病み上がりの登校
例えば、目的地へ向かって歩きながらも、頭の中では全然別のことを考えているなどというのは、日常生活の中で頻繁に起きる出来事である。
脳内で考えているのは、俺の場合だと、帰ってからみるMVの選曲だとか、小遣いの使い道だとか、そんなところが主体か?
これが主婦なら、今日の献立とかになるだろうし、社会人ならば、何か仕事のことについて考えていることも多いかもしれない。
閑話休題。
と、いうわけで、神様というやつは気の利いたことに、我々へ大変優れた脳味噌を与えてくれていた。
毛皮もなく、歯や爪もしょぼく、他の大型生物に誇れる身体能力は、せいぜい持久力くらい……。
ぶっちゃけ、生物としてはなかなかの失敗作である我らホモサピエンスが地球の支配者として君臨できているのは、この脳味噌があるからであり、そこに異論を挟む人間は皆無であろう。
そんな誉れ高き神経中枢……。
それを、今、俺は久方ぶりに全力で稼働させていた。
こんなにもこれを酷使するのは、そう……同様の行為へ臨んでいた去年の秋ぐらいだろう。
加速する並列処理に、脳が悲鳴を上げているのが感じられる。
今、やっているのは、例えるなら、勉強をしながらも、ポテチ(コンソメ味)を食べ……。
加えて! どうやってか知らんがポテチの袋に仕込んでおいた携帯テレビの画面を、なんでバレなかったかは知らんが、隠しカメラに気づかれないよう確認し……。
かつ! やはりポテチの袋内へ仕込んでいたノートの切れ端へ、同じく放り込んどいた鉛筆で名前を書き込むような作業なのだ。
うむ! 左手が油でギットギトになりそうだな!
幸い、例えに出した夜神家の彼とは違い、俺の左手が油まみれになる心配はない。
が、脳の忙しさという点では、ちょいと名前と罪状を確認さえすれば、後は名前を書くだけで済んだ彼以上であろう。
唯一、救いと言えるのは、勉強机に置いたスマホから流れる音楽……。
デフォルトの設定だと、効果音や操作音に加え、歓声やコールまで聞こえてしまうが、今はそれらを切っている。
そのため、流れてくるのは純粋に曲と歌声だけであった。
――この歌声だ。
――この歌声が、俺を何度でも蘇らせる。
曲が終わったなら、左手でスマホ――ああ、もう画面を見るまでもない――を連打し、かつ、右手で問題を解く。
このサイクルを、決して止めることはない。
故人は言った。
二兎を追う者は一兎をも得ず、と。
しかし、同時にこのような言葉を残している。
一石二鳥、と。
……後者をかなえてやろうじゃねえか。
つまるところ、最後にものを言うのは、気合いと根性なのだ。
室内を支配するのは、シャープペンシルがノートを削る音と、スマホから流れる歌声……。
「圭介……。
あんたまた、そんな気持ち悪いことして……。
まあ、前もそれでちゃんと結果残したから、うるさくは言わないけどね」
食事を持ってきてくれた母さんからは、大いにキモがられた。
--
テスト当日の登校というものは、どうしたって気が重くなってしまうものであるが、この日、百地礼子の気が重かったのは、それ以外にも理由がある。
結局……。
自分は回復するまでに土日を丸々と使ってしまい、その間、ゲームは当然として、テスト勉強もろくにできなかったのであった。
ゆえに、頼りとなるのは、日頃の勉強成果と、金曜深夜からイベランと並行して行ったテスト勉強のみ……。
それも、体調を崩してからは明らかに効率を悪くしており、マンダムPや村田が踏み込んだ時点では、自分でも何をやっているのか認識できていない状態だったのだから、効果のほどは怪しい。
「おはよー」
「いよいよテストだね」
「マジ緊張するー」
クラスメイトたちが挨拶や雑談を交わす中、いつも通り、無言で自分の席へとつく。
とはいえ、雑談に花を咲かせる生徒は、普段と比べ明らかに少ない。
代わりに見られるのは、机へかじりつくようにしながら、テスト直前、最後の追い込みをかける者たち……。
今更、何かをしたところで、さほどの効果が見込めるはずもない。
しかし、単語一つ、数式一つでも覚えることで……あるいは、反芻することによって、少しでも良い点を得ようと努力しているのだ。
――私も、もう少しだけ、がんばってみようかな。
そう思い、鞄から単語帳を取り出す。
最初のテストは――英語。
正しいスペルを再確認しておいて、損になることは何もないだろう。
そんな風に思いながら、単語カードをめくっていたその時だ。
「おはよう」
ごくごく小さな……。
普段より静かな教室の中でも、自分以外には届かないだろう挨拶……。
それが背後からかけられると共に、声の主が、隣の席へと着席したのである。
「………………」
これまで、校内において、彼の方から話しかけられたことは一度もない。
それは、自分がコミュニケーション不全だからというのもあるし、何より、クラスメイトの目があるからであった。
高校生という生き物は、とにかく、周囲の恋愛話を好むもの……。
自分とマンダムPは、彼氏彼女というわけではない――そう、きっとない――が、親しくしているところを誰かに見られ、噂話のターゲットにされたりするのを、どちらからともなく避けていたのである。
校外の商業施設で待ち合わせる際も、わざわざ別々に学校を出るくらいの徹底ぶりだ。
それが、向こうの方から、周りにバレないよう配慮してとはいえ……話しかけてくれた。
その事実を嬉しく思えるのは、自分にも年頃の娘らしい感性が備わっている証拠だろう。
そして、わざわざ彼がそうしてくれた理由にも、心当たりがある。
――あれから。
――ログインしてなかったもんね。
我ながら、極端から極端へ走るとは思うが……。
マンダムPが見舞いに来てくれて以降、ゲームへのログインそのものを封じてきたのであった。
あえて、デイリーミッションすら達成しない理由は、一つ。
――ケジメ。
……である。
すでにイベントポイントの積み立てで得られる通常報酬は全て獲得しているため、アナザー衣装やデイリーミッションの報酬さえ気にしなければ、一切プレイする必要がない。
そのため、しばらく……テスト期間中は一切のゲームプレイを諦め、療養と可能な限りのテスト勉強へ専念すると決めたのだ。
そう、マンダムPへ宣言すると共に、自分自身を戒めるため、このような縛りを己に課したのである。
宣言するといっても、ログインしなければ直接に伝えることのできない自分であったが、そこは頼れる家人たちがいた。
村田を通じ、この旨は彼に伝えられているはずだ。
ただし、それは、この縛りを続ける間、彼と一切のコミュニケーションが取れないことをも意味している……。
電話番号を交換するなり、チェインをダウンロードするなり、方法はいくつか存在するだろう。
だが、どうにも、そういった一般的なコミュニケーションに免疫のない自分なのである。
また、ゲーム内のチャットを通じて会話するからこそ、彼を身近に感じられるという理由もあった。
そういう関係も、きっと世の中にある。
そして、そういう関係が、居心地よいのだ。
だから、当面の間、コミュニケーションを諦めていたのだが……。
「………………」
きっと、いつも通り、自分は無表情なのだろう。
何も言えないまま、ただじっと彼のことを見つめる。
そんな自分に、周囲へバレないよう小さく……ほんの少しだけ手を振ってくれたことが、嬉しかった。
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