害獣
うみかけ
リチャード
ベッドの上で眠ることも出来ずにただ横たわっている時、リチャードはこの世でただ一人自分だけが起きているのではないかという感覚に、延々と見つめられた。
人々は束の間現実を離れ、学生時代好きだった彼や彼女と愛し合ったり、あるいは死んだはずの父親に路地裏で追い詰められたり、あるいは知っているような知らないようなショッピングモールで迷子になったりしているのだろう。
しかしリチャードは紛れもなく起きていた。頭の中に無数の蟲が群がっていて、奴らは今活発に動き回っていた。それに、リチャードは腹が減っていた。日の出ている間は決して感じることのない飢えだった。
今夜は満月だった。
時計の針が2時を指した頃、リチャードはこれ以上はもう抗えないと悟り、服を全て脱ぎ捨てた。リチャードの身体は肥大化し、黒く硬い体毛と鋭い爪がみるみる伸びていく。口元はまるで狼のように──いや、リチャードは紛れもなく、人狼へと姿を変えようとしていた。
彼は獣に成り果てると、窓から素早く飛び出し、夜の世界に溶け込んだ。建物の屋根を伝って、黒い風のように疾走した。
やがて、リチャードは急に立ち止まると、下方を睨みつけた。若い男が2人、談笑しながら歩いていた。
衝動に駆られ、リチャードは彼らの背後から数メートル離れたところに、音もなく降り立った。コンクリートの地面を縫うように這って彼らに忍び寄ると、片方の男を前脚で殴り抜けた。
その男はもうぴくりとも動かなくなった。もう一方の男は、唖然とした表情を浮かべてリチャードの姿を認めた。リチャードは男の顔を見て、少し口角を歪めた。それから倒れた男の方を向いて、その上に覆い被さり、男の肉体を口の中いっぱいに頬張った。男を貪っている間、リチャードは横目でもう一方の男を見据えていた。
その光景から目を逸らすことができず、叫ぶこともできないまま、生きている方の男は腰を抜かして失禁した。男は目を見開いて涙と鼻水を流し、過呼吸になっていた。
リチャードは軽く唸り声を上げ、生きた男の方に身体を向けた。リチャードは今や完全に笑みを浮かべていた。牙の間から生暖かい息を漏らしながら、徐々に男との距離を縮めていく。
男の真ん前まで来ると、リチャードは男を見下ろし、舌舐めずりした。男はさらに息を荒げ、地面に突っ伏して泣いた。リチャードの全身の毛が逆立ち、彼は、月に向かって吠えた。男の身体を前脚で転がし、仰向けの姿勢にさせ押さえつけて、男の目を見つめたまま、牙を剥き出しにしてゆっくりと顔を近づけた。どろどろした涎が男の顔に滴っていた。男の鼻の手前で、リチャードはあくびをするように口を広げて、そのまましばらく口を開け放したままでいた。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」と、男がほとんど聞き取れない、掠れた声で言った。
リチャードは、ゆっくりと、男の肌に牙を食い込ませた。
リチャードの部屋のドアがバタンと開けられ、パンツ一丁にガウンを羽織った父が勢いよく入り込んできて、寝ているリチャードの胸ぐらを掴み揺さぶった。
「おい、起きろ!何時だと思ってやがる、このボケ」
リチャードは半目を開けて、全身の筋肉がこわばるのを感じた。
「ごめん、起きる、今起きたよ」
「じゃあとっととメシの支度をしろ」
父はリチャードの頬をつねった。父の息はドブの匂いがした。
リチャードが朝食を作っている間、父は新聞で凄惨な事件の記事を読む傍ら、リチャードの方を見張っていた。リチャードが慌てて食器の音を立てると、父はテーブルを拳で殴りつけ、がなり立てた。
出来上がった朝食をテーブルに置くと、父は指を動かし、近寄れと合図した。リチャードが父の髭で覆われた顔の方へ少し前屈みになると、父はリチャードの額を殴った。
「目玉焼きに焦げ目を付けるなと言ったろうが。何度言わせんだァ、おい?」
「ごめんなさい、作り直します」
言って、リチャードは台所へ戻り、その時ちらと、包丁に目をやった。
その気になれば、あんな
そう思って、次の瞬間にはもう忘れていた。
父の黄ばんだパンツを取り替えた後、リチャードは教会へと向かった。それは、神への祈りを捧げるためではなかった。彼は、同じ教会に通うレベッカという女性が好きだった。
リチャードが教会に着いた頃には、既にレベッカと、その夫であるニコラスが礼拝堂の席に座っていた。夫婦は小声で話し合っていた。リチャードがレベッカの方に視線を向けていると、彼女は軽く微笑み、リチャードは満ち足りた気分で笑みを返した。
レベッカが既婚者である事など、リチャードは気にしなかった。愛とはその程度の事で崩れさるものではないと、リチャードは考えていた。レベッカはいつも、彼を笑顔で歓迎してくれる。彼女が自分を気にかけてくれるだけで、リチャードは幸せだった。
それに、ニコラスはまるでミケランジェロの彫刻のように整った顔立ちの美男子だったし、親切で、頭も良かった。まさにお似合いのカップルだった。
神父が壇上で何やら唱えている間も、リチャードは斜め後ろからレベッカを見つめ続けていた。ニコラスが時折レベッカを抱き寄せたり、彼女の耳元で何か囁いたりするのも、リチャードは見ていた。
礼拝が終わって、リチャードはレベッカの方に歩み寄っていった。レベッカとニコラスは、神父と楽しそうに話していた。
「やあ、リチャード」
リチャードの接近に気づいたニコラスが言った。次いで、レベッカと神父も挨拶をした。リチャードはニコラスの瞳に吸い寄せられた。透き通る青い瞳だった。
「やあ、どうも。皆さん、何を話してるんです?」
「この子の事よ」と、レベッカは笑って、自分の腹部を触った。
レベッカは妊娠していた。祝福すべき事だった。リチャードは、おめでとう、おめでとうと繰り返しながら、手が痛くなるまで拍手をした。
ある眠れぬ夜に、リチャードは幼い頃を回想していた。
母は長い病に苦しむリチャードを熱心に看病し、彼の健康と幸福を神に祈った。どうして僕は病気なの、いつになったら治るのとリチャードが尋ねると、母はいつも、神様への祈りが足りないからよ、祈り続けなさいと答えた。
だからリチャードは祈った。神はなかなか祈りに応えてはくれなかった。
それどころか、病は悪くなる一方だった。神は、その巨大な指先で自分を転がして遊んでいるのではないかと、リチャードは思った。
やがて、母は過労で命を落とした。
リチャードは立ち上がる事すら困難な状態だったので、葬式には父だけが行った。
母が死んで2週間後、リチャードの病は完全に治った。ようやく、祈りが神に届いたのかもしれなかった。
胸の辺りに鋭い痛みを感じ、リチャードは我に帰った。昨晩ニコラスに刺された胸の傷が疼いたのだった。リチャードは傷を撫で、夫婦の味を思い出し、震えた。
その時、リチャードの部屋のドアが開いた。暗がりの中に、全裸の父が立っていた。
「ハンナ、ハンナ……ああ……」
母の名を口にしながら、父は床を軋ませ、リチャードにゆっくりと迫って来た。
リチャードはベッドから跳ね起きて、両手を前に突き出し、父との距離を取った。
「父さん、違うよ。あなたの妻は死んだんだ」
リチャードがそう言うと、父は唸り声を上げ、リチャードに向かって突進した。倒れたリチャードに馬乗りになって、涙と唾液を垂れ流しながら、リチャードの衣服を引き裂いた。
父は、母の名を何度も叫んだ。
次の満月の夜、獣と化したリチャードは、静かに廊下を進んだ。音を立てないよう、慎重に、父の部屋のドアを開けた。
口を開け、白目を剥いて寝ている父が、リチャードの目にははっきりと映った。リチャードは四つん這いになって、父のベッドに近付いた。
後ろ脚で立ち上がると、リチャードは死人のように眠る父を見下ろした。先ほどまでは、マグマのように殺意が激っていたのに、折れた枯木のように眠る父の姿を見ると、それはみるみる萎えていった。それは、威厳と力に溢れたリチャードの父ではなかった。ただの老人だった。
リチャードはそっと父の部屋から抜け出して、夜の街に繰り出すと、3人の見知らぬ男を痛ぶった末に殺した。
リチャードは家に戻ると、外壁をよじ登り、窓から自分の部屋に入った。
やがて日の出が訪れて、リチャードの肉体はどんどんと萎んでいき、彼は痩せた、気持ちが良いのか不快なのかはっきりしない表情の、たわいない男に戻った。
突然、部屋のクローゼットが勢いよく開いた。クローゼットの中には、片手に拳銃を構えた父が立っていた。
「化物が。俺の息子に化物はいない」
父の声は低く、掠れていた。拳銃を持つ手は震えていた。父は、泣いていた。涙と鼻汁で顔をぐしゃぐしゃにして、リチャードを見ていた。
リチャードにはそれが許せなかった。拳銃を向けられている事ではなく、父が葛藤しているのが許せなかった。リチャードは一歩、足を踏み出して言った。
「撃てばいいだろ。早く撃ちなよ。そうだ、あんたの息子は化物だよ。今まで数えきれないほどの人を喰い殺してきたんだ。気持ち良かったよ」
「黙れっ!!獣が喋るなっ!!」言って父は、拳銃を両手でしっかりと握った。しかしその手は震えていた。「動くんじゃない」
リチャードはさらに一歩、踏みよった。
「動くなと言ってる!それ以上近寄るな、獣がっ!!」
父は上擦った声で叫んだ。
「何を待ってるんだよ。今殺さなきゃ、僕は次の満月にまた人を喰う。でもすぐには喰わない。じっくりとなぶり殺すんだ。まず脚の腱を切って、動けないようにしてから──」
リチャードが話していると、父は膝から崩れ落ち、顔を床にうずめて咽び泣いた。拳銃は近くの床に転がり落ちた。父はごめん、リチャード、ごめんよ、父さんのせいだと、懺悔の言葉を吐いた。
リチャードは脳みその血管がはち切れるような怒りに駆られた。拳銃を拾い上げると、うずくまる父を銃底で殴った。何度も何度も、殴った。殴るたびに父は、鈍い苦しみの声を漏らし、そのうち父は、何も言わなくなった。
息を切らし、肩を上下させながら、リチャードは動かなくなった父を見下ろした。父の頭部からは黒い血が流れ出ていた。
しばらくすると、リチャードは拳銃を片手に、自分のベッドへと向かった。
眠れぬ夜は、もう二度と訪れなかった。
害獣 うみかけ @Umikake
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