サインが欲しいから

「いや、有名人のサイン、欲しいだろ」

「そ、それはそうかもしれないけど、今は違うでしょ!」


 ……今、甘味ちゃんのサインより大事なことなんかあるか?


「もーう! さっき見せたでしょ! ほら、これ!」


 紫永は呆れたような様子で、もう一度俺にスマホの画面を見せてきた。

 そこにはさっきと同じで、馬鹿でかい斧を持ちながら、あのよく分からない鬼を殴り飛ばす俺がいた。


「……そう言えば、なんで俺が写ってるんだ?」

「だからそれは私が聞きたいんだよ! お兄ちゃんバズってるんだよ!?」


 俺がバズってる。

 ……そんなこと言われても、あんまり実感湧かないんだけど。

 

「取り敢えず、風呂入っていいか?」


 紫永も怒ってないみたいだし、俺はそう言った。

 

「ちょ、待って待って! お風呂に入ること自体はいいけど、お兄ちゃん、配信チャンネル作ろうよ!」

「……なんで?」

「だから、お兄ちゃんは今バズってるんだって! チャンスなんだよ?」


 チャンスって言われてもな……配信の仕方とか全然分からないし。

 それに、顔をネットに晒すのは……いや、顔はもう晒されてたわ。

 

「……今始めたら、もしかしたら甘味ちゃんからサイン、貰えるかもよ?」

「やるわ。どうしたらいい?」


 俺が渋っていると察したのか、紫永はそう言ってきた。

 流石俺の妹。俺のことをよく分かってらっしゃる。そんなことを言われたら、やらないわけないだろ。


「取り敢えず、お兄ちゃんはお風呂に入ってきたらいいよ。後は私が準備しとくから!」

「……機材とか、いるんだよな? 持ってるのか?」


 この家にそんな物は無いはずだ。

 なのに、紫永はまるでそういう機材を持っているかのような口振りで話すものだから、俺はそう聞いた。


「うん。よく分からなかったけど、お兄ちゃんがバズってるって気がついてすぐ、買っておいたんだよ」

「いや、金、大丈夫か?」

「大丈夫だよ。お兄ちゃんが有名になったら、直ぐに返ってくるから」


 ……それは、有名になれたら、だろ? 有名になれるかなんて分からないんだし、不味いんじゃないのか? 


「俺が有名になれなかったら、どうするんだよ」

「大丈夫だよ。今なら絶対成功するから! 私、準備しとくから、お兄ちゃんはお風呂に入ってきて」


 紫永に鼻をつまみながらそう言われた俺は、渋々、お風呂場に向かった。

 臭いのは分かってるけど、妹に臭いと思われるのは精神的にきついし。

 

「お風呂、水は貯めてあるから、自分で温めてね」

「分かった」


 俺には『焔』っていうスキルがあるし、俺がお風呂を温めるのは日常的だから、紫永の言葉に素直に頷いて俺は脱衣所で服を脱いだ。

 これが俺たちの節約術だ。……まぁ、最初の方はお風呂を熱くしすぎて、俺が全身火傷するはめになったりもしたけど、今となってはいい思い出だ。

 ……うん。そう考えると、本当に家出をしていた三日間を申し訳なく思う。……俺が100悪いし。……ごめん。100は嘘かもしれん。俺が大事にしていたプリンを紫永が勝手に食べるからだ。9対1くらいで俺が悪いな。もちろん俺が9の方だ。


 そう思いながら、俺は風呂場に貯めてあった水を温めた。

 そしてそのまま、洗面器を使って適温に温めたお湯を頭からかけた。

 久しぶりのお湯……体に染み渡る……気持ちよすぎる。


 そしてそのまま、頭と体を洗った俺はゆっくりと湯船に浸かった。

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