第四十三話
眼前の翡翠色の瞳に灯る光はあまりにも美しい。一切の穢れが無く、ただただ僕という存在をいたわってくれる。
ああ、この光を前にどうして恐れる必要があるんだ?
もう、この人は言っているし、行動で示してくれたじゃないか。
清らかな人を疑う必要なんてないんだ。一心に彼女の言う全てを信じて、自分の想っていることを伝えれば良いんだ。きっと、ミサカさんはそれを受け取ってくれる。そして、相応の反応を示してくれる。
だから、そう、過去を投影する必要なんてないんだ。
「ねえ、ミサカさん」
「何かしら?」
不安定な情調の人を前にしても、ミサカさんは変わらず微笑んでくれる。
「ミサカさんは裏切られたことってある?」
「ええ、親に裏切られたわ」
そして、嫌な質問についても自身を傷つけて答えてくれる。
「ごめん」
「謝らなくて良いわ。それで、その『裏切り』がどうしたの?」
自らの傷を省みず、凛とした声音とそれと相反するような柔和な微笑でミサカさんは言葉を紡ぐ。
「中一の頃、中学で結構モテてた男子から告白されたんだ」
ミサカさんは疑問符を頭の上に浮かべながら、僕の記憶の中に居る彼を睨みつける。僕の目に、その姿は愛おしく映る。何時までも見ていたい。もし、人の表情を標本に出来る技術があったら、このミサカさんの嫉妬を僕は標本にしたい。本当にそれくらい可愛い。
「けど、その告白は僕の身に破滅をもたらしたんだ。モテるってことは、それだけそいつを想っている人も居ることの反証だからね。けど、当時の僕はそれを知らなかった。短絡的で楽観的な思考しか持ち合わせていなかったからさ。だから、僕は断ったんだよ」
愛おしさと可愛らしさが、記憶の苦痛を和らげる。
ただ、相変わらずあのときの後悔が湧き上がってくる。一度も話したことがなかったんだから、素っ気なく相手を振るのが当たり前だと思って、適当に断ったその無遠慮さが憎たらしくて仕方がない。
「人気のある人を袖にするっていうのは、それだけ恨みを買うってことに気付けなかった。そして、その恨みを向けてくる人もまた人気のある人だって。ある種の法権を持っていることを知らなかったんだ……」
痛い。
醜い。
汚らわしい。
触れるな。
見るな。
笑うな。
どうしてお前らは僕を傷つけたんだ。
鋏で、カッターで、コンパスの針で、拳で、足で……。
埃っぽくて薄暗い体育用具室、格子窓から差し込む冷たい秋の日差し、汚らしいマットに横たわる僕……。
「だから、誰も助けてくれなかった。僕が虐められていることを知っていながら、僕が傷ついていることを知っていながら」
ミサカさんの両肩を軽く押して、距離を取る。
「ごめんね、ミサカさん」
「ええ」
悲痛な表情を浮かべるミサカさんに痛みを覚えながら、ネクタイを解き、ブラウスのボタンを外す。
「結果、僕はこうなった」
何重にも重なったお腹に刻み込まれた過去の印を指さす。
ただ、ミサカさんの表情が僕の過去を聞いていた時の悲痛なそれから変わらなかった。それは別に無感動だったっていう訳じゃないと思う。刺激が強すぎたからだろう。
「それまで僕と接してくれていた子は距離を取った。けど、恨みが途切れた時、虐めの主犯格が転校したとき、その子たちは、いや、僕の体を傷つけて嘲笑していた子たちすら、僕にすり寄ってきた。僕の体に刻まれた傷があるのに、虐めをなかったことにするために、自分の身を守るために……」
二度と思い出したくない悲劇は心に暗い影を落とす。
けれども、この人は、彼女は、僕のこうした面も受け入れてくれる。この悲劇を理解してくれる。いや、この人だけじゃなくてアマネちゃんもそうだろう。
でも、アマネちゃんは駄目だ。だって、アマネちゃんは昔の僕を見ているから。
「だからさ、時間がかかるんだよ。それはこれからも同じで、一生涯変わることはないと思う」
痛みが和らいでいるとはいえ、いまの僕の顔は歪んでいると思う。けれど、声は凛としているはずだ。芯が通っていて、これから紡ぐ言葉について責任を担保するだけでの印象を持たせることができているはずだ。
それに、ほら、ミサカさんは微笑んでくれている。僕がこうして何かを伝えようとしていることを待ってくれている。
「けど、そんな面倒くさい意気地なしを……」
だから、伝えよう。
これは過去に対する清算だ。
そして、未来に対する賭けだ。
善良な少女であったころに負ったおびただしい傷とトラウマ、そこにミサカさんは善意を注いでくれた。善意の行く末には、過去を癒してくれる人がいた。決して完治することのない傷を優しく撫でて、その痛みをやわらげ、僕を受け止めてくれる人がいた。そして、その人は僕だけの王国を僕らの王国として再建してくれた。
だから、伝えるんだ。
「許してくれるなら。どうか受け取って欲しい」
「ええ」
淡白な言葉の裏には微細な感情が数えきれないほど編み込まれている。それは慈愛であり、恋慕であり、友愛であり、僕とミサカさんの間にある関係の全てを示す善意だ。
善意に敬意を、悪意に憎悪を、過去に餞別を、そしていまを迎え入れよう。
僕は笑う。屈託のない笑みを浮かべる。
ミサカさんは受け止める。
美しい微笑で。
「僕は貴女を好きになったんだよ。リョウ」
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