ・・」


 この日の出来事がきっかけで手を差し伸べたいと思う物語がまた、始まろうとしていた。遠くを見つめる男の子・・


「お母さん・・」


 君が悲しまないように

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