第四十二話

 酸素の欠乏と共に僕はミサカさんから離れる。そして、呼吸を乱すミサカさんの妖しい瞳を見つめる。

 駄目だ。欲望に負けてさらに欲しちゃ、僕はあいつらと同じようになってしまう。例えこの空気を壊してでも、僕は誠実なる確証を得なきゃならないんだ。僕に危害を加えてきたあいつらと僕は違うんだから。

 ただ、二つの愛と一つの欲望に柄にもなく囚われるミサカさんは、再び僕を求めてくる。本当に、愛おしくて愛おしくて仕方がない。

 けれども、僕はミサカさんの両肩を押して少し距離を取る。瞬間、ミサカさんの見せた曇った表情が胸を切り裂く。きっと、僕の覚えている切なさとは比にならない悶え苦しむ痛みを負ったんだろう。

 でも、美しい人を傷つけてでも僕は僕の欲しているものを、僕がミサカさんとこうしていられる状況を作った真正なる善意の意味を獲得しなければならない。そうしなければ、僕らの関係は爛れたおぞましいものとなってしまう。


「ねえ、ミサカさん。どうしてミサカさんは僕に善意を注いでくれたの?」


 侮蔑と苛立ちと冷淡な眼差しに晒されたところで心は折れない。酷いことだけれど、幾らかのわがままを許される。だって、ミサカさんは僕に対して好意を持っているから。


「それ、私の口から言わせる必要があるのかしら?」


「まあ、基本的には無いんだけどね」


「じゃあ!」


「けど、しなきゃいけないことなんだ。僕はミサカさんと爛れた関係になりたくないからさ」


 不躾な僕の言葉についてミサカさんは溜息を吐く。


「貴女らしいわね。本当に貴女らしく全く正しい判断よ。イライラするくらいにね」


「褒めてるの?」


「貶してるのよ。貴女と私自身を」


「そっか。けど、それなら嬉しいよ」


「マゾヒストなの?」


「信頼できる人の前なら僕はきっとそうなるんだろうね」


 そう、貴女を信頼しているからこそ僕は自分の性質を語ることができているんだ。

 だから、どうか教えて欲しい。

 僕が本当に貴女のことを信頼して良いのかどうかを知るために、それが必要だから。

 ミサカさんは頭を抱えて、ジトっとした目つきで見つめてくる。親密な呆れと軽蔑が含まれたその視線が僕を傷つけることは無かった。もはや、傷つく必要もないから当たり前だ。


「貴女、本当に面倒くさいわね」


「面倒くさくて結構。というか、ここまでの僕を見てきてその感想を抱くのはちょっと遅いと思うよ。多分、ミサカさんがいま感じてるめんどくささは、図書室で出会ったときに感じなきゃいけなかったものだよ。だから、こんなことを言うのははばかられるけど、ミサカさんの見る目は無かったんだよ」


「……」


 取り繕うことを止めた人間の口から漏れだした言葉は、ミサカさんの翡翠色の瞳に驚きの光を宿した。そして、ため息交じりの言葉たちを取り上げた。

 暫時、沈黙が僕らの間を満たした。もっとも、それが苦しかったわけじゃない。僕らは沈黙に含まれる意味を理解していた。互いに同じような意味を受け取っていたのかは分からないけれど、それでも、両者ともに穏やかな表情で見つめ合っていたんだから、おおよそ同じ意味を沈黙の中から汲み取ったんだ。

 微かに頬を赤らめて、ミサカさんは咳払いをする。


「貴女のことを……」


 ただ、僕の求める答えを前に、ミサカさんは言葉を詰まらせてしまう。心の奥底ではその言葉を早く受け取りたいと醜い欲求が手を伸ばして、催促の言葉を紡がせようとする。けれど、それを僕は形骸化した正義心でそれを抑え付ける。

 微笑むだけの僕がミサカさんの目にはどんな風に映っているんだろう? 一方的な要求を突きつけ、純情を辱めるろくでもない人間をどんな風に見ているんだろう。

 まあ、そんなのはどうでもいいや。

 だって、この人は僕のことを信頼してくれている。そして、僕もまた信頼している。それが事実だ。この人は僕を決して傷つけない。傷つけたとしても、戯れの範疇で片付くのだから。


「ミサカさん?」


「分かってるわよ。少し待って……」


 おぞましい感情を抱く醜い少女は、一人の聖い少女を傷つける。例え、その声音が心の底から心配するようなモノだったとしても、裏側には得手勝手な欲求がある。自らの飢えを満たすためだけの汚らわしい欲求が。

 なんて自虐したところで行為の痕跡が消えるわけじゃない。恥じらいに懊悩するミサカさんは残るし、そんな姿を見せるミサカさんに対してある種の快楽を覚えている僕も残っている。

 ただ、サディストとマゾヒストを兼ねた時間もいつかは終わりを迎える。

 恥辱と懊悩に涙ぐんでいた翡翠色の瞳は、たった一点を見つめる。それは僕の顔だ。意を決したミサカさんは、僕の曇った両眼を見つめる。そして、ゆっくりと口を開く。


「貴女のことを愛おしいと思ってたのよ。貴女に出会ったその時から」


「一目惚れってやつ?」


「陳腐かしら?」


「陳腐って言われれば陳腐だ。でも、一目惚れだとしたらどうしてあの日、僕のことを無下に扱ったの?」


 分かり切ったことを訊ねるのは罪になるんだろうか。

 いや、罪にはならない。だって、これは戯れだから。


「貴女と同じよ」


「僕と同じ?」


「そう。貴女を信用していなかったから」


「……なるほど」


「理解が早くて助かるわ」


 指で髪を弄りながらミサカさんは意地悪な微笑を浮かべる。いまのいままで辱めてきた相手の一本取ったのがよっぽど嬉しかったんだろう。そして、自分の苦行が終わって、僕の番となることについても。

 やらせたからには責任を取らないとだ。全ての行為には代償を払わなきゃいけない。逃げてきた現実に目を向けて、誠実な応対しなければならない。


「それで、貴女はどう想ってるの?」


 ミサカさんは得意げに笑って、そう訊ねてくる。

 なるほど、疑問符の終わりには痛みがあるのか。こんなにも動悸が激しくなるなんて思っても見なかった。顔を直視できないし、体温の上がり方は異常だ。冷や汗までかいてきた。ミサカさんが柄にもない得意げな表情を見せる理由もなんとなくわかる。こんな苦痛を後にすれば、誰だって得意げになる。

 胸いっぱいの苦しみを携えて、その痛みをこらえながら僕は口を開ける。体は強張るし、満足に言葉を紡げる自信もない。けれど、紡がなければ。それは義務だ。もし、これをしなかったらあいつらと同じになる。見て見ぬふりをして僕を見捨てたあいつらと……。

 あいつら?

 ああ、そうだ。あいつらに傷つけられた発端もこの感情だった。ミサカさんが僕に対して抱いて、一度は嘘として一緒に作り上げようとしたこの関係こそ、僕を滅茶苦茶に傷つけた要因だった。だから僕はそれを恐れたし、いまも恐れている。

 けれど、僕はそれに手を伸ばしている。


 恐ろしい。

 怖い。

 おぞましい。

 醜い。


 体温も緊張も失われていく。完全に信頼しきってるはずなのに、真なる言葉を得たはずなのに、僕はどうして過去に囚われなきゃならないんだ。いまの僕は過去と連続している。けど、過去の呪縛からは解放されたはずだ! なのに、どうして、こうも震えなきゃいけないんだ!


「フルタさん?」


「……ごめん、ちょっと待って」


「……分かったわ」


 弱虫で、意地汚くて、汚らわしくて、虚しい生き物の嘆かわしい弱音にミサカさんは寄り添ってくれる。そして、僕の右頬にそっと手をあてがうと、邪念の含まれていない美しい微笑を浮かべる。


「でも、安心して。私は貴女を絶対に裏切らないから。神に誓ってね」


 清らかな微笑と共に僕の左頬には誠実なる唇が落とされた。

 瞬間、僕の中に堆積する過去とそれに連関する無数の苦痛が浄化されたような気がした。後光とその温もりは、全てを癒してくれるのかもしれない。











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