間接キス

 むう……。

 頭が少し痛いか……。


 スマホのアラーム音が、脳の奥底まで浸透していくような……。

 滅多に味わったことがない寝不足の感覚に悩まされつつ、起床する。

 場所は、百地邸の客室だ。


 用意されたベッドは、明らかに俺が普段使っているそれよりも上等な代物だが、こういうのは、体の慣れが大事だよな。

 いまいちフィットしておらず、それが寝不足感を増している感じはあった。


 だが、それ以上に……単純に、睡眠時間そのものの短さが効いているだろう。

 親父さんとなんやかんや盛り上がって、深夜二時くらいまではゲームのプレイ……つーか、布教に勤しんでたものな。


 だが、後悔はない。

 沼へ沈められる瞬間は見逃さず、きっちりと泥中に叩き込む……。

 頭頂……見えなくなるまで……!

 それが、オタとしての矜持であり、Pたる者の使命なのだ。


「六時、か……」


 枕元で充電していたスマホを取り、時間の確認。

 同時に、バッテリーがチャージされていることも確認した。

 俺は鞄やリュックを持ち歩く際、必ずモバイルバッテリーを携帯している。

 今日び、スマホの電池が切れることは、あらゆる繋がりから切断されることを意味するからな。

 大げさではなく、地上にいながら孤島へ取り残されたような気分を味わえるのだ。


 と、そんな風にしていると、ドアがノックされた。


「はい」


「おはようございます。

 身支度の準備ができていますので、どうぞ洗面所をお使い下さい」


 姿を現したのは、やはり、ジャージ姿のお兄さんである。


「ありがとうございます」


 彼から、タオルや使い捨ての歯ブラシ、ひげ剃りなどを受け取って、案内されるまま、洗面所へと向かう。

 ソシャゲの『日課』やスタミナ消化は、寝る前、親父さんへの布教がてらに終わらせており、問題はなかった。

 放っておくと、おそらく、放課後を迎える前あたりでスタミナが溢れてしまうけど、それは、休憩時間などに消費しておけばいいだろう。


 若い衆の皆さんに囲まれながら洗顔を終え、客室へ戻る。

 そして、学校の制服へと着替えた。

 洗っていないスクールシャツというのは、どこかヨレているというか……独特の着心地悪さであるが、たまにはこういうのも悪くないだろう。


 昨日着ていたパンツとシャツは、もらったビニール袋へ入れて、ジャージと一緒にリュックへイン。

 臨海学校や修学旅行でもないのに、着替えた下着を荷物へ入れるのも、新鮮な感覚だった。


「朝食は、居間の方で親父たちと一緒にお取り下さい」


「分かりました」


 こうなると、部屋住みというよりは、執事か何かみたいだな。

 着替え終わるのを見計らって現れたお兄さんに連れられ、居間へ。

 何もかも、いちいち大げさなこのお屋敷であるが、畳敷きの居間もまた、かなりの広さである。


 多分、何かの行事……ヤクザ屋さんの組長宅なんだから、そりゃ色々とあるだろう。

 そういった際、大勢のお客さんを迎え入れても大丈夫なように、座卓は長大なものを用意しているし、掛け軸を始めとする調度品もまた、見るからに気合いの入ったものが揃えられていた。


「やあ、おはよう。

 いや、はや……今日も学校だというのに、すっかり忘れて遅くまで話し込んでしまい、申し訳なかったね」


 座卓の中央部――家長が座るべき位置で、ジャージのお兄さんたちにお茶やら何やらを配膳してもらっていたのが、親父さんである。

 いや、もう、そのように他人行儀な言い方はすまい。


 彼のソウルネームは、ももやんP。

 たった一晩……正確には、三時間あまりの内に、五万円近くもぶっこんだ将来有望な新人プロデューサーであり、我が同僚だ。


「………………」


 一方、そんな彼の正面でちょこんと正座しているのが、ももちーPこと、百地である。

 昨晩、あんなやり取りをしたばかりであるが……。

 今日も彼女は無表情かつ無言であり、学校の制服姿でなければ、日本人形か何かのようであった。


 ただ、なんだろう……。

 どうも、しらーっとした雰囲気というか、呆れているような気配を感じないではない。

 まあ、気のせいか。

 主にエロめの衣装を着せてMV再生し、大興奮する俺とももやんPの姿でもこっそり目撃していない限り、そんな感情を抱く理由はあるまい。


「我が家の朝食は、大体が和風なんだ。

 口にあえばいいのだがね」


 ももやんPが告げた通り……。

 座卓へ並べられていくのは、和風の……ひどく豪華な朝ご飯であった。


 ごま豆腐、鮭の塩焼き、ひじき、切り干し大根、ほうれん草のおひたし、ぬか漬け、かぶの味噌汁……。

 特徴的なのは、味噌汁以外のおかずが、一品一品、一口サイズで小皿へ盛られていることだろう。

 それに加え、ももやんPは普通サイズの……百地は、非常に小さなサイズのお茶碗を用意されている。


「マンダム――万田君は、礼子の隣で食べるといい。

 お茶碗は、おれのと同じ大きさで大丈夫かな?」


 今、俺のことを魂の呼び名プロデューサー名で呼びかけたな?

 大変――結構だ。

 洗脳……もとい、布教の効果は絶大であった。

 後は、捨て置いても、ずぶずぶと沈むところまで沈んでくれることだろう。


 さておき、である。

 自分の腹具合を確かめてみた。

 これが若さというやつか、はたまた、布教に熱を入れすぎた結果、カロリーとして消費されたのか……。

 胃の中身は、ずいぶんと落ち着いており、普通の朝飯ぐらいは問題なく食べれそうな気配である。


 多分、少食な百地が、様々な品目を食べれるようにという配慮だろう……。

 おかずも、種類こそ多いが、一品の量は少ないしな。


「それでは、同じ――」


 だから、ももやんPと同サイズのお茶碗にしてもらおうとした、その時であった。


「――ん?

 どうした、礼子?」


 百地が、何やらスマホに文書を打ち込むと同時、ももやんPのたもとから着信音が鳴ったのだ。

 状況から見て、百地が父親にメッセージを送ったのだろう。

 それを確信しているももやんPが、自分のスマホを確認する。


「なになに……。

 『彼は、すごくたくさん食べる』と」


「………………」


 百地の視線が、俺に向けられた。

 無表情ながらも、彼女の雰囲気からは、なんとなく「任せておけ」という意思が伝わってきたが……。


 いやいやいや、お待ちなさいよ。礼子さん。

 たくさん食べられるのと、たくさん食べるのとでは、似たようでニュアンスがまったく違うんだ。

 俺の場合は、前者。

 確かに、昨日は脳のリミッターが外れて驚くほど食べられたが、別に毎食あんな爆食いをしたいわけではないのである。


 ももやんPも、似たようなことを思ってくれたのだろう。


「いやいや、礼子。

 いくら食べ盛りといっても、朝からそんなに食べるとも――」


「………………」


 父の言葉を遮るように、百地が高速スマホタイピングを見せた。


「ふむふむ……。

 『昨日も、デカ盛りのチャーハンを食べていた。それだけじゃない』……」


 読み上げたももやんPの顔が、瞬時にこわばる。

 一体、どうしたことか?

 見守っていると、彼はわなわなと肩を震わせながら、続きを読んだのだ。


「『私の食べ残しも、綺麗に平らげてくれた』。

 ほう? 礼子の食べ残しを?

 ほう? つまり間接キスを?」


「あ」


「あ」


 俺だけではない……。

 珍しく百地も、声を漏らした。


 そういえば、そうだ。

 言われてみれば、あれって間接キスじゃん。

 雰囲気がアレだったんで、まったく意識してなかったけど。


 さて、そうなると問題なのは、このシチュエーションである。

 目の前にいるのは、百地のパパであり、ヤクザの組長である人物……。

 周囲には、彼とその娘を慕うヤクザのおじさんやお兄さんたち……。


 多分、主が食べている間、何か言いつけられた場合に備えているのだろう。

 手下の皆さんは食卓へつかず、壁際にずらりと並び立つばかりだ。


 あるいは、万に一つの可能性とはいえ、敵対者が刺客を送り込んできた場合に備えているのか…。

 まさか、大事なお嬢さんと間接キスしていた大馬鹿野郎がいた場合に備え、ヤキを入れるために待機しているわけではあるまい。


 あるまい、が……。

 無数の視線が、俺に突き立つ。

 これは、アレだな。

 二作目のジョン・ウィックみたいな気分だ。

 向けられているのは、視線という名の銃口である。


「おい……」


 ももやんP……いや、百地の親父さんが、若い衆の一人に命じる。


「万田君のご飯は、どんぶりへ山盛りによそって差し上げろ。

 確か、何かの記念でもらった大どんぶりがあっただろう?」


「へい……」


 ジャージのお兄さんが下がり……。

 嫌な沈黙と共に待つこと、しばし。

 お兄さんが、ばかでっかいどんぶりを手に戻ってきた。


 それを受け取った別のお兄さんが、部屋の隅へ置かれた炊飯器から、素早くご飯をよそい始める。

 うわあ……これ、絶対に二合以上あるなあ。


 ドン! という音と共に、俺の前へ置かれるどんぶり。どんぶりだけに! ハハハ!

 親父さんと百地のお茶碗にも、それぞれごはんがよそわれ、食事開始となった。


「万田君、遠慮することはない。

 残さず食べたまえ」


 おだやかな声で告げる親父さんの目は、笑っていない。

 多分だが、周囲を囲う手下さんたちの目も、笑っていない。


「……いただきます」


 覚悟と共に、箸を手に取る。

 ああ、そうさ。

 分かっていたことさ。

 結論は、いつも一つ……。


 ――戦わなければ生き残れない!

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