第四十四話

「ごめん。君の好意は受け取れない」


 意を決して紡ぎ出してくれた彼女の告白に対する答えにしては、淡白すぎるのかもしれない。ただ、この淡白さは人の好意に気付きながらそれを無視し続けた人間ができる精一杯の誠意だ。こんなのは言い訳に過ぎない。いまと同じような茜色の陽が満ちる放課後の教室で、いつからか向けられてきた感情をずっと知っていた人間が、清純で汚れを知らない少女の感情を理解して朴念仁として存在し続けた人間が、『誠意』なんて言葉を使うのはおこがましい。それは傲慢だ。

 でも、傲慢で醜い感情だったとしてもいま紡いだ言葉が僕の真意だ。

 ただ、この真意は裏切りと同じだ。

 結局、僕もあいつらと変わらない醜くておぞましい人間だ……。


「……そっか」


 告白のときの勢いも、力強さも、彼女の言葉には籠っていない。代わりに寂しさとか細すぎる悲しみが含まれてる。

 ああ、どうか許してほしい。

 言い訳がましい上に、こんなことを言うのは人じゃないと思う。けれど、それでも僕は君を傷つけたいから君を袖にしたわけじゃないんだ。僕は君のことを思って……。

 いや、こんなのは保身だ。


「本当にごめんなさい」


 あさましい人間の口から紡がれる言葉に意味なんてあるんだろうか?

 結局のところ僕の口から吐き出されるのは、過去の自分がしでかした罪を隠すための言い訳でしかない。全ては僕に帰着する言葉でしかないんだ。


「……顔、上げてよ」


 震える声は、悲しみと微かな怒りを僕に伝えるには十分な力を持っていた。そして、拘束力もまた持っていた。

 顔なんてあげたくない。

 今すぐこの場から逃げ出したい。

 それが僕の本心だ。けれど、僕は彼女を傷つけ過ぎた。それが僕の意識の外にあったとしても、要因として僕が存在していたことは紛れもない事実だ。その事実から逃げ出すことは許されない。もしも、逃げ出してしまったのなら、いまの僕を否定しなければならない。そして、あいつらと自分を重ねなければならない。おぞましくて、醜いばかりの精神を持ったあいつらと同じ人間としての自分を認めなければいけない。

 これだけは絶対に嫌だ。

 だから、精神の品を保つためだけに、恐る恐る顔を上げる。徐々に視界を満ちていく彼女の存在に胸が痛む。

 ただ、この痛みは意外な方へと解消される。


「ミサヲちゃん。真摯に答えてくれてありがとう」


 胸が痛くて仕方がないはずなのに、彼女はさっぱりとした笑みを浮かべてる。爽やかで、清純で、後腐れのない全てが吹っ切れたような屈託のない表情を見せている。


「どうして?」


「どうしてって、いつもはぐらかしてばかりのミサヲちゃんが私のために時間を取って、こうして私の想いに答えてくれたからだよ」


 反射的に紡がれた僕の問いに、彼女は聡い言葉を紡ぐ。


「……」


「それにわかってたんだ。今日、学校に来た時、髪が短くなってたからさ」


「髪が短くなっていたから?」


「そう。女の子が髪を大胆に切る時の感情なんて決まってるじゃん」


「決まってるの?」


「うん」


 いいや、それは偏見だ。

 いや、これ自体が偏見か。


「だからさ、どっちかって思って、今日思い切って告白したんだよ。ただ、残念なことに二分の一の賭けに負けちゃった」

 無理やり作ったかのような痛々しい笑みは、無意識の非難が含まれているようで見ていられない。おおよそ、彼女の心に僕を責める気なんて毛頭ないと思う。

 けれど、この忌々しい思い込みが僕の目を逸らしてしまう。


「ごめん……」


「謝らないでよ。明日から気まずくなっちゃう」


「……そうだね」


「そうそう」


 もう、表情を認めることはできない。無理して作った明るさと、それが偽物であると証明する震える声音は僕の臆病さを一層強める。そして、かつての不安が蘇って、彼女を恐れてしまう。ありえないとわかっているのに、それがあり得ざる話だと知っているのに。


「だから、明日も今日みたいに接していい?」


 媚態を由来としないすこぶる甘い声が耳元でささやかれる。


「震えちゃって可愛い」


「止めてよ」


 告白の一瞬間前までロマンスの偶像だった僕から彼女は離れ、くるりと背を向ける。そして、手を小さく振って咳払いをする。さっぱりとしたこの応対は、きっと彼女自身なんだろう。委員長としての姿じゃなくて、僕に恋していた一人の女の子の姿じゃなくて、カヨっていう彼女自身だ。

 彼女は振り返らないと思う。後腐れなく明日を迎えるためには、思い切ってここで別れるのが吉だって知っているはずだから。そして、彼女がいままでの流れを壊すような人じゃないから。

 ゆえに無責任な微笑を小さな背中に向ける。それが僕の返答であり、彼女との関係性の全てだ。

 僕は貴女を信頼している。けれど、貴女を信じて疑わないことはできない。僕は貴女の中にどうして過去の不安を投影してしまう。だから、貴女の知らないところで、貴女を傷つけないために微笑む。それだけが僕が貴女に捧げられるものだから。


「じゃあ、また明日ね」


「うん、さよなら」


 彼女は学生鞄を肩に掛け、教室の後ろ側の扉から飛ぶように出て行った。普段から運動を嗜んでいると思われる彼女の足音は軽快で、印象を味わっている内に遠くに行ってしまった。

 ただ、遠くに行く代わりに近づいてくる人も居るらしい。

 その人は駆けだしていった彼女と交代するように、教室の前側の扉をさらりと開けて入ってきた。足音も喋り声も聞こえなかったから、教室の入り口で息をひそめて事態の収束を待っていたんだろう。そして、事態の結末が自分にとって最も良い結末となったからおぞましい笑みを浮かべて、僕の前に現れたんだろう。


「あんたって、意外とさっぱりしてるんだ」


「意外って。心外だよ。僕は基本的にさっぱりした人間のつもりだよ」


 妖しい光を両眼に宿すギャルちゃんの意識を醜い欲求から逸らすためにおどけて見せたけど、返ってきたのは恐ろしく鋭い眼光だった。どうやら個人的な領域に侵入してしまったらしい。


「気の利いた冗談も言えないの?」


「……ごめん」


「別に気にしてないから良い」


 嘘吐け。

 絶対に気にしていたはずだ。そうじゃなかったら、あんな人を殺すような目を向けてくるはずがない。


「なら、ありがとう?」


「そう受け取っておくのがベスト」


 とはいえ、下らないコメディを殺伐とした空間でもう一回演じるだけの気力は無い。それにこの空気に水を差すのはナンセンスだ。


「まっ、あんたの選択が無駄にならないように私も頑張るよ」


「それは頑張って」


「言われなくても。それじゃ、これから傷心中のミカに付け込んでくるから、邪魔しないでね」


「それは頑張らないで。いまのあの子の必要なのは慰めだよ。新しい愛じゃない。寄り添ってあげる優しさだけが必要だと思うよ」


 いまの彼女に必要なのは新しい恋じゃない。彼女に必要なのは、好意を袖にされたことによって生じた孤独を癒す時間と、それを手助けしてくれる人の存在だ。

 けど、それをギャルちゃんに伝えてギャルちゃんは理解してくれるんだろうか? この子は自分の欲求にのみ忠実だ。僕と彼女との間を取り持っていた時だって、ギャルちゃんの目には彼女しか映っていなかった。そんな人に弱った想い人を襲うなって言って通じるのか?

 俯いて考えても仕方がない。

 それに……、いや、僕の責任から外れたところにある訳じゃない。だから、もしも駄目だった場合、ギャルちゃんの表情がさっきと変わってなかった場合、何とか心変わりさせられるような行動に出よう。


「あんたって、人のこと意外と見てるんだ」


「そりゃあね」


 幸運なことに? 僕の懸念は当たらなかった。ギャルちゃんは目を丸くして僕を見つめたまま、気の抜けた言葉を紡ぐだけだった。ただ、浮遊感のある声の残響が消え去ると、ギャルちゃんは以前の面持ちを取り戻してクスリと笑って見せた。


「それじゃ、あんたの言う通りに動くよ。私の欲求はその後からでも果たせるだろうし」


「それが良いと思うよ」


 ギャルちゃんはカラッとした笑い声と共に、リョウの手によって短く切りそろえられた僕の髪を触る。そして、解れていた表情を再び強張らせた。


「新しい関係を大切しなよ」


 警句染みたギャルちゃんの言葉は重低音の響きを胸の内に与えた。


「わかってるよ。リョウだけが僕にとっての特別なんだから」


「なら、その感情を忘れないように。それとその感情にあまり依存しないように。また、あんたが壊れるところなんて見たくないからさ」


 ただ、再び解れた表情から紡がれた言葉は残響の余韻を全て消し去った。

 どうして、この子は僕の過去を知っているんだ?

 不確定な疑念が頭を過り、それを確定させようと口を動かそうとする。けれど、ギャルちゃんは僕の口が言葉を紡ぐよりも先に僕から遠ざかった。


「それじゃ、良い未来を。あんただけのね」


 そして、手を伸ばす僕を置いて彼女の追うために教室から駆けて、出て行った。


「……恐れなきゃ」


 夕陽は徐々に蘇芳に近づく。世界の全てを焼き尽くして、煤に塗れた世界とするようなくすんだ赤色に包まれていく。

 ああ、このまま世界が終わってしまえばいいのに。

 幸福の絶頂のまま世界が終わってしまえば、永遠の幸せが僕とミサカさんの間に保証されるのだから。僕だけの王国を、僕らの王国にしてくれた汚れを知らない神様の慈愛を一身に受けて、息苦しい俗世から解き放たれることはどれだけ幸福なんだろうか。

 もっとも、叶うことのないことに想いを馳せることは無意味だし、僕の胸中にある発芽して、根付いてしまった不安を駆逐することはできない。僕にできることはただ新しい清らかな神様の下で、不安によって傷つけられる心を癒すことだけだ。

 誰も居ない教室に着信音が鳴り響く。

 誰のスマホ? 訊ねる間でもない。僕のスマホだ。そして、それは僕が胸ポケットから取り出して、鳴らしたスマホだ。


「もしもし」


『どうしたのミサヲ?』


 旧友の低い声は心地よく耳の中で弾む。こうして心地よさを覚えているのは、昨日の行為があったからだろう。


「アマネちゃん。昨日と同じことシてよ」


 そして、過去のために、未来のために、清らかで穢れを知らない新しい神様のために、醜い僕は穢れた旧い神様に縋る。













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